声の小さい私 

6月10日の私の日記に、こんなことを書きました。
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6月10日 目が壊れて涙がとまらなくなってしまったのかと思いました。昨日の映画の続きかな・・・本当に困ります。朝の会で、私は研修課の係なので、150人の大きな職員室で、他の学校の講演会や研修会のお知らせを言わないといけません。
 声が小さいのと、どきどきして、緊張してしまうので、いつもしゃべることを紙に書いて用意して、どきどきしながら、言います。いっそう声が小さくなります。
「山元さんは声が小さいので、朝の会が始まる前に真ん中に来ていてお話してね」
と前からずっといつも心配をしてくださっている教頭先生が言われたので、なんだかとても恥ずかしいけれど、朝の会の前に真ん中の場所で手をあげておしゃべりしていました。
 でもやっぱり小さいので、教頭先生が私の言ったことを繰り返して、言ってくださいます。なんだかなさけないなあと思って、でも、声が枯れるほど大きな声でおしゃべりしても届きません。そういう声なのかなと思うと悲しくなります。
 今日も言わなくてはならないことがあって、でもやっぱり小さかったので、教頭先生が
「明日から、マイクか、拡声器を用意してあげるね」
って言ってくださいました。
 親切で言ってくださって、それなのに、私は恥ずかしがりなので私だけマイクを使って言うのは嫌だなあと思ってしまって、
(ああ、今日も朝、おしゃべりしないといけないんだと思うとそれだけで学校へ行くのが気が重い)
と思っていたから、なんだか急にそのあとで涙が流れてとまりませんでした。困ったことです。
 本当に困っちゃう。お仕事なのに、泣いてしまうなんて、恥ずかしいと思うと、またあーあと思います。それから自分は声が小さいのだから、マイクを使ったらいいのだからって思うのに、なんで涙が出るのでしょう。電話の声も小さいので、相手に迷惑をかけてしまう・・・
 つい涙がとまらなくなったことで、もう一人の先生が、話すのは私がするから大丈夫、山元さんは貼ったり、整理するのをしたらいいから・・みんなできないことがあるからいいのだからと言ってくださったので、ほっとしたけれど、やっぱり申し訳なく、だめだなあという気持ちです。
 けれど、今の気持ちはどこかが間違っている気もしています。それは、雪絵ちゃんが車いすで町を歩くのが嫌だなとずっとずっと昔に言ったとき、私は「きっと大丈夫」って言ったのに、今の自分はどうなのかなと思ったのです。そのことと今の気持ちのことをちゃんと考えたいとも思いました。
 今日ははるちゃんがお休み時間にいっぱいしゃぼんだまをとばしていました。すごくきれいで、その影をずっと見ていました。楽しい気持ちになりました。
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 そんなことを書きました。たくさんの方が「大丈夫だよ」「元気を出して」とメールを下さったり、掲示板に書いてくださったりしました。それで私、自分の気持ちをいろいろと考えたりしたのでした。
 ある方はこんなメールを下さいました。
。。。。。。。。。
   単に情報を周りの大勢の人々に等しく伝えるために、という目的なら
   マイク使えばいいと思うんですよ。
で、それとは違う側面からの話になると思うんだけれど
周りの方々はもちろんマイクなんて使っていない
でも自分はマイクを握ってしゃべろうとしている、
もしそんな立場にたった一人でたたされたなら、
それでも自分はマイク使えるかな、と思います。
山元さんの日記に雪絵さんのエピソードが引用されていたけれど
大勢の中で一人「ちょっと違う」と思われる言動をとることは
とても勇気がいることだし、大変なプレッシャーだと思うのです。
本当に大切なことは「小さな声だってすてきだよ」という姿勢をもつ
ことではないでしょうか?
もっとも「少数の意見や存在はだめな存在」ーそう思わせている社会
の情勢に目を向け、
変えていくことが本質的に最優先なことと思いますが。

かこちゃんだったら、どんなことを
考えますか?
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 私だったらどんなことを思うでしょう。
 私の中に、たくさんの人と同じだとほっとしている自分がいるなあと思います。もし、みんながジーパンの日に、自分だけスカートだったら、なんだか恥ずかしいな、場違いだったかなと思ってしまう自分がいます。それから他の人みんなができることが自分だけできないと、恥ずかしいと思ってしまう自分がいます。だから、他の人がマイクを使わずに、朝の会でおしゃべりできて、私だけできないのは、悲しくなるのです。そして、そのことが、知らず知らずの間に、人を分けるということにつながっているのだと思います。
メールでいただいたように、「少数な意見や存在はだめな存在」と思いこんでいる自分が確かにここにいるのだと思います。
 昔、北海道の女性の方からお手紙をいただきました。
その方はこんなふうに書いておられました。
「私は、今、とても悩んでいます。私はアイヌです。そのことを両親は決して隠そうとはしません。いろいろな差別があるのに、両親は自分たちがアイヌだということに誇りをもっているのです。そんな両親を私はすごいなあと思っています。でも、私は違います。ご存じかどうか、わかりませんが、アイヌの人たちは、比較的、女性も男性も毛深い人が多いのです。そして私にも思春期になって、手や足や顔に濃い毛が生えてきました。私はそれが嫌で嫌でたまりません。だから剃ってしまいたいのです。でも両親は、それもまた、私たちがアイヌだという証だし、誇りだといいます。でも、私は体が毛深いと、自分が好きでなくなるのです。そのままでいることが恥ずかしいのです。それを言って、毛ぞりをしたら、両親がとても悲しそうでした・・・・・・」そんなお手紙でした。
  私はうんと昔のことだけど、ちょっとした病気になったときに、その治療薬の副作用で、頭髪が抜けやすいということが、ありました。そのときに、それが悲しかったし、不安でした。
 人というのはおかしなものだあなと思います。たくさんの人が体にあまり多くの毛が生えていないと、そこは毛深くないといいなあとのぞみがちだし、また私のように、髪の毛が抜けていくのが悲しかったということもある・・・。同じ毛なのにそうなのです。
 それはどうしてかというと、たくさんの人の状態を私たちが望むからなのだろうと思うのです。
 人はいろいろな痛みをかかえている・・そしてその多くが、自分が、他と違うのではないかとか、他より劣っているのではないかといった苦しみや悲しみだったり、そのために分けられるということから来ているのかなと思いました。
 そしてもうひとつ思ったのが、人と同じでないということをつらいと思う人の気持ちに、自分が気がついているかというと、そうではないのじゃないかと思ったのです。
 自分が他の人と違うということにはすごく敏感なくせに、他の人が、違うと言うことでもっている悲しみや苦しみに気がついているかというと、そうでない自分がいるように思うのです。そして、鈍感な言葉をかけてしまったり、態度をとってしまっているのじゃないかと思ったのです。今日はそんなこんなでいろんなことを考えたのでした。

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