父の勇気
(前編)

 僕の父はもうこの世には居ません。平成9年、53歳という若さで、突然病に倒れ他界してしまいました。決して誇れる父ではありませんでしたが、唯一自慢できる事があります。それは「父の勇気」です。

 「息子さんは一生車椅子生活になるでしょう」と、父と母が告知をされたのは、僕が事故に遭った翌日、首の骨折が判明した時でした。父はショックのあまり、その場で腰を抜かし立てなくなってしまったそうです。そして、頭を抱え、小声で「まいった〜、まいった〜」と、いつまでも繰り返し言っていたそうです。
 父と母は僕の前では明るく振舞い、決して涙を見せる事はありませんでしたので、僕は父と母が絶望の淵に立たされている事など微塵も感じる事はありませんでした。しかし、陰では僕の将来を悲観し、毎日毎日泣き明かしていたのです。
 ある日、父は母に、
「泣いて泰之の身体が元に戻る訳ではない。一番辛いのは泰之なのだから、泣くのは今日で止めよう。これからは悲観的にならず、前向きに考えていこう」
と話したそうです。そして、最後に2人で思い切り泣き、前向きに考える事をお互いに約束したそうです。

 事故から1ヶ月後、僕の手術が行われました。それは身体の麻痺を治す為ではなく、首の骨折を治す為でした。手術後の医師から家族への説明の中で、
「手術中、傷んだ神経を治す為に、何度も手を加えようかと悩みましたが、神経に触れると命に危険が及びますので出来ませんでした」
と話があったそうです。父はその話を聞いて一筋の光を感じたそうです。そして、神経の再生が絶対不可能ではない事を確信し、「例え、日本の医学では不可能だとしても、アメリカの医学なら泰之の身体を絶対に治せる」と、アメリカでの治療を決意したそうです。僕は手術が終われば治ると信じていたので、まさか父がそんな決意をしているとは夢にも思いませんでした。
 事故から3ヶ月半後、僕は自分の障害について告知をされ全てを知りました。絶望感に襲われ泣きじゃくっていると、父は初めてアメリカでの治療計画を話してくれました。僕は父の話を聞き、半信半疑でしたが、父の意志を心強く感じ、ワラにもすがる気持ちで、全てを父に託す事にしました。

 父はすぐにアメリカでの治療の実現に向け、行動を開始しました。しかし、ここからが険しい道のりの始まりでした。
 父は先ずリハビリセンターでお世話になっている主治医に相談をしました。しかし、主治医からは父の期待に反し、絶対反対の返事しか返らず、話をまともに聞いてもらえなかったそうです。そして、逆に「現実を受け入れなさい」と叱られてしまったそうです。次に父は浦和の病院でお世話になった主治医に相談をしました。しかし、そこでもリハビリセンターの主治医同様、期待する返事を聞く事は出来ませんでした。父にとって2人の主治医が一番の頼りだったそうで、アメリカでの治療計画も主治医に相談をすれば何とかなると安易に考えていたようでした。
 父はいきなり壁にぶち当たってしまいました。父のイライラする様子は一緒に居て僕も母も感じていました。しかし、何も手伝う事が出来ず、ただイライラする父を励ます事しか出来ませんでした。
 父は知恵をしぼり、アメリカ大使館、旅行会社、東京の大きな病院へと足を運び、思い付く事は何でもしていました。しかし、何処へ行っても返ってくる返事は同じで、月日ばかりが流れていきました。結局、手掛かりは何1つとして見付からず、次第に父は気弱になり、「人が言うように本当に無理なのかもしれない」と思い始めたそうです。しかし、顔がかゆくても自分でかく事さえ出来ない僕の姿を見て、「ここで諦めたら悔いが残る。泰之を救えるのは自分だけだ。俺が絶対に治してやるんだ」と、自分を奮い立たせ、最後の手段として強行突破に出る事にしたそうです。それはアメリカへ直接行き、ドクターを探すという事でした。
 父は最後にもう1度、リハビリセンターの主治医に会いに行きました。反対される事を覚悟で、「紹介状だけでも書いて頂けませんか?」とお願いをしたのです。案の定、主治医の意見は変わらず、
「アメリカへ行っても、何処へ行っても、現代の医学で神経再生は絶対不可能です。保険の利かないアメリカでの治療は大金をどぶへ捨てるようなものです。それだけの大金を使うのでしたら家を改造し、車椅子で生活できる環境をつくりなさい」
と、紹介状さえも書いてもらえませんでした。この結果は残念な事でしたが、医師なら当然の言葉だと思いました。
 周囲からも反対の声がありました。アメリカへ行くと言っても、あてがある訳でもなく、知り合いがいる訳でもなく、医師の紹介状すら無いのです。父のしようとしている事はあまりにも無謀で反対されても仕方のない事でした。父自身、胸中は不安で一杯だったに違いありません。しかし、不安な素振りを一切見せず、いつも強気でした。そして、周囲の反対にも耳を傾ける事も無く、単身、アメリカへ渡ったのです。
 僕はアメリカの医学でも僕の身体を治せない事は主治医に聞かされ知っていました。しかし、治りたいという強い気持ちと、頼もしい父の姿から、父なら不可能を可能にし、必ずドクターを探し、僕の身体を治してくれると信じていました。


父の勇気(後編)に続く

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