同士
(1998年9月〜)

 月日は流れ、9月になりました。
 父が亡くなってから1年が経ち、無事に一周忌を終えました。一周忌が終わるまでは、「昨年の今頃はこうだった、ああだった」と精神的にも落ち着かず、母と2人、無我夢中で頑張ってきましたが、1年が過ぎると、どうにか父の居ない生活にも慣れ始めました。
 一周忌から1ヶ月が過ぎた10月下旬、孝久君から電話が掛かりました。それは半年ぶりの電話でした。孝久君に、
「久しぶりだね。元気?」
と明るい声で訊くと、孝久君から、
「実は今、アメリカにいるんだ・・・」
と、意外な返事が返ってきました。僕はすぐにそれが悪い知らせだと気が付きました。しかし、「再発したの?」とは怖くて訊けませんでした。何も言えないまま孝久君の言葉を待っていると、孝久君の口から「再発」という言葉が出てしまいました。
 孝久君の話によると、7月に肺にガンが見付かったそうです。すぐに手術する為の検査が行われたそうですが、その間に右腕が上がらなくなり、他の場所も詳しく検査をしたところ、頚椎の五番(首の骨の上から五番目)にもガンが転移している事が分かったそうです。肺だけなら日本で手術をする予定だったそうですが、頚椎にも転移しているという事で、慌ててアメリカへ渡り、治療を受けたそうです。しかも、驚いた事に7月からの短期間に4度の手術を受けたという事でした。
 2度目の再発の知らせはショックでしたが、その時、孝久君は手術を終えて退院をし、あとは抗ガン剤治療を残すのみでしたので安心をしました。抗ガン剤治療はその直後に始まる予定で、孝久君が、「副作用が治まったら、また電話をする」と話していましたので、僕も連絡をとる事を控えました。
 それからちょうど1ヵ月後、孝久君から電話が掛かってきました。しかし、それはまたしても意外な内容でした。僕は孝久君の1回目の抗ガン剤治療が終わり、副作用が治まったとばかり思っていましたが、孝久君は前回の電話の後、すぐにまた右腕が上がらなくなり、この1ヶ月の間に再び手術を受けたそうです。そして、この日退院してきたところでした。僕はまさかそんな事が起こっていたとは知らず、とてもショックでした。しかも、7月からの5回の手術で肺のガンは摘出できたものの、首のガンは取り切れずにまだ残っているという事でした。首だけで何度手術をしたのでしょうか? 詳しくは分かりませんが、首の骨を前後左右に4分割し、1回毎に人工の骨と取り替えていき、前後を取り替え、そして、左右どちらか一方を取り替えたそうです。全てを人工の骨にする事は好ましくないようで、残る左右どちらか一方はガンが残ったままでしたが、それはドクターの判断で残す事になったそうです。残ったガンが大きくならないか心配でしたが、今後は薬で抑えていくという事でした。そして、薬が効かない場合は、残りの1つも手術をするという事でした。
 驚く事は他にも孝久君の口から飛び出しました。僕が孝久君の体と精神的なものを心配し、
「手術は辛かったでしょ?」
と訊くと、孝久君はけろっとして、
「もう慣れた!」
と言いました。僕は孝久君が強がっているのだと思いました。しかし、話を聞くと、それは強がりではありませんでした。過去に肺だけでも十数回、手術を受けたと言うのです。僕は全く知りませんでしたので、「いつそんなにしたの?」と驚きましたが、どうやら連絡が途切れたりした時に、再発したガンを摘出していたようでした。僕は再び絶望感に襲われました。それまで孝久君が2度のガンを克服し、今回が3度目(2度目の再発)だと思っていました。再発する可能性が高い事は分かっていましたが、もう十数回も再発していたのでしたら、それこそイタチゴッコで一生ガンと闘いながら生きていかなければなりません。しかも、孝久君は1度目の手術で足を悪くし、2度目の手術で尿意、便意を失い、手術を受ける度に身体が悪くなっていきました。今後、どうなってしまうのか・・・? 考えたくはありませんでしたが、孝久君を待ち受けているものは死でしかないように思いました。そして、僕は医学に対しては素人ですが、孝久君はプロです。自分がどんな辛い治療を受け、どんな道を辿るかも分かっていたはずです。それがどんなに辛い事か、孝久君の気持ちを考えると胸が締め付けられる思いでした。
 孝久君の1回目の抗ガン剤治療が始まりました。前回、抗ガン剤治療だと思っていた時に、孝久君に大変な事が起こっていましたので、とても心配でした。孝久君は副作用の為、電話に出られない事は分かっていましたが、時々、電話を掛けては孝久君のお母さんに孝久君の様子を伺いました。そして、心配をしていましたが、再び突然の手術という事はありませんでした。
 しばらくして孝久君から電話が掛かってきました。それまで抗ガン剤の副作用には吐き気、脱毛、口内炎がある事は知っていましたが、改めて、脱力感や鬱状態になる事も分かりました。その時の孝久君はゆっくりとした口調からも分かりましたが、何もやる気がないという感じでした。そして、自分でも良くない事だと分かっていたようですが、「もう死んでも良い。どうにでもなれ」という気持ちになっていたようです。その後も抗ガン剤治療の前は前向きな孝久君も、治療後は鬱状態の繰り返しで、精神的にも安定していない事の方が多くありました。
 ある日の明け方、電話が掛かりました。誰かと思ったら孝久君でした。孝久君がいたのはアメリカでしたので日本とは時差があり、ロサンゼルスは昼間でも日本は明け方でした。何事かと思い心配をすると、孝久君は深い悲しみに襲われていたようです。本当はもっと早く電話を掛けたかったそうですが、日本が真夜中でしたので、朝になるのを待っていたようです。孝久君は相当辛かった様子で、話をしているうちに泣き出してしまいました。僕が、
「僕に出来る事があったら何でも言って」
と話すと、孝久君は、
「ロス(ロサンゼルス)に来て欲しい」
と言いました。僕も出来る事なら行きたいと思いましたが、それは出来ません。僕が困っていると、孝久君は再び、
「無理を言ってごめん。泰之君の状況が分かっているから無理は言わない」
と言いました。しかし、孝久君は無理を承知でも口にした事で気が済んだようでした。少しずつ声が元気になり、僕も安心をしました。
 僕はふと大ちゃん(原田大助)の詩を思い出しました。大ちゃんの詩は、孝久君から2度目の再発の知らせがある前に、テレビ番組を観て知りました。テレビで紹介された詩は少数でしたが、すぐに、「僕が求めている物はこれだ!」、「僕の心を癒してくれる物はこれだ!」と思い、詩集を買いました。そして、今の孝久君にも必ず大きな力になると思い、大ちゃんの詩を送る事にしました。どの詩も心に響き、感動するものばかりでしたが、僕はその中でも特に好きな詩を選び、書き写しました。書き写す作業を始めると、改めて感動が襲いました。

遠い道でもな
    大丈夫や
 一歩ずつや
 とちゅうに
  花もさいているし
 とりもなくし
 わらびかて
  とれるやろ

「さびしいときは心のかぜです」(原田大助 山元加津子著 樹心社)から引用。

 この詩を書き写した時は、しばらく涙で何も出来なくなりました。孝久君はこれから長い闘いになると予測されているだけに、この詩を読み、心に余裕を持って頑張って欲しいと願いました。
 詩が孝久君の手元へ届き、孝久君は読み終えるとすぐに僕へ電話を掛けてくれました。孝久君は、
「感動をして涙がボロボロと流れた」
と興奮気味でしたが、電話が掛かってきた時点で鼻声でしたので、僕は何も言わずとも分かっていました。僕は僕自身にとっても孝久君にとっても大ちゃんの詩と出会えた事をうれしく思いました。
 孝久君から2度目の再発の知らせを受けてから4ヶ月が経った1999年2月頃、孝久君から「5月頃には抗ガン剤治療を終え、日本に帰る」といううれしいニュースがありました。僕はこれで2度目の再発も無事に完治すると思い、安心をしました。
 予定より1ヶ月早い4月、孝久君は日本へ帰ってきました。しかし、それは妹さんの結婚が決まり、結納などをする為の一時帰国でした。孝久君は再びアメリカへ戻らねばならず、しかも、治療が思うように進んでいなかったらしく、5月までの予定が7月頃まで続く事になってしまったようでした。治療が延びてしまった事は残念でしたが、孝久君が日本へ帰ってこられた事が良かったと思いました。やはりアメリカは異国の地ですし、日本ではたくさんの友達にも会えます。精神的なストレスも解消する事が出来ると思いました。
 日本へ帰ってきた孝久君は、声のトーンからして明らかに違いました。孝久君に、
「久しぶりに元気な孝久君の声が聞けてホッとした」
と話すと、孝久君は「何を言っているの?」という感じで、
「アメリカにいた時も元気だったよ」
と言いました。僕は思わず、「え〜っ」と思い、「泣きながら電話を掛けてきたのは誰だっけ?」と冗談を言おうかとも思いましたが、せっかく元気になれた孝久君に辛い事を思い出させてもいけないと、
「もっともっと元気になってね」
と言ってごまかしました。
 僕も孝久君に会いに行きたいと思いました。しかし、母と2人でしたので東京へ行く事は難しく、孝久君も短期間の帰国でやらなければならない事もありましたので、会う事が出来ませんでした。
 孝久君は日本へ帰ってきたついでにノート型パソコンを買い、日本にもアメリカにも中継ポイントがあるプロバイダと契約をしました。それまでは時差の関係で話をする時間帯が制限され、お互いに時間を拘束してしまう事がありました。孝久君はその事を考え、メールを使えるようにしました。
 孝久君はアメリカへ戻る時、
「妹の結婚式が7月の下旬にあるから、それまでに治療を終えて帰ってくる」
と、僕に言いました。僕も今度こそ治療が延びず、7月には全ての治療を終えて帰ってきて欲しいと願いました。しかし、6月15日に届いたメールには「最後の最後までアメリカで治療を受けたかったのですが、予定が変更となり、6月下旬に帰国する事になりました」と書いてあったのです。僕にはその意味が分かりませんでした。首にはガンが残っていましたし、治療の施しようがなく、アメリカのドクターに見放されてしまったのかと心配になりました。他にも色々とケースを考えましたが、悪い事ばかりが頭に浮かびました。
 メールが届いてから間もなく、電話が掛かってきました。それはやはり日本へ帰るという知らせでした。電話の声は日本にいる時の明るさはなく、いつもの孝久君に戻っていました。孝久君に話を聞くと、日本へ帰る事を決断したのは孝久君本人という事でした。決してアメリカのドクターに見放されたわけではなく安心をしましたが、続く孝久君の話を聞いて、僕は辛くなりました。
 孝久君が日本へ帰る決断をした理由はお金でした。アメリカの医療費は保険が利きませんので、莫大な費用が掛かります。孝久君のお家はとてもお金がありますが、孝久君は自分の医療費にたくさんのお金を使ってしまった事を申し訳なく思っていました。妹や弟の事を考えると、もうこれが限界だと思ったそうです。治療にお金が掛かる事は、僕もアメリカで治療を受けた経験がありますので知っていました。お金は孝久君の家の問題ですので、僕が口出しをする事は出来ませんが、孝久君に、
「アメリカでの治療を諦めて、日本へ帰っても後悔しないの?」
と訊いてみました。すると、
「今まで後悔をしたくなかったからアメリカで精一杯の治療を受けてきたけど、もう悔いはない。あとの治療は父と話し合って何処かの病院でやって頂こうと思う。日本の医療は、現在は決して衰えているとは思っていないから大船に乗ったつもりでまた頑張るよ」
と話してくれました。孝久君は「悔いはない」と言いましたが、その陰には妹さんや弟さんの事があったからであり、本心は続けたかったに違いありません。その気持ちを思うと辛くなりました。
 その翌日、孝久君から再び電話が掛かりました。どうしたのかなぁと思うと、再び日本へ帰るという知らせでした。僕が、
「えっ、昨日、聞いたよ」
と言うと、
「あれっ? 話したっけ? いろんな人に知らせているから忘れちゃった」
と、孝久君は言いました。しかし、僕には忘れた原因が度忘れではなく、薬のせいだと分かりました。孝久君に「(アルコールを)飲んだでしょ?」と言ってしまった頃から、孝久君の様子がおかしい事が多く、それは全て薬のせいだと分かっていましたが、やはり様子がおかしい時は悲しくなりました。
 日本へ帰って来た孝久君は妹さんの結婚式が7月下旬にあり、その後、抗ガン剤治療を始めました。7月には治療を終えるという予定でしたが、またしても延びてしまいました。孝久君は改めて11月頃に治療を終え、年内いっぱいは休養し、来年から仕事に復帰する計画を立てました。
 9月に入り、抗ガン剤の副作用は治まりましたが、口内炎には悩まされていたようでした。治療がない時はとても暇だったらしく、頻繁にメールや電話が掛かりました。その中にはスポーツ観戦の結果や読んだ本の事などが書かれており、精神的にも落ち着いているように感じました。僕は孝久君が落ち着いている原因はきっと日本での治療だからだと思い、日本へ帰ってきた事を結果的には良かったと思いました。当時、野球のオリンピック予選が行われており、孝久君は松坂の活躍(12奪三振など)を観て、「これでオリンピックも優勝だ」と翌年のオリンピックを楽しみにしていました。

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