数値で人を評価すること

 何年か前、知能指数のように「心の指数」の値を高めるということが言われたり、体力や学力のように心の力、心力の値をはかろうということが言われることがあります。
 私は、そんなとき、とても戸惑ってしまいます。子供たちと一緒にいると、数値で人の価値を計ったり、数値で評価すること、されることについてとてもつらい思いをすることがたくさんあります。たくさんできることがいいこと、速くできることがいいこと、問題が解けることがいいことという価値判断で人を計るとき、学校の子供たちはゆっくりだったり、そういうテストが得意じゃなかったりして、そこからはずれてしまうことが多いからなのかもしれません。でもそれだけの理由じゃない気がするのです。
 ひとつは数値からだけじゃ、その人のことが何も見えてこないということです。中学1年生で知能テストをすることになっていて、何年か前、真理ちゃんと一緒に知能テストをしたことがありました。「お母さんからお使いを頼まれました。大事なものだからきっと買ってきてと言われました。でもお金がありませんでした。あなたならどうしますか?」との答えに真理ちゃんは「買わない」と答えました。私は「あきらめる」と答えました。でも二つとも誤答例に入っていました。正解は「お金を取りに帰る」「お母さんに電話をする」でした。それから「遊園地で迷子になりました。あなたはどうしますか?」という問題に。真理ちゃんは「なってみないとわからない」と答え、私は「泣く」と答えました。それもふたつとも誤答例に入っていました。正解は「係りの人に聞く」でした。これって知能がどうとかいうより性格なんじゃないの?って私は思うのです。そういう検査の積み重ねで出た、知能指数の値って、なんにもその人のこと表していないのじゃないかしらって思います。それに数値はいつだって一人歩きするなあと思うのです。知能指数が30の人、100の人、聞いただけでああ、この人はあの人よりいろんなことができるんだって誤解すると思うのです。それよりも、「犬が恐い」とか「とても優しい」とか「計算が苦手」とか、その人のことを表す言葉っていっぱいあると思います。
 もう一つは数値は人を分けると思います。みんないろいろでいいはずなのに、数値が高いほうがすぐれているんだ、あの人よりは僕の方がすぐれているんだとか、僕なんかどうぜダメなんだとか、思う必要のないことを思ってしまうと思います。数値をつけるということは、人間に順番をつけることだと思います。
 障害を持っている人は心がきれいだとか障害を持っている人は心の値が上だとか、健常者と言われている人の方がよっぽど心に障害があるような気がするという言い方もきっと本当はおかしいですよね。みんながいろいろなら、障害があろうとなかろうと、心だっていろいろでいいはずだと思います。男の人はこう、女の人はこうだ、日本人はこうだ、障害を持った人はこうだと枠を作ってきめつけてしまうことがもう人を分けることの第一歩になってしまうのかもしれません。友達の吉川くんも「障害のある人は心がきれい」と言われるのがとても嫌だと言っていました。僕たちを分けることに対して批判的であるようでいながら、その実、僕たちを自分たちの仲間に入れてないということに気がついていないんだと言います。
 心力とか心の指数のことはそれに加えて、もう一つ違う理由で抵抗があるのだなあとこのごろ気がついたことがあるのです。学校の子供たちもみんないろいろです。見方によっては「なまけものだ」とか「暗い」とか「意地の悪い」とか「すぐに怒り出す」とか思われてしまうこともあるかもしれません。でもあとで、そのことには全部理由があったのだと気がつくことがほとんどです。その人の立場にたったとき、そうせずにはいられないような理由があるんだっていつも気がつきます。それなのに、誰かがあの人の心の数値はどれだけだと評価するということをいったいしてもいいのだろうかと思うのです。それに人の気持ちは気がつくことで、人と出会うことで変わっていけるものだと思います。変わっていけることはうれしいこと。

 きっと、体だって心だって、たとえばいろいろなことの得意不得意だって、肌の色だって、髪の長さだって、みんなみんないろいろで、それでいいのですよね。
 人と人はお互いが自由で平等でありたいなあと思います。人が人を数値で評価することって、なんだかおそれおおいことなんじゃないのかなってそんな気もしています。

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