剛くんのこと

剛くんと一緒にいて、自分の中でどう考えたらいいのだろうかと思うことがひとつありました。それは、車椅子のブレーキのことです。
車椅子は坂道などでころげていかないように、どれにもブレーキがついています。そのブレーキもさまざまな作りになっているのですが、剛くんのブレーキは剛くん自身はブレーキをかけたりはずしたりすることができないタイプものでした。このタイプは介護者が後ろからペダルを上げ下げすることのみで操作するようになっています。この車椅子は、乗っている人の気持ちで、ブレーキをかけたりはずしたりということができにくいので、実際に、動きたいという気持ちがあっても、またそこにはいたくないんだという強い気持ちがあったとしても、自分ではどうにもならない状態で、その場所に拘束されてしまうということがあると思います。
剛くんはとても元気です。それから少々無鉄砲な面もあります。それゆえに今まで何度も大きな怪我をしてきました。たとえば十分に手が足りない状況では、剛くんの安全を守るために、後ろブレーキをかけておくということはとても大切なことでもあるのだと思います。
それでも私はこの後ろブレーキをすんなりと心に受け止めることができませんでした。なにかものを考えるとき、どうしても自分に置き換えてしか物事を考えられないのですが、私が、どこかへ行きたくても行けない状況、そこにいたくなくてもいさせられる状況というのは、私にとってそれはひもでほどけないようにしばられていたり、鍵を外からかけられていたり、もっといえば足に足かせをかけられている状況とほとんど変わらないのではないかという迷いが私の中にはあったからです。
もうひとつの思いは、この後ろブレーキは本当に安全のためだけかということでした。剛くんは動くのが大好きです。けれど、この授業のときは、どうしても教室にいてほしいとか、集会はもし嫌だとしても参加してほしいというときに、私はこの後ろブレーキを何も考えずに使っていました。そこにいて欲しいなら、まず「この時間はそこにいてね」と頼むべきなのに、それもせずに、まるで、車椅子を止めたらまずブレーキをかけておくのが規則なのだとでもいうように、この後ろブレーキをかけてしまっていたのです。
そこには剛くんと気持ちを通わせたいという思いがあるといいながら片方では、こんなふうにこちらの気持ちをきちんと伝えることすらせずに後ろブレーキをかけてしまっているとても勝手な自分がありました。
学校では教員と生徒はほとんど一対一の関係でいることができます。後ろブレーキは、剛くんの命を守るために、とても必要なものだとしても、学校ではそばにいる自分が十分に気をつけていられたら、ブレーキはそれほど必要ではないかもしれないのです。学校では自分でかけはずしのできる前ブレーキの車椅子に乗り換えるということは実際的でないので、できるだけ後ろブレーキは使わないでいてみようと考えました。
後ろブレーキをやめた最初の日、「剛くん、今日はブレーキはかけないけれど、できたら集会にはいてほしいの」そう言ってからそばにいてとても驚くことがありました。剛くんは集会の間、何度か、車椅子を動かそうと手を車椅子のガイドのところへもっていくのですが、自分からすぐにやめてまたひざの上に手をもどすのです。それは集会の時はここにいるんだ、みんなといるし、集会にも出るんだという剛くん自身の気持ちのように私には感じられました。集会のときに、今月の月予定を貼る仕事をしてから席にもどるときのことでした。「剛くん、そのまま後ろ向きに下がってね」と手で合図をしたとき、(剛くんは難聴でほとんど聞こえていないと言われていますが、実際はそうじゃないように思います。)剛くんはガイドをもって、車椅子をゆっくりさげて、もとの場所で、ぴったりと止まったのです。私はそれをみて、自分をとても恥ずかしく思いました。剛くんのことを何も知らず、剛くんはいろいろなことがむつかしいんだと勝手に決めつけていたのだということがわかったからです。剛くんは、自分の気持ちで、ここにいて、私の気持ちをくんで、後ろに下がって、自分のもといたところで止まっているのです。今こんなに驚いているのは私が剛くんにはできないだろうと思いながら頼んだのだからなのだと思いました。きっと剛くんにとってはうんと前から持っていた力で、当たり前のことなのでしょう。それなのに、いつも車椅子を押して、決められたところで、止め、後ろブレーキをかけて動かないようにしている私に何も文句も言わないで剛くんは私といてくれるのだなあと思いました。剛くんは本当はこんなに大きな力を持っているのです。
何度、剛くんの大きな力を知っていっても、私は繰り返し間違いばかりしてしまいます。学習発表会で、剛くんはチビぎつねの役ををしていました。お母さんぎつねの私はいつも剛くんと一緒に出ていたのですが、私はそのとき、剛くんはストーリーを理解することはむずかしいから、今できることを観客の方々に見ていただければいいと思っていました。それで、それまでよく練習をしていた、洋服を着ること、ボール(雪玉)をなげること、お金をおにいちゃんぎつねに手渡すこと、おにいちゃんを見送るときに手をふることを見ていただこうと思っていたのです。そしてその動作は、ストーリーを追っておこなわれるのではなく、その場面場面で、雪玉やセーターやお金を渡すことが合図になっておこなわれればいいと思っていました。そして手をふるときも私の手を振るのよという合図でおこなわれればいいと思っていたのです。
剛くんはステージの上でも後ろブレーキをかけないでも、動いてねと行ったところだけ動いて、あとは待っていてくれました。後ろブレーキをかけておかないとステージから落ちてしまうのじゃないかという心配はぜんぜんいりませんでした。けれど、剛くんがストーリーを追ったり、劇中の人物になって演じるということは考えもしていなかったのです。でも剛くんは本当は、いつも劇中の人物の心になって、劇を演じていたのでした。本番になって、お金を渡した後、剛くんが手を振るシーンです。振り返って剛くんに手を振るんだよとつげようとしたときに、そこにはおにいちゃんぎつねに向かって一所懸命手を振る剛くんの姿があったのです。私は剛くんがストーリーを追うことなんてできっこないと思いこんでいたので、とても驚きました。その後、お兄ちゃんぎつねが無事に戻ってきた感動的な場面で、不安げな役を演じている私をやさしくなぜてくれている剛くんがまた涙を流していたのです。総練習の時にも同じ場面で剛くんは泣いていました。私はステージの上が暑かったのかしらと考えていたのです。練習の時にも一度同じ場面で泣いていました。私はそのときも、練習が嫌なのかしらと考えていたのです。でも本番の涙を見たときに、剛くんはチビぎつねの気持ちになって泣いているんだとはっきりと分かった気がしました。
それからも剛くんはたくさんの力を私にみせてくれました。学習発表会のパイプいすを運ぶという仕事が高等部にはありました。私は今まで剛くんは重いものはぽんと車椅子から放りなげてしまうと思いこんでいたのです。けれど、これをこうやってもって運んでねと剛くんにたのむと何度もうれしそうに運んでくれました。ここでも自分の気持ちをきちんと伝えることをせずに、剛くんはできないんだと決めつけている自分を見ることになりました。今、剛くんと私はとても楽しくてうれしい関係にあるなと感じています。それは後ろブレーキをかけないで剛くんといようとしている私の気持ちをくもうとしている剛くんの大きなやさしさの力なのだと思います。
毎日の生活で、私が、本当のことを見ずに、決めつけて、押しつけてしまっていることのなんと多いことでしょう。剛くんと私の関係において、後ろブレーキのことを考えることがとても大きなことだったのだと思うのです。

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