へいちゃんの涙

今日の全校集会の歌もへいちゃんは好きなようでした。体を揺らし、ハミングしているのが車椅子の隣に、パイプ椅子を置いて、座っていた私にも聞こえてきました。
 瞬間何が起こったのかわからないほどでした。へいちゃんが私の髪をつかんで、ひっぱり、私の頭に歯をあてていました。周りの先生が「へいちゃん、離して…へいちゃん、どうしたの。離そうね」と懸命にへいちゃんの手をふりほどこうとしてくれました。へいちゃんはその時も何かに対して怒っている様子ではないのです。でもしっかり髪をにぎった手をなかなかほどこうとはしてくれませんでした。皮膚ごとはがれてしまうのではないかしらと不安になったけれど、やがてへいちゃんは手をゆるめてくれました。
 けれど、今日のへいちゃんはなんだか変でした。気持ちが高ぶっているようでもないのに、また私の髪に何度も手をのばそうとするのです。悲しくなって、「へいちゃーん?」と背中をなぜても、へいちゃんはやっぱり私の髪をさがしていました。
 そのあと教室へ戻ったへいちゃんはいつものように大好きな音楽に耳を傾けていました。同僚の先生が、へいちゃんに聞こえないように小さな声で「大丈夫だった?」と聞いてくれました。「うん」と返事をしながら、なんだか私、小さな子供のように声をあげてなきたかったです。どうしてだか、わからない…痛かったのは痛かったのです。今も頭の深いところまでじんじん痛いのは痛いのです。でもそういう理由ではない、何かわからない理由で、本当は声をあげて泣きたかったのです。でもそっと自分の親指を噛んで泣きたいのをがまんしました。だって泣いたらへいちゃんがきっと悲しむもの。
 家に帰って、おふろに入ったら、びっくりするほど髪の毛が抜けました。髪を集めたとき、ふと髪の多さはへいちゃんの哀しみの大きさみたいだなと思いました。哀しみの大きさ?だけど、あのとき、何にもなかったのに…それからお湯に入りました、湯船に面した窓の外の激しい雨音とひゅーという風音が心細くて、私はまた声をあげて泣きたくなりました。たったひとりだから少し泣いてもかまわないわとそう思ったとき、私はふとずっと以前のことを思い出したのです。
 へいちゃんの口にいつものように食事をスプーンにのせて運んでいるときでした。いつものように、ゆったりとした時間の中で、「どれから食べようか?」「今日はお豆とお肉とね、シチューがあるよ」そんな話をしながら、へいちゃんもいつものように口を開けて、食べてくれていたのです。それなのに、どんな理由も思い当たらないのに、へいちゃんの目がみるみるうちに涙でいっぱいになり、すーっと涙が流れたのです。「へいちゃんが泣いている…」なぜだか理由はわからいけど、泣いている…
 お風呂に入りながら私、そのときのへいちゃんの涙を思い出していました。どうして泣いたのだろう…どうして涙が流れたのだろう…
 へいちゃんはほとんど好き嫌いなく食べてくれるのです。だからきっと食事のことではないと思うのです。理由がわからないからこそ、へいちゃんの涙は私の心に深く残っていました。何か悲しいことを思いだしたのかしら?さびしいのかしら?
 今日だって同じです。その前に特別思い当たることなんて何もなかったのに…そうよ。あさっては参観日だってあるのに…おうちから離れているへいちゃんだからきっとどんなにか楽しみなはずなのに…
 でももしかしたら、へいちゃんはその参観日のことを考えていたのかもしれません。前にへいちゃんのお母さんが学校に来られたとき、別れ際に「今度は10日にこれるかな?…大変。こんなこと言ってもし来れないとへいちゃんにはつらがるから…」とお母さんがおっしゃったのです。私たちは少し驚きました。へいちゃんは目が見えないので、カレンダーを見ることができないのです。言葉がないということだけで、へいちゃんはカレンダーとは関係なく毎日を送っているように私たちには感じられていたのかもしれません。どうして、今日が何日ってわかるのかな?あと何日で面会日ってどうしてわかるのかな?そんなふうに考えてしまっていたのだと思います。
 へいちゃんのお母さんはへいちゃんが大好きでとても可愛がっています。小さな弟たちのお世話をされながら、お外でもお仕事をされています。でもいつもへいちゃんのことを考えられて、面会日などにはできるかぎりいらっしゃいます。参観日だってそうなのです。だからあさっての参観日にもきっといらっしゃるでしょう。お母さんだってへいちゃんと会うことを楽しみにされているのです。へいちゃんはお母さんと会える日が待ち遠しくてたまらないからこそ、お母さんが会いに来てくれるとわかっていながらも不安なのかもしれません。大好きなお母さんのことを思って毎日をくらしているのかもしれません。
 もし誤解があったらと思って心配なのですけど、おうちでへいちゃんが暮らしていないからなんてそんなこと言いたいわけでも思っているわけでもないのです。そうじゃないのです。誰だって、いろいろな不安や哀しみを持っています。愛している人を失ってしまったり、すごく不安なことをかかえていたり、自分の思いがとおらなかったり…そんな哀しみをかかえながら生きているのだと思うのです。誰だってそうです。誰だってそう・・それなのに、私はへいちゃんが言葉を持っていないだけで、そんなふうな気持ちをいつも抱いているということになかなか思いがいかないのです。だからその哀しみに気がつくことができないのです。今だって、へいちゃんの今日のことの理由がわかっているわけではないです。ただそうかな?って…参観日のことかなって思っただけ…だけど、へいちゃんが心の奥にいろいろな思いを持っていることをいつも思って、そばにいたいと思いました。そして私、やっぱりへいちゃんがとてもとてもいとおしくて、そうだ…私が声をあげて泣きたかったのは、こんなにも心が動揺するくらいへいちゃんがいとおしかったのだと思いました。

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