みつるさんのタイプアート

「子供たちの作品展を、私達の住む町でも開きたいのです」とお父さん、お母さんがたが運動をして下さって、実現することが多くなってきました。
先週は、小学校の学区の文化祭の一区画で、地域の子供たちと並んで、私達の学校の子供たちの作品展をしていただきました。
私は、その作品展を見て、昔のことを思い出しました。短い間に、時代が変わってきているんだとそう思いました。
私が教員になる数年前、養護学校が義務制になりました。それまで、学校へ通いたくても通えず、就学猶予になっていた子供たちが学校へ通うようになりました。けれど、地域の学校への受け入れは難しく、子供たちは、遠くの養護学校へ、親元を離れて生活しながら通わなければならないことが多くなりました。
みつるさんも長い就学猶予の後、義務制で、福井県から、石川県へ来ていました。その時、高校2年生でしたが、就学猶予が長かったので、年令は私より上でした。みつるさんとは、タイプの時間で一緒でした。タイプについても、何も知らない私は、みつるさんにひとつひとつ教えてもらって、授業をすすめている状態でした。みつるさんがその時に取り組んでいたのは、タイプアートでした。タイプアートとは、和文タイプを打つことで絵を描くもので、繰り返し打ったところは濃い影になり、一度だけ打ったところは光があったったようになります。それはちょうど、細かいクロスステッチ刺繍で描かれた絵のように美しいものでした。
みつるさんは「僕は首がまだ座っていないので ……」とよく言いました。生まれるときに仮死で生まれたみつるさんは、首に力を入れることが難しく、いつもお辞儀をしているようにも見えました。手足に麻痺があり、車椅子に乗っていました。みつるさんがタイプを打つことは、優しいことではありませんでした。首がなかなかあがらないので、絵を見ながら打つことができません。えいっと力を入れて、頭をあげた瞬間に絵をさっと見るのです。手の麻痺によって、思ったところへ指を持っていくのも、たいへんな努力が必要でした。
そして、タイプアートは失敗が許されないのです。一度間違えて修正液で消すと、絵が汚れますし、修正するために紙を巻き上げてまた下ろすと、場所がずれてしまうのです。だから、とても神経を使います。みつるさんのタイプ打ちは、手が好き勝手に動いてしまうのを、自分の力でどうにか押さえようとしながらタイプを打つので、とても疲れるのだと思います。「少し、休んだらいいのに」とすすめても、みつるさんは汗をかきながら、仕事を続けました。
そしてできあがったタイプアートはとても細かく、美しく、私はいつもその作品を、まるで自分が描いたかのように、誇らしく(私はそばにいて、練習していただけなのに)周りの人に「見て、見て」と自慢して歩くのでした。みつるさんは、恥ずかしそうに、でもうれしそうにそんな私を見ていました。
ある日、雑誌の中で、タイプアートコンテストの文字をみつけた私は、大急ぎで居室へ行って、「ねえ、これに応募しよう」とみつるさんに言いました。最初は消極的だったみつるさんでしたが、応募の広告に載せられたタイプアートに自分の作品が決して見劣りしないのを知って、「みんなに見てもらうんだから、新しいのを打とうと思う」と言いました。コンクールの締切まで、一ヵ月しかなかったので、みつるさんは、学校から毎日、和文タイプの機械をひざにのせて持ち帰りました。いつもは、遠慮深くて、人になかなかものを頼まないみつるさんが「タイプをひざにのせてほしい」「タイプをおろしてほしい」と介護人さんや、教員にたのんでいるのを見て、私は(みつるさんも、きっと自分の作品をたくさんの人にみてもらいたいんだ)と思いました。
もう締切も間近になり、タイプアートはできあがりました。みつるさんは、「自信あるよ」と嬉しそうでした。
参観日があって、お父さんとお母さんがいらっしゃってたので、たくさんのタイプアートの作品をお見せしました。数々の作品の中でも、今仕上げたのはとてもいいできだとお父さんがおっしゃたので、「これは、コンテストに出すんです」とお話しました。
ところが、私のその言葉を聞いて、お父さんとお母さんは、表情を固くされました。そして、「先生、わしたちは、この子をさらしものにしたくないんです。本当に申し訳ないのだけど、コンクールには出品しないように願います。」と言われました。 どうして、コンクールに出すことが《さらしもの》になるのかしら、あんなにみつるさんは一所懸命だったのに、と思わず涙がこぼれ、お父さんやお母さんのお顔をみることができず「ごめんなさい」とその場を逃げるように部屋からでてしまいました。
その後、泣いてしまったことを謝らなくてはとみつるさんの居室に出掛けると、もうお父さんとお母さんは帰られたあとでした。みつるさんは「おやじが、『すまんかった、むすめさんに悪いことした、でもわかってほしいと伝えてくれと言ってたよ』」と言いました。(あんなに一所懸命打った、タイプアートを簡単にあきらめてしまうの?)そう思っていた私にみつるさんは、「僕は、おやじを悲しませたくないんだ。だから、あきらめるよ」とそう言って静かに話しだしました。

「信じられないかもしれんけど、車椅子なんて、ここにくるまで、ほとんど乗ったことがなかったんだ。いつも畳の上で、ごろごろしとった。外にはほとんど出んかった。僕はかなり大きくなるまで、自分が他の人と違うということに、はっきりとは気がつかなかった。何かしてほしいことがあれば、おふくろに言えば、ちゃんと用が足りた。何も困らなかった。外には出られないものだと思ってた。
四つ離れた弟が小学校へあがるときだった。弟が小学校へ楽しそうに通うから「とうちゃん、俺も学校へ行く」と俺はとうちゃんに言ったんだ。いつものように、おふくろがなんとかしてくれると思っていた。そしたらそれまで人前で泣いたことのないおやじが「かわいそうに、あわれやな。お前がまともやったらな」とそう言ったんだ。俺は、「かわいそう」で、「あわれ」で「まともではない」んかとその時、思った。
それから、おやじは時々、俺の前で酒を飲みながら泣くようになった。「お前が心配で死んでも死にきれん」といつも言っていた。おやじは昔気質な男だから、「かわいそう」とか「気の毒」と他の人に言われるのが嫌だったんだと思う。だから、僕を外に出そうとしなかったんだと思う。
珍しく縁側の外の垣根で、たくさんの子供の声がしたから、僕は、畳の上をころがって縁側の方へ出ていった。垣根からたくさんの子供がこっちをのぞいて、ひそひそ話をしていたんだ。僕も子供が珍しく、じっと垣根を見ていた。おふくろがそれに気がついて、とんできて「なんしとるんや」と大声を出した。子供たちは「ひゃー」と言って、みんな逃げていってしまった。
その子供たちは弟の学校の同級生だったことが、後でわかったんだ。弟は、家に泣きながら帰ってきて言った。
「兄ちゃん嫌いや。兄ちゃんなんかおらんかったらよかったわ」その途端おふくろが、弟の尻を何度も打った。「兄ちゃんが悪いんやない。兄ちゃんが哀れなことになったんは、お母ちゃんの業のせいや」とおふくろはそう言ってやっぱり大声で泣いとった。俺だけ何でこんな体に生まれたんやろう、だあれも悪くないのにとずっと考えていた。

ここに来たことで、親元を離れたのはいいことか悪いことかまだわからない。でも、おやじやおふくろの心は少し軽くなったと思う。俺には仲間がいると思った。
俺は、もうおやじやおふくろを悲しませたくない。おやじやおふくろや弟は、俺のことでずっと悲しんできたんだ。先生、泣くな。あんなによろこんでくれて俺はそれで、もういいよ。ごめんな」

みつるさんのタイプアートは、学校の中に飾られました。名前もつけずに額に入れて、飾られました。みつるさんとお父さんとお母さんと弟さんが、これまで感じてこられた痛みを思うと私は胸が張り裂けそうでした。
こんなことは間違っている。なぜ、その人が存在することを、隠さなければいけないのだ。その人の生きざまを、なぜ否定しなければならないのだ。お家の人が間違っているというより、そういう生き方をせざるを得ないようにしている社会が間違っているのだと、私はくやしくてくやしくてなりませんでした。みつるさんは「しょうがないんだよ」と言いました。私も何もできなかった。
そして、そのことはみつるさんだけでは、ありませんでした。作品を外で飾る時は、イニシャルが使われました。テレビの映像には、顔が移らないようにと後ろ姿ばかり取られました。新聞の写真でも同じでした。少し前だけど、そういう時代だったのです。みんなの作品を胸をはって見てもらえる日がいつかくるだろうか。そんな思いを抱いた最初でした。
今新聞には、毎日のように、人が共に生きる共生についての記事がのっています。テレビでも、ドラマや、ドキュメンタリーで、共に生きるということについて触れられた番組が多くなってきました。そして、私達の学校のお家の方が、熱心にいろんな所で作品展を開こうとしてくださっています。
時々、今一緒にいる子供さんが外で、「あの子は何にもわからんのやから」と言われた話を耳にすることがあります。そんな時とても心が痛むけど、少しの間にこんなに変わってきたのだもの。一人の力は小さいけれど、何もしなければ何も変わらないんじゃないかしら。お父さんお母さんがたが、子供たちのためにしていらっしゃることが、いつかまた、時代を変える大きな力になるに違いないと思います。

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