ひまわり千恵ちゃん

2年前に書いた文章です。

 あれは5、6年前の夏のことだったと思います。なにげなく見ていたテレビから流れてきたニュースにわたしはとても衝撃をうけました。
 石川県には千里浜という砂浜の海岸があります。そこは海岸の砂の粒がとても細かいので、車がはいっても砂浜に埋まってしまうことがありません。そこで、波打ち際が道路ということになっていて、〇キロ制限とか追い越し禁止の標識とかも、たっているようなきちんとした道路(きちんとした道路っていうのも変なんだけど)で、千里浜渚ドライブウエィと呼ばれています。七塚という町の海岸はその延長線のところにあります。
 そこでは、夏になると砂の芸術のお祭りが行なわれています。自衛隊や地元の企業がその細かな砂を固めて、砂でお城や塔やそのほか像などとても大きなモニュメントを作ります。

 不慮の事故は、ある場所での小さな砂祭りの大きな像のところで起きました。中学生くらいの女の子3人でその像のそばや中で遊んでいたところ、突然その像が崩れて、中に二人の女の子が埋まってしまったというのです。その二人は姉妹で、姉妹の友人のもうひとりの女の子が姉妹のお母さんを大急ぎで呼びにいって、なんとか砂の山から姉妹を救出して、病院へ運ばれて行ったけれど、そのうちの一人は亡くなり、もう一人の意識不明の重体ということでした。
 悲しいニュースを聞くと、どうしても自分のことに重ねあわせて考えてしまうものですね。自分の愛する人がもし、この世の中から消えてしまったり、命にかかわるような事故にあったらどうしようと、してもしょうのない心配で眠れない夜をすごしたり愛するものを心の中にもつということは、愛するものを失う恐ろしさをまた心の中にも持つようになるということかもしれません。

 そんなときに偶然にこのニュースを聞いたのです。二人の姉妹のお母さんやお父さんのはかり知れない悲しみと苦しみの中でいったいどうやって時をおくっておられるのだろうか、重体の女の子は命をとりとめることができたのだろうかときっとたくさんの人がその報道を聞いて思ったと思います。女の子のその後の容態については、その後報道されることがなかったけれど、わたしはその事件のことが気になって、それからなぜか何度も何度もそのことを思い出しました。わたしの母もそのニュースをずっと覚えていて、「どうしておられるだろうね」と夏の砂の芸術祭りのことが報道されるのを見ると思い出してはわたしに言うのでした。母もまた子供の母として、自分の思いを姉妹のお母さんの思いに重ねていたのかもしれません。

 今年の春に転勤になり今の学校へひさしぶりにもどってきました。
 そしてわたしはちえちゃんと出会うことができたのです。ちえちゃんは、夏の花のような女の子です。(高校三年生なので、女の子というよりは女の人と言ったほうがいいかもしれませんね)ちえちゃんがいてくれるだけで、教室がぱっと明るく輝くような感じがします。歌が上手で、「ねえ歌って」とわたしがせがむと「何がいいんや」とたくさん知っている歌のひとつをきれいなやさしい声で歌ってくれます。それからいつも驚かされるのがちえちゃんの頑張りようです。ちえちゃんは手で車椅子を動かすことがむずかしいので、あごでレバーを操作する電動の車椅子に乗って移動するか、そうでない場合は看護婦さんや教師が車椅子を押すことで移動しています。
 車椅子の乗り降り、食事、トイレなど、ほとんどのことが介助で行なわれる中、ちえちゃんは自分でできることは時間がかかっても、できるかぎり自分でしようとします。しようとするというより、したいとちえちゃんは思っているのです。車椅子のブレーキをはずすこと、それからなかなか思ったとおりに動かすことがむずかしいけれど、字を描いたり、絵をかいたりお料理したりすることも、周りの人の手をかりながらも自分が少しでもかかわりながらできないかなと考えているようでした。「これ、わたしにできるかな」ちえちゃんは介助しているものに気をつかいながらとてもソフトに話します。ちえちゃんが「それはわたしがしたいんだ」とか「やらせてよ」と言って主張してももちろんいいんだけど、ちえちゃんはいつも相手がどんなふうに思うかなって考えることが身についているのだと思います。

 ある日ちえちゃんが言いました。「わたし小さいときから習字すごく好きやってんよ。賞もらったこともあるんやよ。事故の前やけど……私ね、またお習字したいなあ、かけるようになりたいな」と言いました。
「事故?」ちえちゃんの障害をもったきっかけについて、少しも知らなかったし、たぶん今、目の前にいるちえちゃんが私の知っている大好きなちえちゃんと思っているからだと思うのだけど、知ろうともしていなかったわたしはとても驚きました。
「うん、海でね、ほら、砂の芸術とかあるやろ。あの中に埋まったんやよ」ちえちゃんはその話をするときも、やさしい笑顔のままでした。
 わたしのそのときの驚きをわかっていただけるでしょうか。わたしの心の中で、時折命のことを考えさせてくれていた顔も知らなかったあの時の少女が、今、目の前にいるちえちゃんだったのです。
 わたしはちえちゃんにその事故のことは知っている、ずっと心に深く残っていたのだと話をしました。
 それからちえちゃんは事故のときのこと、事故のあとのことをいろいろと話してくれました。お母さんが助けにきてくれたとき、ちえちゃんの足がちらっと見えたからひっぱってなんどか砂山から引っ張りだしてくれたということ、妹さんはなかなか見つからなかったということ。でも妹さんは命が助かりそうだったのだけど、ちえちゃんは命がとても危なくて集中治療室にいれられたこと、気管切開をして人工呼吸器をつけていたということ。それなのに、妹さんが急に悪くなってなくなってしまったこと。危ないと言われていたちえちゃんは命をとりとめて、長いあいだ入院して、それから金沢の整肢学園へ転院したということ。リハビリのこと。お父さんお母さんお姉さんがちえちゃんのために今までどんなに一所懸命になってくれたかということ。ちえちゃんはゆっくりと冷静に話してくれたけれど、私はおうちのかたの看病のお話やリハビリの話など、何度も涙が出そうになりながら話を聞きました。

 ちえちゃんは明るく笑って言いました。
「わたしね、妹の分も頑張って生きていかないとといけないんやよ。妹だって生きていたかったと思うもん。泣き言なんて言ってられんもんね」
「できることは何でもしたいの。手が動かないから、足が動かないからできないって思い込むことはしたくないの」

 夏に家庭や学園を離れて、大杉で一泊二日の合宿をしました。楽しい思い出ができるようにと子供たちと一緒に日程を工夫してくださった田中先生にちえちゃんは
「生きていてよかった」と話したそうです。
そして私にも「生きていると楽しいこと、いっぱいあるんだよね」とちえちゃんは言いました。ちえちゃんのこのことばの重さは、事故のときに命を落とさなくてよかったということだけではないと思うのです。息をすること、食べること、それから体をささえること、どのひとつだって、ちえちゃんは懸命に訓練をして少しづつ少しづつ、動かすということを取り戻していったのです。どこまで機能が回復するのだろうかという不安、思うようにいかないとあせり、途中、投げ出してしまいたくなったことだって一度や二度ではないと思うのです。そして、毎日の生活も看護婦さんや教師やお家のかたの介助でほとんどのことが行なわれている今、ちえちゃんの思ったとおりにはいかないことだって本当にたくさんたくさんあると思うのです。「生きていると楽しいこと、いっぱいあるよね」というちえちゃんの言葉は、そんな思いの中で誰のどのことばにもひけをとらない宝石のように輝くすばらしいことばだと思います。生きていくことの尊さや、すばらしさ、それから勇気たくさんのことを考えさせてくれる言葉だと思います。

 十一月二三日に学習発表会がありました。ちえちゃんたち高等部の三年生三人は最後の発表会の出し物を「夕鶴」に決めました。ちえちゃんは舞台の上で着物をきて、ナレーターの役を演じました。ナレーターを演じるという言葉はおかしいかもしれないけど、ちえちゃんたち三人は誰ひとり欠けても劇にならない大事な役割をはたしながら、劇をすすめていきました。劇が始まったばかりのときに、アクシデントがありました。ちえちゃんの頭につけたマイクが下に落ちてしまったのです。けれどもちえちゃんはあわてたり、おろおろしたりすることはありませんでした。マイクがなくても体育館の中に声が届くようにと、マイクが落ちたとたん、ぴんとはった大きな声で話し続けたのです。「夕鶴」は最後の学習発表会を悔いのないものにするというちえちゃんたちの思いどおり、たくさんの人を感動させて、幕をおろしました。
 ちえちゃんのおかあさんは劇を見られて「小さなことでも、大きなことでもいつも何事に対しても一所懸命とりくむ子なのですけど、これからもその姿勢を忘れずにいてほしいと思います。劇を見てとても感激しました」と話しておられました。ちえちゃんの明るさの源はおかあさんだということも忘れずにいたいなと思います。

 ちえちゃんは今年学校を卒業します。事故が起きたということはたしかにとてもつらく悲しいことです。でも、ちえちゃんはつらさや悲しさをものともせずにこんなに力強く、明るく夏の花、ひまわりのような笑顔で毎日をおくっています。ちえちゃんのことをもっとたくさんの人に知ってもらいたいなと私は思います。ちえちゃんの生き方がたくさんの人の生きる勇気につながるから……ちえちゃんが作った詩を紹介します。

    ひまわりになりたい

 ひまわりになりたい

 でもね、今はね
 毎日毎日ひまわりというわけじゃないの
 暗い日もあるし、眠い日もあるし……

 だけどね、いつもいつも私ね
 笑顔でいたいの

 私はもしひまわりになれたらね、
 ひまわりのような明るさを
 ほかのみんなにもわけてあげたいな

 そしてずっとずっと
 ひまわりの光をあびていたいな

    
    雪

 ぼたん雪が上から 舞いおりてきた
 大きい天使の羽がおりてきたみたい
 ふわふわふわ

 昔 毎日「ランドセルにアノラック入れて」って
 母にたのんだ

 学校の外の階段がすべり台にかわるから
 すーっとすべった

 運動場の雪で雪だるまをつくったり
 家の近くの神社にも長い階段があったから
 そりをもってきて、友だちとすべってあそんだっけ

 かまくらだってつくったけ
 夜、かまくらの中で母の持ってきたおもちたくさん食べたっけ

 遠い昔の話

              フックの手

 「できることは何でもしたいの。手が動かないから、足が動かないからと言って、何でもあきらめたくないの」「私、また自分でお習字がかきたいな」……
 千恵ちゃんのことばは、千恵ちゃんと一緒にいる間に何度も私の頭の中によみがえってきました。千恵ちゃんが教師と一緒に、字や絵をかくときに、千恵ちゃんの手に教師が手をそえているように見えても、実際はどうしても、教師の意志で、教師の筆跡で、描かれている場合がほとんどでした。千恵ちゃんはそのことで、(これは私の作品ではない)などということは言いませんでした。それは、自分でうまくできないからしょうがないということもあったでしょうけれど、おそらくは、介助しているものに対する心使いからだと思います。けれど、千恵ちゃんは「あきらめたくない」し「自分でかきたい」と思っているのだということは間違えのないことでした。
 千恵ちゃんの手は全然動かないというわけではないのです。車椅子のブレーキをはずすことだってできるし、ぎこちないにしても、手で車椅子についた机の上をたたいて、拍子をとることだってできました。
 どうして字や絵がかきにくいのだろう、そう思って千恵ちゃんの手の様子をみていると、千恵ちゃんの手首が内側にぎゅっとまがってしまいやすいということに気が付きました。それに加えて、手に力が入りにくいために、えんぴつがうまくにぎれないのです。
 クラブで油絵をかくことになったので、何かくふうしたいと考え、紙のつつに腕を通してみることにしました。紙のつつは千恵ちゃんの腕の太さにぴったりとしていて、そのために、腕が曲がることがなく、それにくっつけた鉛筆でなんとか線をかくことができました。「ピーターパンに出てくるフック船長の手みたいね」と千恵ちゃんはその紙の筒をフックの手とよんで、とてもよろこんでくれました。
 けれど、それは補助具と呼ぶにはあまりに粗末なつくりでした。腕がその筒の中で回転し、筆がすぐに斜めになってしまうのです。また筒が邪魔になって、手元が隠れてしまうという問題点もありました。同僚の伊藤先生が「いや、千恵子さんに、自分でかいてもらおうという発想自体、この学校ではいままでだれも考えなかったのだから、素晴らしいよ」となぐさめてくださったけれど、それにしても、やはりその補助具はあまりにも工夫も考えも足らない粗末なものでした。
 それなのに、千恵ちゃんはそのフックの手でとても素晴らしいひまわりの油絵をかきあげました。油絵の特徴である重ね描きによって、ひまわりの絵はとても深みのある絵になりました。千恵ちゃんは放課後なども何度も納得いくまで、絵を描いていました。「だって、初めて自分で描いた絵なんだよ」

 もうすぐ卒業という2月になって、私はちょっとひらめいたことがあったのです。昔、骨折したときに使っていた金性の副え木を使ってみたらどうだろうと思ったのです。副え木の先に自由樹脂と言って高い温度でやわらかくなり、室温ではかたくなるプラスチックを千恵ちゃんの手のにぎりの大きさにあわせてつくったものをとりつけ、鉛筆などをほんの少しの力でもてるようにしました。副え木をスヌーピーの青い布でくるみ、マジックテープのついてベルト2本で腕に固定できるようにしました。
 副え木って、とってもいいアイデアだったのです。だって、腕にぴったり本当にそう感じなんですもの。
 千恵ちゃんは目をきらきらさせて、このフックの手の2号を見てくれました。「ぴったりだよ、かっこちゃん」(千恵ちゃんは私をそう呼んでくれます)
 そしてね、本当にじょうずに字がかけたんです。「たかいちえこ」と最初に書いた字をみて、私なんだか感激して涙がぽろぽろ流れました。千恵ちゃんもうれしそうだった。
私、自分が骨折しといてよかったなって思ったのはこれがはじめてでした。千恵ちゃんにそう言ったら、「きっと私のために骨折してくれたんだよ」ってそう言って、私も、あ、そうだったんだって思ったのでした。
 伊藤先生が「出会いだよね、もし山元さんと千恵子さんがもう一年ずれていたら、出会えてなかったし、そうしたら、千恵子さんはもう一生、自分でかくってことができないままだったろうから」って言われました。きっと千恵子さんは今までだって、自分でかくということに挑戦してきただろうし、補助具をつくられた方もおられたのではないかなとは思うのです。でも、私は伊藤先生が言ってくださったことを聞いたときに、(気がつかなかったけれど、私はずっと前から千恵ちゃんに出会いたかったんだ、事故のときから、ううん、もしかしたら、もっとずうっと前から千恵ちゃんに出会いたかったんだ)って思いました。
 人と人の関係は時間や場所を越えて、不思議に結びついているものなのかもしれません。千恵ちゃんに会えたことで、私は「手が動かないから、足が動かないからできないとあきらめる必要はぜんぜんないんだ」っていうことを知りました。いつも前向きに生きるとき、可能性はいつも無限にひろがってるんだってわかりました。「生きるって素敵」って思いました。

 千恵ちゃんのお母さんが、卒業式にお母さん自身の夢を教えてくださいました。「この子がどこにいても、毎日いきいきと生きていけるような楽しみが、月に二度でも三度でももてるようなサ−クル活動ができるようなサークルに今、誕生したばかりのサークルが育っていくことです」
 千恵ちゃんのお母さんの夢はまた、千恵ちゃん自身の夢につながっているのですね。
 サークルが運営されるためには、そして、そのサークルが楽しく、そしていろいろな出会いができるようなものであるためには、たくさんの理解者とボランティアの方の力が大切になってくると思うのです。千恵ちゃんや、おかあさん、おとうさんと出会うことで、たくさんの人がまた変われるし、力をもらえると思います。
 人と人との関係はいつだって、「もちつもたれつ」なんですものね。

今千恵ちゃんは、習字をずっと続けています。広島の作品展で、賞をいただいたり、また字の作品展もいくつか開いています。
 今年、千恵ちゃんは成人式をむかえました。年賀状には、晴れ着をきた、素敵な千恵ちゃんが笑っていました。そして、「いつまでも友達でいてね」と書いてありました。とてもうれしい年賀状でした。

  

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