父の勇気
(後編)

 父が向かった先はアメリカのロサンゼルスでした。
 日本では強気だった父も、いざロサンゼルス空港へ降り立つと、「このまま日本へ飛んで帰りたい」と思ったそうです。やはり不安は言葉の壁でした。そして、不安はすぐに現実のものとなったのです。
 予約しているホテルへ向かおうとタクシー乗り場を探したそうですが見付からず、近くにいた外人に話し掛けても言葉が通じず、なかなかタクシーに乗る事が出来なかったそうです。どうにかタクシーに乗ると、今度はドライバーに行き先を告げる事が出来ず、ホテルの名前と住所が書かれた紙を見せたそうです。ドライバーは「OK」と言って走り出したそうですが、本当に行き先を理解しているのかどうかも分からず、車窓から見慣れない風景を眺め「一体何処へ連れて行かれるのだろう? もしかしたら、このままとんでもない場所へ連れて行かれて…」と恐怖を感じたそうです。
 無事にホテルへ着きホッとしたのも束の間、困難は更に続いたそうです。部屋で一休みした後、食事をしようとルームサービスに電話を掛けたそうですが、ここでも言葉の壁に阻まれてしまったそうです。父が予約したホテルは世界的にも有名で、日本語が通じないとは予想もしていなかったそうです。父は部屋の前を通り掛かったベルボーイを呼び止め、おなかが空いている事を訴えたそうです。英語が話せぬ父も幾つか単語を知っており、ゼスチャーを交え、何度も「ハングリー」と繰り返したそうですが、ベルボーイから返ってくる言葉が理解出来ず、最後はお互いに頭を抱えてしまい、苦笑いをして別れたそうです。
 その頃、僕は週末でリハビリセンターから一時帰宅をしていました。時差を計算しながら父を心配していると、そこへ父から電話が掛かってきました。
「無事にホテルに着いた。これから何か美味しい物を食べようと思っている。明日は朝一番で日本大使館へ行き…」
と、父は元気に話してくれました。そして、
「泰之は何も心配をするな。必ずドクターを見付けて帰るから」
と、最後まで不安な気持ちを表に出す事はなく、僕も察する事は出来ませんでした。しかし、実際の父は静かな部屋に1人、空腹感に耐え、次第に込み上げる切なさと闘っていたそうです。外食も考えたそうですが、想像以上の言葉の壁に出掛ける気力さえも失ったそうです。
 日が暮れると、遠くの空に無数に飛ぶ飛行機の光が目に入り、その光の点滅を眺めながら「あの飛行機は何処へ行くのだろう? あれに乗れば日本へ帰れるのかなぁ」と考えたそうです。そして、ドクターを探すどころか食事さえ出来ない現実に自信を失い、「泰之には申し訳無いが『ドクターを探したけど、やっぱり見付からなかった。ごめん』と謝って、すぐに日本へ帰ろう」と、終に父の強がりも限界に達してしまったそうです。
 そこへさっきのベルボーイが部屋を訪れたそうです。そして、何やら告げると再び去って行ったそうです。父は話の中で「テレホン」という単語だけは聞き取れたそうですが、それがどうしたのかまでは理解する事が出来ず、「考えても仕方が無い。もうどうでも良い」と忘れる事にしたそうです。しかし、この「テレホン」が奇跡の始まりでした。
 しばらくすると電話のベルが鳴り、父が受話器をとると、男の人の声で、
「もしもし、千代さんですか? どうしました?」
 「もしもし」という日本語を聞いた瞬間、父は「助かった〜」と、物凄くホッとしたそうです。
 この男性の正体は別のホテルのフロントマンでした。名前を伊東さんと言います。伊東さんの話によると、先ほどのベルボーイが英語を話せぬ父を見兼ね、日本語が話せる人を探してくれていたそうです。そして、自分の彼女が勤めるホテルに日本人がいる事を思い出し、連絡をしてくれたそうです。
 父は伊東さんに訪米目的、言葉の壁、全てを話したそうです。すると、伊東さんは、
「そのような事情でしたら、うちのホテルにいらっしゃいませんか? 一般のホテルよりも宿泊代が高いですが、少しでも安くなるように上の者と交渉してみますから」
と言ってくれたそうです。父は「お金はどんなに掛かっても構わない。言葉が通じるだけで十分に有難い」と伊東さんの気持ちをうれしく思ったそうです。
 伊東さんの勤めるホテルは「プリティウーマン」という映画で舞台となった超高級ホテルで、ロサンゼルスの高級住宅地ビバリーヒルズにあります。
 父が到着すると、伊東さんが出迎えてくれたそうです。伊東さんはがっしりとした体格で髭を生やし、頼もしく感じたそうです。伊東さんはおなかを空かせた父をすぐにダウンタウンへ連れて行き、食事をさせてくれたそうです。そして、2人はすっかり意気投合し、冗談を交えて話せる仲になったそうです。
 翌朝、伊東さんがホテルの宿泊代について支配人と交渉をする事になり、父もその場に同席し、伊東さんへ話したように、事の全てを支配人に話したそうです。支配人は伊東さんが同時通訳した父の話をうなずきながら最後まで聞くと、急に立ち上がり、父に握手を求め、
「よくここまで来た。あなたの勇気に感動した」
と、快く宿泊代を安くし、そして、
「僕もドクターを探してみましょう」
と、協力する事を約束してくれたそうです。父は支配人の言葉がとても心強く、支配人の気持ちを有難く感じたそうです。
 交渉が終わり、伊東さんは仕事に戻り、父は部屋へ戻ったそうです。間も無くして、父が日本大使館へ行こうと準備をしていると、電話のベルが鳴ったそうです。それは伊東さんからの電話でした。伊東さんは声をはずませ、
「ドクターが見付かりました!」
 父は伊東さんが昨晩のように冗談を言っているのだろうと思ったそうです。しかし、それは冗談ではなく、事実だったのです。支配人は交渉の後、すぐに心当たりの人に連絡を取り、ドクターを見付けてくれたのでした。父は突然の吉報を夢のように感じたそうです。

 こうして言葉の壁に挫折しそうになった父は、一転してドクターを見付ける事が出来ました。早速、ドクターにアポイントを取ったそうですが、ドクターが忙しく、会えたのは帰国の当日だったそうです。ドクターもまた、父の話に感動し、握手を求めてきたそうですが、僕の身体を治せるかどうかは「レントゲンを見てみないと分からない」と話したそうです。
 父は数週間後、僕のレントゲンを持ち、再びアメリカへ渡りました。しかし、ドクターは、
「このレントゲンでは分からない。MRI(レントゲン)を撮って来なさい」
と言ったそうです。そして、
「MRIを撮ったらT大学のS教授に会いなさい」
と、ドクターの友人でもある日本人のS教授を紹介してくれたそうです。
 当時、MRIはまだ日本に2台しかなく、僕は千葉県の松戸まで行きました。首に金具が入っている為、熱を持たぬよう磁力を下げての撮影でしたが、どうにか上手く撮る事が出来、父は早速、MRIを持ってS教授に会いに行きました。S教授はお忙しい方らしく、1日に患者さんを数人しか診ないそうです。しかし、ドクターの紹介状を持っていた為、すぐに会う事が出来ました。S教授の方にもドクターから連絡が入っていたようで、僕のMRIを見ると、
「ドクターが可能性あると言うのも分かる。手術をしてみないと結果は分かりませんが、手術する価値はありますね」
と言ってくれたそうです。そして、
「ドクターは世界でも5本の指に入る脳外科です」
と、ドクターが書いた本や、今、行っている事を教えてくれたそうです。父はS教授の話を聞いて初めてドクターの偉大な力を知り、驚いたそうです。
 父は帰国する度にリハビリセンターの主治医と会い、話をしていました。そして、3度目の渡米を前に再びお会いし、ドクターの力について話したそうです。しかし、主治医が驚いたのはドクターについてではなく、S教授の事でした。
「何故、S教授と会えたのですか? S教授は私がまだ学生の頃、講義を聴きに行っていた私達にとっては雲の上の人です。S教授が可能性あると言うのなら…」
 主治医は首を傾げながら続けたそうです。
「ある? のかもしれませんね。私も何が何だか分からなくなってきました。とにかく、私はもう反対しません。良い結果を期待しています」
と、それまで反対していた主治医の考えも変わったそうです。
 父はMRIを持ち、ドクターの元へ行きました。今度こそドクターが出した結果で全てが決まります。そして、ドクターから出た言葉は、
「息子さんを連れてきなさい」
 終にアメリカでの治療が実現する事になったのです。

 この後、僕は自分の成人式の日にアメリカへ渡り、手術、リハビリを受けて日本へ帰ってきました。その結果、残念ながら僕の身体は治らず、父は、「西洋医学が駄目なら東洋医学だ」と力を尽くして頑張ってくれましたが、結局「父の勇気」は最後まで報われる事はありませんでした。しかし、僕は父に感謝しています。1度は絶望の淵に立ちながら、僕の事を想い、前向きに立ち上がり、周囲の反対を押しきってまでも何の手掛かりも無いアメリカへ渡り、約束通りドクターを見付けて来てくれました。
 父は、「もう1度、同じ事をやれと言われても、もう2度と出来ない」と言いましたが、僕は1度だけでも十分しあわせです。

 僕は父に恩返しも、親孝行も何1つする事が出来ませんでした。
 せめて気持ちだけでも天国の父に届けたい!
 お父さんは世界一です。
 お父さんの勇気は僕の自慢です。
 お父さん、ありがとう!

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