同士
(1997年春〜)

 2度目のガンを克服した孝久君は仕事に復帰しました。これでまた元気いっぱいの孝久君に戻ると思い、僕は喜んでいましたが、何故かこの頃から僕に弱音を吐くようになりました。僕が所沢へ会いに行った時はとても元気そうで、これからの人生の事もとても前向きに話していましたので安心をしていましたが、孝久君はガンを克服したからと言って、そう簡単に気持ちが晴れる事は無かったようです。
 話をする度、孝久君は、
「泰之君は強いね」
と口癖のように言いました。僕は「何で?」と訊き返しましたが、孝久君は、
「いや、泰之君は強い。強いよ」
と、そればかりを言いました。孝久君が言っている事は僕が強いのではなく、自分の事をまるで駄目だと言っているように聞こえました。何について駄目なのかは、はっきりとは分かりませんでしたが、やはり尿意や便意の事で悩んでいる様子がありましたので、その問題が孝久君を苦しめていたのではないかと思いました。また、以前のように患者を受け持ち、バリバリ働けない事や再びガンにおかされるのではないかという不安も大きかったのではないかとも思いました。
 僕が出来る事は少しでも孝久君の悩みや苦しみを和らげてあげる事だと思いましたので、接する時はいつも明るく努めました。しかし、僕が孝久君の力になりたいと思う時は、いつも失敗ばかりをしてしまいます。そして、孝久君にアメリカへ行くと言って行けなかった時のように、またしても大失敗をしてしまいました。
 ある日の夜、僕が孝久君へ電話を掛けた時でした。電話に出た孝久君は呂律(ろれつ)が回っていませんでした。僕はお酒を飲んでいるのだと思い、
「あっ、今日は飲んだの?」
と少し茶化すように言ってしまいました。しかし、呂律が回らない原因はアルコールのせいではなく、薬だったのです。孝久君は精神的に混乱する事が多く、夜眠れない事があったそうです。背中に虫唾が走り、落ち着かず、そんな時は精神安定剤を内服し、睡眠薬を飲まないといられなかったそうです。その話をしてもらった時、僕は何という事を言ってしまったのだろうと深く反省をしました。孝久君は慌てて謝る僕に、
「全然、気にしていないから良いよ」
と言ってくれましたが、僕は無神経な自分をとても許す事が出来ませんでした。そして、いつも空回りをしてしまう自分が情けなく、自己嫌悪になりました。
 孝久君が社会に復帰した事を喜んでいると、今度は僕の父が体調を崩してしまいました。父は胃の痛みを感じ、自分でも変だと不安になったようで、孝久君のお父さんに電話で相談をするようになりました。僕も父が心配でしたので、孝久君に父の症状を話し、相談に乗ってもらいました。すると、その時の孝久君には驚かされました。弱音を吐く事の多くなった孝久君でしたが、その時の孝久君は医者としての孝久君でした。アメリカで医学の話をしてくれた時も同じでしたが、医学の話をしている時の孝久君は自信に満ち溢れており、まるで昔の元気を取り戻したようで、僕はとてもうれしくなりました。
 父は孝久君と孝久君のお父さんに、詳しい検査を受けた方が良いと勧められました。病院が嫌いな父も重い腰を上げ、本当は孝久君のお父さんがいらっしゃる病院で検査を受けようと考えましたが、その頃はすでに痛みもひどく、東京まで行ける状態ではありませんでした。仕方なく近くの胃腸科の病院へ行き、胃カメラ検査を受ける事にしました。そして、その結果、胃の痛みの原因がガンだと分かりました。ガンの知らせは本来なら家族にされるものですが、僕に障害があるという理由で、僕も母も知らされず、父の兄弟の方へ連絡が行きました。
 僕も母もまさか父がガンだとは思いませんでしたが、その後は入院・手術と大変な事になり、僕は孝久君と連絡を取る心の余裕がなくなりました。また、父も誰にも心配を掛けまいと、「具合が悪い事を誰にも知らせるな」と言っていましたので、しばらく孝久君との連絡も途切れてしまい、連絡を取った時は父が亡くなった時でした。
 父の悲報を孝久君家族に知らせると、すぐに東京から僕が住む那須まで飛んで来てくれました。孝久君との思い掛けない対面はうれしかったのですが、出来ればもっと違う対面の仕方をしたかったと思いました。
 半年前に所沢で会った時は、孝久君はベッドの上でしたので分かりませんでしたが、その時、松葉杖で歩く孝久君は前よりも歩きにくそうで、「やはり金沢での手術が影響しているのかなぁ」と思いました。その後、一緒にビールを飲みながら夕食を食べました。途中で孝久君がトイレへ行くと、急に吐いているような声が聞こえ始めました。僕は心配になり、孝久君のお母さんに知らせましたが、孝久君のお母さんは、「大丈夫」と言い、気にも留めていない様子でした。僕は孝久君にとってはいつもの事で心配する事では無いのかなと思いました。トイレから戻ってきた孝久君にも「大丈夫?」と聞きましたが、孝久君もまた何事も無かったように笑顔で「大丈夫」と答え、僕は孝久君が僕の想像している以上に苦しんでいる事を知りました。
 父の葬儀以後、父が亡くなった事でたくさんの書類を書き、提出しなければなりませんでした。他にも四十九日や百箇日の法事など、どれも普段やり慣れない事ばかりでパニックとなり、悲しんでいる暇などありませんでした。そして、月日があっと言う間に流れていきました。
 父の死から3ヶ月が経ち、暮れも押し詰まった頃、孝久君のお母さんから電話が掛かりました。孝久君のお母さんの話によりますと、孝久君に元気がないので、元気付けようと年末年始にハワイへ家族旅行を計画したそうです。しかし、孝久君は「みんなの楽しむ姿を見るのが辛い」と旅行を拒否してしまい、孝久君抜きの旅行になってしまったそうです。それで、年末年始を1人でお留守番をする孝久君に電話を掛けて欲しいと頼んできました。僕は快く引き受けましたが、孝久君の気持ちが少し残念でした。孝久君の気持ちは分かりますが、せっかく家族の方が自分の為に旅行を計画して下さったのですから、例え、家族の楽しむ姿を見るのが辛くても、家族の優しい気持ちに応えなければいけないと思いました。
 年が明け、1998年の1月1日。僕は孝久君に電話を掛けました。きっと孝久君は暇にしているのだろうと思っていましたが、次々と友達の所へ電話を掛け、楽しく話をしていたようでした。僕は少し雑談をした後、旅行の話をしました。孝久君の家族に対する態度に、「家族が孝久君に優しくするのは当たり前だし、孝久君が家族に甘えるのも当たり前だと思う。でも、孝久君の場合、少し甘え過ぎじゃない? もう少し家族の気持ちを考えてあげた方が良いと思うよ」と話そうと思いましたが、孝久君の話を聞いているうちに僕は何も言えなくなりました。
 孝久君は僕に言われなくとも、家族の優しさを分かっていました。しかし、それに応えられないほど、精神的に辛く、悩んでいました。尿意・便意を失った心の傷は消えず、再発の不安を抱え、旅行を楽しもうと思っても心から楽しめるわけもなく、また、人が楽しむ姿を見る事ほど辛い事はありませんでした。僕はその気持ちを分かりもせず、孝久君を責めようとしていた事を反省しました。
 それまで甘え過ぎと思っていましたが、孝久君の心境を知ってから、もっともっと家族に甘えても良いと思うようになりました。孝久君が甘えられるのは家族だけですし、この安らぎの場さえも失ってしまったら、それこそノイローゼになり、自ら命を・・・ なんて最悪な事も有り得るかもしれません。そして、甘える孝久君に対して、家族も精一杯に応えていると感じました。孝久君のお母さんは孝久君が旅行を拒否した事で僕に愚痴をこぼしていましたが、留守中の孝久君を心配し、ちゃんと僕に電話を掛けるようにお願いをしてきました。本当に孝久君のお母さんは優しい方だと思いました。

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