吉川くんの話

私が教師になりたての4月のことでした。加賀の中央公園へ遠足に行ったときのことです。車椅子にのっている吉川君と一緒にいると、やはり遠足に来ていた小学校一年生くらいの男の子が「お兄ちゃん、足とか手、どうしたんや。なんで歩けんの?」と吉川君に聞いたのです。男の子は自分の気持ちを素直に表しただけだし、吉川君も自分が小さいときに高い熱が出て、その後あるけなくなったのだと、やはりその熱のために、まわりにくい口でお話しようとしていたとき、その男の子の先生でしょうか、そばにきて、「どこ行っとったんや。養護学校の子のそばに寄ったらいかんって言ったでしょう」と言いました。そしてもう一度その男の子は、今度はその女の先生に、「どうしてあのお兄ちゃんの足、あんなふうになったの?」ってたずねたところ、その先生は「あんたも人を蹴ったり、悪いことしたら、あんなになるんやよ」って言ったのです。
わたしはくやしくて腹が立ってしょうがありませんでした。がまんできずにその先生を追いかけようとしたら、吉川君は「いいよ、僕は人をけることのできる足も持っとらんし、なれとるし大丈夫だから、泣かなくていいよ」と静かに言ったのです。
私は吉川君のことばを聞いてひざががくがくして立っていられないような気がしました。吉川君や、学校の子供たちはいったい何度こんなくやしい思いをしてきたのでしょうか。あんなに小さな男に、信頼されている先生があんなに間違ったことを言ってもいいのでしょうか。
でもこのときの先生がけっして特別な人ではないということがわかってきました。考えたら私だって同じでした。大人はわりと簡単に、「こんなもんわからんかったらあの養護学校いかんならんよ」とか「ごはんを粗末にしたら目がつぶれるよ」とか「なにされるかわからんから養護学校の子に近づかんようにしまっし」なんていいます。
この言葉は間違っているし、人を傷つけることばなのにどうして使う人がいるのでしょうか。私はこう思います。きっとこんなふうに言ってしまった人は悪い人でも特別な人でもなんでもなく、ただ、小さいときに障害のある人と出会う機会にめぐまれずに、障害を持った人も持たない人も同じように一所懸命生きているということに気がつけなかったからじゃないかと思うのです。
だから私はできるだけ小さくて心のやわらかなときに、社会には男の人がいて、女の人がいて、髪の長い人や短い人、肌の色の違う人、違う言葉を話す人、障害のある人、ない人、いろいろな人がいて、みんな同じように苦しんだり、悲しんだり、よろこんだりしながらお互い様で生きているということを知ってほしいと思います。
社会の中には、障害をもった人たちにたいして、「うつるんじゃないか」と考えて接したり、お金がなくなったら「盗ったんじゃないか」などと考える人も大勢います。「障害を持った人をみかけて何かできないかと思うけれど、どうしたらいいかわからない」という話もよく聞きます。
でも構える必要なんて全然ないんですよね。車が雪にはまって動けなくなっていたら、みんな手を貸してくれるでしょう?お財布を落としたのを見ていたら「落ちましたよ」って教えてくれるでしょう?足が思うようにうごかなくて買い物をしていて高いところにある品物がとれない人がいたら「取りましょうか?」「なにかお手伝いしましょうか?」って聞いたらいいんですよね。同じですよね。みんないろいろな人がいてあたりまえ、いろいろな個性の人が助け合ってお互い様で生きているということを私一番言いたかったのです。

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