雄太さんのこと

 前の日、森川さんの夢を見たところでした。だから、どうしておられるかしらって考えていたところでした。それなのに、今日こんな悲しいお手紙をいただくことになるなんて……
 森川さんはNHKの報道記者。最初にお会いしたのは大ちゃんの本のことで、学校に取材にこられたときでした。恥ずかしそうに下をむかれて、でも笑顔がとても素敵でやさしい方でした。森川さんは他の記者の方とはどこか違った感じをうけました。そのころ、大ちゃんのことでたくさんの報道関係の方が学校にたずねてくださっていました。
「大ちゃんは素晴らしいですね」「大ちゃんの素敵さをたくさんの人に知ってもらいたいですね」とみなさんおっしゃってくださって、とてもうれしかったけれど、でもわたしは自分の気持ちとの間に少しずれがあるのを感じていました。たぶんそれはこういうことだと思います。大ちゃんは本当に素敵な感性を持っていて、わたしは確かにそれをたくさんの方に見てもらいたいと思っていました。けれどもわたしはそれと同じくらいに、いいえもしかしたらそれ以上に、素敵なのは大ちゃんひとりではなく、みんななのだ、みんな素敵なところがたくさんあって、最初あったばかりのときは、たくさんの気持ちを持っているということに気づかれにくい子供たちも実は本当にいろいろなことを考えていて、みんな気づいてほしいと思っているのだということを伝えたかったのだと思うのです。森川さんは言葉少ななのに、わたしの気持ちをきちんと受けとめてくださって、わたしが話したいと思っていることをカメラをまわす中でちゃんと質問してくださいました。
 そしてカメラを取りおわられたあとも、わたしたちは時間を忘れて何時間も話をしました。
 森川さんはご自分のお仕事のことを「僕は報道という仕事を、たくさんの人に伝えることのお手伝いだったり、世の中を変えるために役に立つものだという考え方ではないのです。大事なことを報道するということは人のためというよりも僕にとってとても大切なのだということです。まわりくどいけどわかりますか」と言われました。
 はっきりとはわからなかったけれど、世の中をかえたり、お手伝いになったりするのは結果なのだ、そういうことを考えるのは傲慢なのではないか、自分が好きで自分が大切に思うからするのだとおっしゃりたいのじゃないかしらと思いました。考えたらわたしだって、子供たちのためにいっしょにいるのではなく、子供たちといっしょにいたくて、子供たちの気持ちをしりたくてたまらないのはわたし自身なのだとそのときに思いました。
 取材をしてくださったときはちょうどオーム事件が大変なときでした。報道があるという日に、地震があったり、オーム事件に新しい展開があったりして、報道日が後へ後へとのびていって、森川さんはそのたびに、取材先から学校へ電話をくださいました。そのお電話はいつもお忙しいお仕事の合間にくださっていて、「今、オームの事件で来ているんですけど、ええ、現場です。上九一色村。今日は報道されないことになりました。でも絶対報道がなくなるということはないので大丈夫。また明日電話します」といった具合でした。「ちゃんと寝ておられるのですか」とお聞きすると「ほとんど眠っていないけれど、また小松に戻ったらゆっくりしますから、そしたらまた遊びにいきますよ」と大変な状況をたいしたことないようにおっしゃるのでした。
 オームの事件のときに森川さんがおっしゃったことで忘れられないことばは「ねえ山元さん、人間はときにとんでもない間違いをおかしてしまうけれど、本当に悪い人間はけっしていないと僕は信じますよ」ということでした。社会の状況が人間を誤った道へおいこんでしまうのだ、悪いことをしたことはけっして許されることではないけれど、なぜそうなったのかということを考えなければならないと森川さんはおしゃりたかったのだと思います。大ちゃんの報道のときにもけっして大ちゃん一人のことを考えられなかったように、何か事件がおきたときにも大切なことは何なのか、どこがまちがっていたのかを鋭く考えておられたのだと思います。
 森川さんと時々偶然お会いしたのはいつも本屋さんでした。金沢の福音館書店の前や、小松の王様の本の前で森川さんはやっぱりはずかしそうなそしてとびきりやさしい笑顔で「山元さん、あの今度こそ遊びにいきます」と言われるのでした。本屋さんでお会いしたことも今から思えば、とてもお忙しいスケジュールの中、いつも本を読んで、たくさんのことを知ろうとしておられたのだと思います。
 7月の終わりに広島に転勤になられるまでにも夜たまにですがお電話くださって、福祉のこと学校のことをお互いによく話をしました。広島に行かれてお電話がないのはきっとまたいそがしくしておられるからなのだろうと思っていたのでした。
 お手紙をいただいた2、3日前、朝日新聞の夕刊のコラムの「素粒子」に大ちゃんの詩がのりました。森川さんのお父さんはそれを見られてわたしにお手紙をくださったのでした。
「突然お手紙を差し上げます失礼をお許しください。私は前NHK小松報道室に勤務しておりました森川雄太の父親でございます。
実は十月二十五日朝日新聞夕刊コラム「素粒子」に原田大助君の詩の一部「秋の空気は……」が紹介してあり、それを見て失礼を顧みず手紙を書こうと思い立ちました。
先生と大助君との交流のテレビ放送は私どもも感動して拝見しました。雄太もこの取材だけは見てほしいと私どもに連絡してきました。−略−
その後、雄太は七月二十五日に広島放送局に勤務となり、原爆記念日の特集放送のプロジェクトチームの一員として、真夏の広島で多忙な取材活動をしておりましたが、八月二十七日急性心不全のため急逝いたしました。全く残念でしかたありませんが、二十九才の実に短い生涯でした。この頃やっと雄太の荷物を整理しており、先生からの転勤通知のはがきや「たんぽぽの仲間たち」、その他障害者や養護学校に関するたくさんの資料を見ておりましたときに、丁度十月二十五日の新聞記事が目に止まったわけです。
報道記者として雄太が一番関心を持ち、取り上げていきたかったのは障害者とか弱者の問題だったと思います。広島へ転勤がきまり、仕事の分野が教育、医療、福祉関係となったときは、わざわざそのことを大変喜んで電話してきたほどでした。
報道記者として志半ばで他界してしまいました雄太はとても心のやさしい、思いやりのある子でした。
現代社会での矛盾や問題点には厳しい眼を持ち、それでジャーナリストへの道を選んだと思います。
先日、金沢放送局から、金沢・小松時代に雄太が取材し放送したテープをいただきました。その中でも大助くんと先生の交流テープは雄太の一番言いたい事、やりたい事を見る思いがして、私どもにとっては最も大切なテープと思っております。
山元先生どうかこれからも私どもに人間の美しさ、尊さを教えられるようなお仕事をして子供たちを大事にしてあげてください。長々と勝手なことを書き失礼しました。
末筆ながら向寒の折、くれぐれも御自愛専一をお祈りいたします。」

 森川さんは原爆の特番の仕事を一段落され、ちょうど愛知の自宅へひさしぶりにもどられた次の朝、亡くなられたそうです。疲れたから休むと前の日にはやく休まれ、次の日二時ごろまで、おうちの方も疲れているのだからと起こすのをためらっておられ、起こしにいかれたときはすでにつめたくなっておられたそうです。
 きっと毎日、寝る間も惜しんでお仕事をされていたのですね。本当に本当にわたしも残念で悲しくてなりません。お父さまは「あの報道は雄太が一番うれしかった、つたえたかった報道だったのだと思います。山元先生のことも話していました」とおっしゃってくださいました。今はまだ、あの森川さんがもういらっしゃらないなんて、どうしても信じられずにいます。
 森川さんが教えてくださったこと、今書いたことだけでなく、もっともっとたくさんのことを森川さんは教えて下さいました。わたし森川さんのあのやさしい笑顔とともにきっと一生大切に、いつまでも覚えていようと思います。

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