ぴあの

  「隆は生まれたばかりの頃から、ピアノの音が好きだったねぇ。どんなに激しくないていても、ピアノの音が聞こえてくると、ぴたっと泣くのをやめたからね」お父さんが、おっしゃいました。「隆の姉が習っていたので、ピアノはそのころから家にあってね、そのうち隆も自然とピアノにさわるようになっていったんだ。まだ2つか3つの時に、もう音階をひいたり、聞いた音楽を黒鍵っていったかな、あの黒いところも、白いところも関係なしに使ってメロディを弾くものだから、これは大変な天才だと、親ばかなんだね、喜んじゃってね。それでね、姉がならっていたところにね、まだはやいと言われたのにピアノ、ならいに行かせてね。そしたら親の期待通りというか、隆もよろこんで弾きだして、すぐにトルコ行進曲?小さい手なんだけどね。ああいう名曲みたいのも弾けるようになってね。ピアノの先生もよろこんでくれてね。まさかね、隆がこういう病気を持って生まれてきてるなんて知りもしないから、末は一流ピアニストだと信じて疑わなかったんだよね。だってまだ学校にさえあがってないのに、よく聞く名曲なんかをすらすら弾き出すんだものね」

 隆君は学校でもピアノを弾くのが好きでした。筋肉が衰えていく病気だったため、手をピアノまで持ち上げるときもよいしょという感じで、手首から上の方へ持っていくというふうでした。大きな音を出すこともむつかしくなってきたり、たくさんの幅でピアノを弾くこともむつかしくなってきていたけれど、でも彼のピアノの音色はとてもとても優しく、心の深いところの涙や、さびしさやうれしさを誘い出すようでした。

 けれど、お父さんやお母さんは彼がピアノを弾くことをは、もううれしく思っていないようでした。「僕らはもう、隆にはピアノを弾いてもらいたくないと思っているんや。毎日毎日筋肉がおとろえて、ピアノが弾けなくなっていく。聞いていてもそれはよくわかります。弾かないともっと弾けなくなる・・あの子はそれを恐れて、練習しているのかもしれない。もう昔のように弾けるようにはけっしてならないのに、まるで脅迫されているように弾いているのではないかと思うと、正直、ピアノの音はもう聞きたくないです。あのこの病気がご存じの通り、筋肉が弱って、そのうち、起きられなくなり、死んでしまうもの。ピアノを弾いて、毎日、筋肉が衰えていくのをわざわざ確認することもないからね」

 でも隆君はピアノを弾くのをやめませんでした。私はお父さんのお話を聞いていながら、「やめたら・・」と言うこともしませんでした。隆君が脅迫されているようにピアノを弾いているようにはみえなくて、私には隆君が楽しんでピアノを弾こうとしているようにさえ、思えたのです。けれど、隆君は鍵盤にのせた手を隣へ動かすことがむつかしくなっていました。それで、置いたところからとどくキーだけで演奏するようになりました。それでも隆君はやっぱり毎日ピアノを微笑みながら弾きました。

 けれど、ある日隆君が、ゆっくりとしたスピードでピアノを弾き終えたあと言いました。「あと、何度ピアノが弾けるのだろうね」

 これからも何度だって弾けるよなんて、そんなことは決して言えるはずもなく、ただ黙って、少しうなづくように首を動かすと隆君は私の心を知っているように話しました。「父さんと母さんは僕がピアノにさわるのをいやがるんだ。でも僕はピアノをできる限り弾いていたい。少しずつ少しずつ僕の力がなくなっていく。これが僕なんだ。僕は僕そのものをかみしめるためにピアノを弾く。好きなピアノが弾けなくなることはそりゃあ悲しいけど、でも僕は死ぬまで僕というものにまっすぐつきあいたい。どうして僕の命だけが、他の人の3分の一もないのだろう・・今でもそう思うことがあるよ。けれど、それが僕に与えられたものなんだよね。ピアノは弾けるまで弾くよ。ずっと僕のピアノにつきあってくれてありがとう。これからも出来る限りつきあってほしいんだ」

隆君とのお別れは急におとずれました。金曜日には元気だったのに、急に肺炎になって、隆君は亡くなってしまいました。

 不思議なことに隆君は亡くなることを知っていたかのように、金曜日に少しおどけるように、「今から、隆のピアノコンサートをします。観客は一人。でも心をこめて弾きます。今日の僕の演奏をずっと覚えておいてね」と言いました。 

 しばらくはピアノの音が聞けませんでした。ピアノが弾けませんでした。悲しい気持ちがあふれてきて、涙がとまらなくなってしまうから・・・けれど、ある日、何がきっかけだったでしょう。隆君の「ピアノの音を覚えておいてね」という言葉が、急に私の中によみがえってきました。それからピアノがまた好きになりました。ピアノを弾きたくなりました。ピアノの横で、隆君がいつも笑ってくれている気がするからです。

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