同士
(2000年4月〜)

 僕はこの年(2000年)の4月から、山元加津子さんのホームページ上で原稿を書き、載せて頂く事になりました。実は自分の障害者としての経験を原稿にする事は以前からの目標であり、いつか本を出版する事が夢でした。孝久君もまた僕と同じ夢を持っていました。僕はそれまで下手な小説を書いたり、笑い話を書いたりしていましたが、孝久君は少しずつ自分の経験を書いていました。しかし、治療が思い通りに行かなくなったり、精神的に不安定だったりと、あまり進まなかったようでした。
 僕がホームページで原稿を発表すると、それが良い刺激になったようで、孝久君は再び書き始めました。それまで本の出版は、2人にとって単なる夢でしたが、この時から同じ夢に向かって動き始めました。僕は以前から孝久君と1つ約束をしていました。それはお互いの事をテーマに、原稿を書くという事でした。お互い知り合って苦しい時を励まし合ってきた同士ですから、書きたい事はたくさんありました。しかし、照れくささもあって、なかなか書く事は出来ませんでした。
 僕も孝久君も必死になって原稿を書きました。僕は原稿を書けばホームページ上で発表しますが、孝久君は本になるまで発表をする予定がありませんでしたので、時々、送ってもらい、読ませてもらう事にしました。
 5月に入ると、2度目の抗ガン剤治療を終えたばかりの孝久君から原稿が届きました。孝久君の原稿を初めて読ませてもらいましたが、あまりにも文章が上手でしたので驚きました。孝久君から、
「文章におかしいところがあったら指摘して」
と言われましたが、例え、あったとしても僕の文章力を考えると、恐れ多くて指摘する事が出来ませんでした。原稿の内容は自分が病気に気付くところから始まり、もうすぐで僕との出会いというところで終わっていました。その先が早く読みたいと思いましたが、そこまで書く事も大変だったと思いましたので、それはこの次のお楽しみという事にしました。
 僕は7月までほとんど休まず、原稿を書き続けました。すると、それまでの疲れが一気に出てしまい、急に筆が進まなくなりました。それでも何とか頑張ろうと思いましたが、結局、筆は進まず、しばらく執筆活動を休む事にしました。その後、7月下旬の僕の誕生日に孝久君から「おめでとうメール」が届きましたが、原稿の続きは届きませんでした。本当は早く次の原稿を読ませて欲しいと思っていましたが、催促する事も出来ませんでしたので、届くのを待つ事にしました。

 9月に入り、秋雨が静かに降り続きました。
 9月8日の父の命日は、この年は亡くなってから3年目でしたので、一周忌や三回忌といった法事はなく、初めて静かに命日を迎えました。のんびりと過ごす中、僕も母も雨のせいか、それとも夏の疲れが出たのか、体調が優れず、精神的にもひどい鬱状態になりました。毎年この時期は父の葬儀、一周忌、三回忌と大変な事が続きました。その事を身体が覚えていて鬱状態になったのではないかと思いましたが、本当の原因は分かりませんでした。
 ある日の夕方、母と話をしているところへ孝久君のお母さんから電話が掛かりました。久しぶりの電話という事でお互いに、「御無沙汰をしています。お元気ですか?」と挨拶を交わしたのですが、孝久君のお母さんから、
「実は孝久君が亡くなったの・・・」
と、突然、悲報を告げられました。それまで僕は元気に挨拶を交わしていましたが、「えっ!」と言ったきり、言葉が出なくなりました。いつも孝久君を「孝久」と呼び捨てだった孝久君のお母さんが、君付けで呼んだ事がショックを増幅させました。一瞬にして悪夢を見ているような感覚になりました。孝久君のお母さんはその後もお話を続けられましたが、僕の耳にはほとんど入らず、心の中で「嘘ですよね? 嘘でしょ? 嘘と言って! 嘘だっ! 嘘と言ってくれなきゃ嫌だっ!」と、大人から子供に変わっていく自分を感じました。
 母は電話で話す僕の様子から、孝久君が亡くなった事を悟っていました。電話を切った後、僕は電話の内容を母に伝えようとしましたが、放心状態で死因が肺ガンだった事以外は、何も伝える事が出来ませんでした。
 悲報はあまりにも突然すぎて、悲しいという感情が湧かず、何度も、「これは夢? 現実?」と自問自答を繰り返しました。現実という答えが出ても、何かの間違いだという思いでしかなく、僕も母も「信じられない」という言葉以外、何も出ませんでした。過去に孝久君から連絡が無く、具合でも悪いのかなぁと心配になり、家族に連絡をした事がありました。しかし、孝久君はいつも元気でしたので、今回もいつものように元気で、一所懸命に原稿を書いているのだとばかり思っていました。
 その日は僕も母も何も手に付かず、夕食の時間が遅くなりました。遅い夕食を食べながら、やはり孝久君の事ばかりを考えました。時々、母と一言二言の言葉を交わしましたが、話は続きませんでした。沈黙が続く中、突然、悲しみが襲い、涙が溢れ出しました。それまでショック状態が続いていましたので悲しいという感情が湧きませんでしたが、きっと食事を摂った事で気持ちが安定したのだと思います。孝久君の死を受け入れてしまいました。しかし、すぐにまた悪夢を見ているような感覚に戻り、夢で良かったとホッとしました。その後、急に悲しくなったり、ホッとしたりと、しばらくの間、繰り返し続きました。
 夜になり、母がお悔やみの言葉を掛ける為、孝久君の家へ電話を掛ける事になりました。僕は孝久君のお母さんにお話をして頂いた事が、ほとんど記憶に残っていませんでしたので、「もう1度、孝久君の最期を聞いて」と母にお願いをしました。そして、電話を終えた母から、話を聞く事が出来ました。
 孝久君の体調が悪くなり始めたのは、6月の半ば頃だったそうです。その時にお医者様から余命まで宣告されてしまったそうです。僕が最後に電話で話したのが5月15日でしたから、1ヵ月後の出来事でした。僕はその頃、一所懸命に原稿を書いており、孝久君もまた原稿を書いているのだとばかり思っていました。7月下旬の僕の誕生日には、孝久君からバースデーメールが届きました。しかし、孝久君のお母さんの話では、その頃はもうパソコンに向かえる状態ではなかったそうで、「信じられない」とおっしゃっていたそうです。その話を聞いて、そんな辛い状態の中でも僕の為にメールを書いてくれたのかと思い、改めて孝久君との深い友情を感じました。8月、孝久君の体調は益々悪くなっていったそうです。相当苦しかったようで、言葉もほとんど交わさなくなり、最後は自分から呼吸器をつけて欲しいと、手まで合わせてお願いをしたそうです。そして、9月に入り、苦しみ方がひどくなったそうですが、9月9日、その日は苦しむ事もなく、穏やかな顔で息を引き取ったそうです。亡くなった後、身体を解剖してみると、あらゆる所にガンが転移し、身体中がガンだらけだったそうです。身体中がガンだらけだったなんて、どんなに苦しく、どんなに痛かった事でしょう。それを思うと、ただでさえ痛い胸が押し潰されそうでした。そして、孝久君が「死ぬ時は苦しまずに死にたい」と話していた言葉を思い出し、せめて苦しまずに亡くならせてあげたかったと思いました。
 ふと僕と母が2人揃って体調を崩し、鬱状態になった事が何かの知らせだったのではないかと思いました。今までに母と2人揃って体調を崩し、鬱状態になった事などありませんでした。悲報が届く前日は特に調子が悪く、僕は息苦しさを感じました。孝久君が苦しんでいた事を思うと、僕に助けを求めていたのかもしれないと思い、何も気付いてあげられなかった自分を責めました。
 孝久君のお母さんは、孝久君の原稿の事も話して下さいました。孝久君は僕に原稿を送った後も書き続けていたそうです。孝久君のお母さんは悲しくてまだちゃんと読む事が出来ないそうですが、その原稿は途中から、「今までありがとう」、「もっと長生きをしたかった」と、まるで遺書のように書かれていたと話して下さいました。孝久君は原稿を書いている時点で体調の変化に気付き、もう駄目だと確信していたのかもしれないと思いました。
 孝久君と最後に会った日がいつだったかを思い出すと、それは3年前の僕の父が亡くなった時でした。考えてみれば最後に会ってから3年という年月が流れていました。そしてあの日、とても元気だった孝久君が3年後に亡くなるとは想像もしていませんでした。命日も父と1日違いでした。
 孝久君が亡くなって2週間が過ぎた頃、孝久君が楽しみにしていたシドニーオリンピックが始まりました。開会式、柔道での日本人の活躍、他にも感動的なシーンがたくさんありました。どれも素晴らしいものばかりで、何を見ても孝久君にも見せてあげたかったと、そればかり思いました。
 執筆活動をしばらく休んでいましたが、孝久君との約束を果たそうと孝久君の事をテーマに原稿を書き始めました。しかし、亡くなったばかりでしたので、孝久君の思い出がたくさん蘇り、あれも書きたい、これも書きたいと、頭の中で整理をする事が出来ませんでした。そして、1ヶ月が過ぎでも文章をまとめる事が出来ず、今は書く時期ではないと分かりましたので、しばらく時間をおく事にしました。
 僕の家の電話機は留守電機能付きですが、今はその機能を使っていません。孝久君が亡くなり、3ヶ月が経ったある日、目の前にある留守番電話を見て、過去に孝久君が声を吹き込んでくれた事を思い出しました。「もしかして?」と思い、再生ボタンを押すと、いきなり孝久君の声が聞こえてきてビックリしました。留守電のテープは古いデータを上書きするように録音していきますので、あと1回、誰からかメッセージが入っていたら消えているところでした。僕は何度も孝久君の声を聞いた後、すぐにテープを電話機から外し、部屋に飾ってある孝久君の写真の前に大切に保管しました。
 孝久君と知り合って12年半の間、僕は励まされ続けてきました。励ましの言葉以外でも、孝久君が医者になるという夢に向かい頑張る姿、ガンと必死で闘う姿、その1つ1つが僕の励みとなりました。そして今、少しずつ身体が不自由になりながらも、最後の最後まで諦めずに頑張った孝久君の生き様が最大の励みとなりました。孝久君がいなくなり、改めて存在の大きさを感じました。これから孝久君の存在なしで、どうやって頑張っていけば良いのか分かりませんが、孝久君の意思を引き継ぎ、孝久君の分まで生き抜こうと思います。
 孝久君とはこの3年間、1度も会っていませんでした。その前を振り返ってみても、電話で話す事が多かったので、今でも電話を掛ければ元気な声が聞け、メールを送れば返事が届くような気がしています。孝久君は今でも僕の心の中で生きているのですから、孝久君の死を無理に受け入れる事は止め、悲しむ事ももう止めようと決めました。

 孝久君が亡くなり、2001年9月9日で1年が経ちます。
 そして今、孝久君の事をテーマにした「同士」という原稿が書き上がり、孝久君との約束を果たす事が出来ました。
 この原稿を孝久君に捧げます。
 孝久君、今までありがとう!

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