ゆうきくんの探していたもの

 ゆうきくんの足取りは前にもまして、しっかりして、速度を速めているようでした。私はいったいここがどこなのか、学校を出てから何時間たったのか、時計を見る余裕も、街の名前を確かめる余裕もなくしていました。前を駆けるようにして歩いていくゆうきくんの姿をただ見失わないようにとそれだけを思っていました。ゆうきくんの軽やかな足取りに比べて、私の足取りは重く、他の誰と比べても足が遅くマラソンも苦手な私にとって、今の状態はもう限界をはるかに越えているような気もしました。(学校のみんなが心配しているに違いないに・・)わかってはいても、公衆電話に駆け込む間にゆうきくんを見失ってしまうに違いないという思いから、まだ電話もかけれずにいました。
 (ゆうきくんはどこに向かって歩き続けているのだろうか?あてもなく歩いているのだろうか?それとも何かを探しているのだろうか?)前だけを見て歩き続けているゆうきくんはもう行き先を決めているようにも見えました。けれど、ゆうきくんの気持ちを知る方法を知らない私は、もう何時間も歩き続けているゆうきくんはただ歩きたくて歩いているだけのようにも感じました。
 ゆうきくんのお母さんの言葉がさっきから頭の中に何度も何度も浮かび上がってきていました。
 今年の4月のはじめのことでした。スクールバスの発車の時間に遅れてしまったり、電話がなく、お母さんがご自分の車でつれてこられることがたびたびあるということで、主事の先生から、ゆうきのお母さんに「他のお母さんが待っているのだから、気をつけてほしい」というお話があったのです。おかあさんは少しためらわれて、やるせなさそうに、ためいきをつかれた後、怒りを抑えきれないようなはげしい口調で話し始められました。
 「私たちの苦しみなんて誰もわからないのです。学校の先生にはとてもお世話になっています。でも学校の先生は学校にいるあいだだけ、それも仕事じゃないですか?私たちはずっとなんです。ほっと安心していられるのはこの子が眠っているときだけです。それだからといって、眠っているからと安心して眠れるわけじゃないのです。もし私がこの子より後に起きたら、この子はもう家にはいないかもしれないのです。いつの頃からかこの子はすぐに外へ走り出すようになりました。私はそんなとき寝ている赤ん坊の弟をただひっつかむように抱きあげて、あの子の後を追いました。追いかけて追いかけて、捕まえようとしても、するりと抜け出してしまいます。そうなったら、私の追いつかない早さで走っていってしまいます。だから私はただあの子のあとを追うだけでした。赤ん坊がおなかをすかせて泣いても、おむつをずっとかえないままもう、おしっこもうんちも中でしていると分かっていても、それでおむつかぶれがひどくなっていっていることが分かっていても、おむつを替えたりミルクをあげることなんてできないのです。泣き叫ぶ赤ん坊を抱いていると周りの人が私のことを鬼とでもいうように見ます。そんなことなんて気になんてしてられないのです。下の子は運命なんだからしかたがないのよと思わせてきたのです。下の子が一歳半になったとき、荒れ狂う海にゆうきが入っていったことがありました。下の子は1歳半、言い聞かせても分かるはずがないのに、ここにいなさい、すぐ戻るから追いかけてきてはだめといいきかせて弟を浜辺に置き、ゆうきを追いました。ご存じでしょうけどまだ1歳半と言えば、親といつもくっついていなければ安心できない年頃です。かといって、下の子をつれて海にくことなどできるはずもなく、けれど追いかけなければゆうきが死んでしまうから、私を追おうとする下の子を、たった1歳と半のその子のほおをひっぱたいてついてくるなと叱りつけ、泣き叫ぶ子を岸においてゆうきを追いました。それまでだって、いっそ死んでくれたらとゆうきのことを何度も思ってしまったことはあったけど、今荒れ狂う海にむかって歩いている子の後を追わないでなぞいられないのです。ですが、毎日毎日の繰り返しの生活の中で、今日はもう追うことをやめようと思ったことも一度や二度ではありませんでした。追いかけている途中、もうやめたと座り込んでもあの子は決して振り返らないのです。私が後を追っていようと追っていまいとそんなことは気持ちの中にないのです。あの子の心に私などどこにもないのかもしれません。朝、あの子をバスにのせようとすることがどんなに大変なことなのか、察してはいただけませんか?連絡する余裕が私にあったら、私だってもちろんします。それができないのです。私の気持ちが先生にわかりますか?」
 お母さんのお話に主事先生も私たちも言葉を失っていました。自分たちのただひとりとしてお母さんのされていることの何分の一もできないと思いました。
 こんなこともありました。参観日にこられたお母さんが話して下さったのです。「下校の学校のバスから降りると、ゆうきはまたいつも歩き出します。今では保育園の下の子は家で待つようになって助かっています。それでもまだ保育園の他の友達がお母さん、お母さんと甘えているのをみると下の子が不憫になるんです。あきらめてもらうしかないと思っています。でもゆうきはこのごろ、どうして道がわかるのか不思議なのですけど、夕方、日の沈むころになるときまって、私の車がとめてある駐車場へ帰ってくるようになりました。初めての道でも決してまよわずにいつのまにかもどってこれるのです。どこへ行ってもそうです。そして私の車に乗りたがります。私たちは決まって海に行くんです。夕日が沈むのを二人で見ていると、こんな静かな時間をふたりでもてるようになる日がくるなんて考えもしなかったなあと幸せな気がします。今でも歩きまわることは変わってはいないけど、いつかもっと静かでゆっくりした時間があの子ともてるかも知れないという希望のようなものを感じるのです」
 学校では入学当初をのぞいて、ひとりでどこかへ出かけるということはほとんどありませんでした。たまにどこかへ行こうとしても、大きな声で「ゆうきくーん」と呼ぶと少しいらいらして、頭を自分の手でごんごんたたきながらも帰ってきてくれていたのです。
 けれど、4日前、悲しいことが起きてしまったのです。朝、ゆうきくんを送られたお母さんは、そのまま車でどこかへ出かけられる途中だったのだそうです。一旦停止の場所で、どうしてだかお母さんは一旦停止をされずに直進したのです。そしてとてもとても悲しいのですけど、ゆうきくんのお母さんは、大きな車とぶつかって、亡くなられてしまったのです。
 私たちも朝お会いしたところだったので、その電話が信じられませんでした。下校時までゆうきくんは学校にいて、それから私がゆうきくんの家まで送りました。お父さんは悲しみの中でお通夜とお葬式の間のゆうきくんのことを心配しておられました。「私の家に来ていただいてもかまわないのですが」とお話してもお父さんは首を縦にはふられませんでした。「ゆうきは亡くなった母親が、自分の身体の一部のようにして、守って大きくしてきたのです。父親として僕は何ひとつできなかった。これからは僕がゆうきを守っていかなければなりません。しかし仕事もあります。あまりにも大きい母親の苦しみを今になって思います。しかし、母親は自死ではないと信じています。ゆうきが戻る前に夕飯の買い物をするためにいつものあの道を通ったのです。苦労は人一倍しているけれど、あれはゆうきがいい方へ向かっているとこのごろうれしそうだったのです。夜は母親でなければだめなのです。先生に迷惑はかけられません。施設に2,3日入所を電話で申し込みましたが、今すぐでは職員の都合がつかないということでした。しかたがないので、三日間病院に入れることにしました。あの子を鍵で閉じこめることは忍びないし、それは母親があれほど苦労しながらも、けっしてしなかったことだけれど、ゆうきの命を守るためなので、三日間だけゆうきにも母親にも目をつぶってもらおうと思います」
 
 それが昨日までの三日間でした。ゆうきくんの同級生のお母さんが昨日の晩ゆうきくんを見かけられ、「母親が亡くなったことも知らないでいる様子のゆうきくんが哀れに思いました。うちの子だって、私が亡くなっても悲しむということはないでしょう。これが障害者を子供に持ったものの親の悲しみです」と連絡帳に書いておられました。
 ゆうきくんは今日、朝から落ち着かない様子でした。あっちへ行ったりこっちへ行ったりしてイスに座っている時間がとても短かったのです。私はできるだけゆうきくんのそばにいようと思いました。同僚にも今日はゆうきくんのそばにいたいので、他の子供たちへの補助をお願いしますと頼んであったのです。それなのに、ゆうきくんの前にいて、振り返ったときに、もうゆうきくんの姿がそこにありませんでした。外を見るとグラウンドのポプラの木の下をゆうきくんが駆けていくのが見えました。大声で同僚にお願いねーと言い残して、うちばきのまま外へ飛び出しました。
 ゆうきくんは少しも後ろを見ずに歩き続けています。つかれるということをまるで知らないみたいに、速度をゆるめず歩いています。こんなふうにしてお母さんはいつもいつもゆうきくんの後を歩いておられたのです。ゆうきくんは何を、そしてお母さんは毎日何を考えて歩いておられたのでしょうか?そんなことを考えて、ぼっとしてしまっていたのだと思います。車の急ブレーキの音に心臓がドキっと大きな音をたてました。ゆうきくんは赤信号で道路をわたっていきました。身体の力がへなへなと抜けていくようでした。けれど私だって信号が青に変わるのをまってなんかいられません。クラクションが幾度も大きくなったけど、そしてとても恐かったけど、謝るように頭を下げながらあとを追い続けました。もう昼もとうに過ぎた頃です。お母さんがおっしゃるとおり、どこを通っていてもゆうきくんが道を知っているのならおなかがすけば学校に帰るのではないかと期待していたことももうとうにあきらめていました。
 病院の鍵のかかる三日間もいて、今ゆうきくんは歩きたくてしょうがなくなっているのでしょうか?
 もう学校が終わる頃です。道行く誰かに何かをことづけようと思い立つけれど、ゆうきくんを見失わないようにすることが精一杯で、それもできないままです。ああ、お母さんはこんなふうにして毎日すごしていたのだ・とまた繰り返し思いました。もう足も痛くてたまらず、いるはずのない学校の同僚がさがしにきてくれてはしまいかと、あたりを見渡しました。いつのまにか繁華街はとうに通り過ぎ、狭い路地に入ってきていました。ゆうきくんは知っている道なのか、変わらずどんどん歩いて行きます。そして角を曲がって行きました。見失わないようにと急いだとたん、足がもつれて、そのまま溝に落ちました。もう私の足は限界に来ていたのだと思います。あわててたちあがって、歩き出し、角を曲がったとき、もうゆうきくんの姿はそこにはありませんでした。
 身体がかっとあつくなるのがわかりました。そしてきゅうにがくがくと身体がふるえました。お母さんが守ったゆうきくんを私がどうにかしてしまうのではないかと思いました。
 「ゆうきくん、ゆうきくん」大声で呼びながら、路地の反対の路地を曲がったとき、そこに広がった景色に息をのみました。
 ただ追いかけるだけで、どこをどう歩いたのかも知らずにいたけれど、そこには大きな海がありました。狭い路地から急に広がった大きな海は思いもしなかった景色でした。そして港のコンクリートの端っこにゆうきくんは立ち止まっていました。(ああ、ゆうきくんがいた)ゆうきくんのそばにいったとき、わたしの心臓がまた早鐘のように鳴り出しました。信じられないゆうきくんの姿をそこに見たのです。いつもいつも動いているか、ただぶつぶつつぶやくだけで、表情を変えることがなかったゆうきくんが涙を流して泣いていたのです。「海に来ようとしてたんだね。お母さんに会いにきたんだね。お母さんを探していたんだね」泣いているゆうきくんを私も泣きながら抱きしめました。
 お父さんに今日あった話をしたときに、お父さんがやっぱり泣きながら、私の目の前にノートを差し出されました。それはお母さんの日記でした。お父さんの差ししめられたところにはこんなふうなことが書いてありました。
 「私は今、やっとゆうきの探していた物がわかった気がします。ゆうきは学校バスを降りて、私の車を探すために歩きだしていたのです。回り道のように見えてもゆうきは夕方、日が沈む頃の私の車を探し出すために歩いていたのです。ゆうきが小さかったときもきっとそうだったのだと思います。眠っている私のそばを抜け出して、ゆうきが会いたい時間の私を探すために歩いていたのです。こんなこと言っても誰もわかってくれないかもしれない。でも何年も何年もゆうきのあとを追って歩き続けてきた私にはわかるのです。ゆうきは私のことなど少しも気にしていないと思っていたのに、違っていたのです。あの子がいつも探し続けているのは母親であるこの私だったのです。それがわかったことで、私はなおゆうきを愛せると思いました」
 「この日記を読んで決心がつきました。仕事をもう少しゆうきの時間にあわせられるものに変えようと思います。ゆうきはこれからも母親を探し続けるために歩き続けるでしょう。それとも母親がいなくなったのに気がついて、歩き続けることをやめるでしょうか?それとも今度は私を探してくれるようになるでしょうか?どちらにしても私はゆうきと弟のことを考えたいと思います。あの子たちは私たちのところに私たちの子供としてきてくれたのですから」お父さんが何度も自分で自分に相づちをうちながら話されました。

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