ふたりの始球式

今年は高校野球が始まって80周年になるのだそうです。それを記念して、金沢市の二つの野球場で、毎日始球式が行われることになりました。その募集があったのです。高等部の主事先生が、一昨年まで高校野球の監督さんをしておられたこともあって、クラスの洋ちゃんとのりくんの二人でバッテリーを組んで応募してみたらと教えて下さったのです。高校3年生の二人は、今年はたくさん思い出を作りたいと私に話してくれていました。だからとってもうれしいお話・・そう思いました。それでさっそく応募のはがきを書きました。
 のりくんがピッチャー、洋ちゃんがキャッチャー。ふたりの話し合いでそう決まりました。
 たくさんの人の応募があって、とてもうれしいことにふたりが始球式に出られることになりました。
 待ちに待った発表だけに二人やご家族や私たちは出られることがきまって大喜びしました。野球のユニフォームは主事先生が、小松工業高校の野球部にお願いして下さって、お借りすることができました。後ろにつけるゼッケンと胸の所につける校章は宮本先生と私で、縫ってつくりました。ベルトやソックスもお借りして、用意することができました。 そんなときに洋ちゃんのお母さんが学校にこられて「ふたりの名前は出るの?」っておっしゃったのです。私たちはとてもとてもびっくりしておろおろしました。というのは、学校の子どもたちは障害があるということだけで、作品に名前でなくイニシャルがつけられたり、写真にとられるときは後ろ姿だったり、それからご家族もまた子どもたちがいるということを隠されるようなそういう歴史があったからです。洋ちゃんが始球式に出れば、新聞にもテレビにも名前が大きくでるでしょう。お母さんはそのことをもう承知しておられるのだと思っていたのです。でも私たちの大きな勘違いでした。お母さんがおっしゃりたかったのは、私たちが心配していたこととは全く逆のことでした。「横断幕を作らないの?」ということだったのです。「せっかく出るんだもの。名前もみんなに知ってもらって、子どもたちがこうして頑張って生きているって知ってほしいよね」・・そういうことだったのです。お母さんは、そのあと、お店やさんで白いシーツを買ってこられました。それを横に半分に切ってつないで、大きな横断幕を作りました。その横断幕に校長先生が、ふたりの名前を大きく入れました。そして学校の友達たち、教員、学園の指導員の先生、看護婦さん、お医者さん、お母さん方、みんなで寄せ書きをしました。「どっちの選手の横断幕だ?って言われそうだけど、いいじゃないか、いい始球式になるぞ」と部主事先生も言ってくださいました。終業式の日に、壮行会を学校中してもらって、私もとてもうれしかったです。
 けれどそれまでにピッチャーののりくんは大きな迷いを乗り越えなければなりませんでした。のりくんは今歩行器を使って歩いています。道が悪いところに出かけるときに歩行器だとひっくりかえる心配があるので、車椅子にしたら?とお話しても、のりくんはなかなか首を縦に振りません。歩行器はとても不安定だし、身体の体重を全部歩行器にのせているので、なかなか両手が使えないということがあります。車椅子だったら楽なのに・・そんなふうに思ってしまう私たちですが、のりくんにとってはそれほど簡単なことではないのです。のりくんは中学生のときは、ひとりでお箸を使ってご飯を食べていました。高校1年のときはお箸だけではむつかしく、スプーンをつかって食べていました。そして高3の今は、ほとんど教師やお家の方の介助でご飯を食べているということがあるのです。少しずつだけれど、昨日できたことが今日はできないということを心が受け入れるということは簡単なことではないと思います。高3になったばかりのころ、のりくんはいつも下を向いていました。時折、手の甲を自分で噛んで、「思い通りに身体が動かなくてくやしい」と泣いていたこともありました。のりくんが歩行器でなく、車椅子の姿を外の人に見られるということは、今までできていたことができなくなったんだと知らせるような
つらい気持ちがあったのだと思います。
 始球式のマウンドまでは家の中や舗装の道路とは違います。それから玉をなげるときは、両手が使えなければなりません。学校の教員の誰もが、のりくんは車椅子で出るに決まっていると思いこんでいました。でものりくんは「車椅子で、みんなの前で投げるのはいやだ」と言いました。
 のりくんが苦しいとき、私も苦しかったです。車椅子でなければ始球式はむつかしいのです。でものりくんがいやと言っている車椅子を無理にすすめることは絶対にしたくありませんでした。
 ちょうどそんなときに雪絵ちゃんがFAXをくれました。
「私、車椅子で町に出るのはいやでした。金沢や松任で車椅子になんとか乗れても、小松では絶対に嫌でした。だって、知ってる人に見られるもの。それでずっとなんとか杖で小松に出ていたけど、今日は勇気を出して、小松に車椅子で出ました。お友達がさそってくれたのです。私はひとりでも車椅子はこげるけど、友達は車椅子を押してくれました。それでいろいろなところに行って楽しかった。車椅子でも楽しかった。そんなに人の目を気にせずにいられました。勇気を出してよかった・・今までこんなに嫌だったけど、うんと楽しい一日だったよ」そんなことが書いてありました。雪絵ちゃんが車椅子にのろうと思えたのは、迷って、迷って、考えて、自分できめたからだと思いました。私はのりくんにも自分で決めてほしかったのです。
 のりくんは何度も私に話しをしてくれました。「車椅子は嫌だ。出来ない人に見られる気がする」「でも歩行器だと、なげられない・・歩行器で行って、下におりてたてひざでなげようかなあ」「下におりても、コントロールがつけられない」「でも車椅子は嫌だ」「仕方がないかなあ。車椅子で行くの。洋ちゃんも歩行器使わないっていうし・・」「でも嫌だなあ、テレビにうつるし・・」・・・のりくんの気持ちは迷い迷いでしたが、少しずつ車椅子を受け入れるふうに変わっていきました。そして「僕、やっぱり車椅子にするわ。しっかり投げられるし、そんなに気にすることないよ。平気」・・
そうしてのりくんは自分で車椅子を選びました。私はただお話を聞いているだけでしたが、それでよかったなあと思いました。だって、のりくんはお話することで、自分の気持ちを自分で気づいていけたように思うのです。
 当日はとてもいいお天気でした。一番目立つところに横断幕をはればいいよと、会長さんが、テレビのカメラの方に一番いい場所を聞いて下さって、そこに横断幕を貼ることができました。どちらの高校も、それがいいよとゆずってくださったのです。
 緊張した二人の始球式は思い出深いものになりました。
 のりくんのお母さんは「これからの人生、大変なことがたくさんあると思います。今日がふたりにとっての始球式だと思います」とテレビのインタビューで話しておられました。洋ちゃんにとってものりくんにとっても、自分たちできめたポジションで、自分たちがきめた方法で、これからもすすんでいってくれると思います。
 そうですよね、のりくんだって、洋ちゃんだって、雪絵ちゃんだって、私だって、自分の人生は自分で決めていきたいもの・・

「わたしの気持ち」のページへ

メニューへ戻る

inserted by FC2 system