みんな気持ちを持っている

自分の気持ちを「ビビビビー」とか「ブブブブー」というような言葉で伝えている中学生の男の子がいました。ご両親にお伺いすると生まれてから一度も話し言葉を使ったことはないということでした。私たちはその男の子がたくさんの気持ちを持っているということを頭でわかってはいながら、けれどたくさんのことがむつかしいのではないだろうかと思いこんでいたのです。それはたとえば勉強に取り組むときでも、トランポリンで揺れたり跳んだりするのがうれしそうだとか、犬が嫌いなようだとかいうように、彼が好きとか嫌いとかだけで、物事を判断していました。
彼はサラダが嫌いで、特にトマトはけっして口にしようとはしませんでした。その日はおそらく担任の先生が彼に少しがんばってもらってトマトを一口でも食べて欲しいと思っていたのだと思います。私は少し離れたところで、クラスの子供たちと食事をとっていました。彼と先生とのトマトを食べることでの奮闘というか、格闘というか、そういう時間が15分くらい続いた頃だったでしょうか。びっくりすることがおきたのです。ご両親も私たちも一度だって聞いたことのなかった話し言葉で彼は吐き出すようにはっきりと言ったのです。「嫌いっていうとるやろう。さっきからトマトが嫌って言うとるのがわからんのか」
その瞬間食堂はシーンと静まり返りました。誰もが今聞いた声のことが信じられなかったのだと思います。でも言ったのは確かに彼でした。何十人もいた教員や子供たちが確かに彼の心からしぼりだすような声を聞いたのです。ご両親はその場におられなかったので、「信じられません」と繰り返すばかりだったそうです。
それから私たちは何度も「なぜ、彼は今まで一度も話し言葉を使わなかったのに、その時使ったのだろう」と話し合いました。でも誰もどうしてかということはわかりませんでした。ただはっきりとしているのは、彼はいつでもたくさんの思いを持ち、それを伝えたかったに違いないのに、それができずにつらい思いをしてきたのに違いないということでした。そして、私たちはこれまでこれほどの彼の思いを少しもわかろうとしてこなかったということでした。
彼はそのあとも話し言葉は使ってはいません。もしかしたら、彼は彼の心の中の思いを、どうして口から出したらいいのか方法をみつけられずにいるのかもしれません。けれど確かなことは彼は好きとか嫌いとかではなくて、「トマトをさっきからずっと嫌いだと言い続けてるのに、どうして解ってくれないのか」というふうにあふれるような気持ちを持っていることは確かなのです。
私たちはいつも思いこみでこの人はこんな人だと決めてしまうと思います。でも本当のことはけっして目に見えないのだと思うのです。そのことをけっして忘れてはならないと思います。
それなのに大ちゃんと私、少しも分かり合えずにいたときにも、私はまた同じように間違いを繰り返していました。大ちゃんが今こんなに沢山の素晴らしい思いを伝えてくれているのに、私は大ちゃんがいろんなことを考えるのはむつかしくて「できない」のじゃないかと思いこんでいたのです。自分の思いこみを押しつけて、小さな子が使う絵本や一年生の教科書ばかりを使ったり、それどころか、大ちゃんが自分で選ぶべきだった、自分できめるべきだったたくさんのことを勝手に選んで押しつけてばかりいたのです。私はいったいどれだけ大ちゃんをつらい気持ちにさせていたのだろうと思うと、今も悲しくてたまらなくなるくらいです。
でもこのときだけではないのです。私はいつもいつも間違いをおこしてきたのです。ずっと前、まだワープロやパソコンがこれほど広く使われなかった頃、一緒にお勉強した強君にこの間会いました。強君がそのときに渡してくれた日記を見て、私は胸がどきどきして、涙がとまらなくなりました。
強君は今も当時も首に力を入れることがむつかしくて頭を持ち上げられず、いつもうつむいて車椅子に乗っていました。私たちは強君が話している言葉を聞き取ることはむつかしく、ただ強君がクビを縦に振るか横に振るかで気持ちの伝え合いをしていたのです。わたしには忘れられないできごとがあります。「強はいつも顔をあげんのやから、映画なんか見に行っても一緒やろう。顔ををあげんのやったらつれていかんぞ」男の先生はからかい半分、冗談半分で、それから頭ををなんとかあげて欲しいという思いもあったのかもしれません。そんなふうに言いました。強君はそれを聞いて涙を流しながら、頭を必死に持ち上げていました。周りの先生がそれを見て笑っていました。私はそのときに何も言うことができませんでした。なぜ何も言わなかったのだろうと強君の涙を何度も思い出しながら悔やんでいました。何も言えなかった私は、その男の先生と同じで、強君の深い思いを少しもわからずにいたからだと思います。もしかしたら私は強君の涙を見るまで、強君がどれほど悔しい思いをしているかということに気がつかず、(強君もみんなと一緒にお出かけしたいのかな。バスに乗るのがうれしいのかな)というように軽く考えていただけなのかもしれません。
強君は最近使うようになったワープロでルパン三世のことを書いていました。「ルパン三世の映画を今日テレビで見た。山田さんの声がルパンのイメージにぴったりだ。僕は映画が好きで好きでたまらない。ルパンと、加山雄三さんの映画が好きだ。山田さんがなくなってしまって、本当にがっかりした。ルパンの声ややっぱり山田さん以外考えられない」
車椅子に乗っていることや、施設にいることで映画を見にいくことがとてもむつかしい強君はあのとき、あんなふうに言われてどんなつらい思いをしただろうかと思います。そして私は強君のワープロの文章を見るまで、強君がこんなに映画が好きだということも、それから文章に書かれているようなこんなに深い思いを持っているということにも少しも気がつかずにいたのです。それは大好きな子供たちを自分とは違うとでもいうように分けて考えていたからではないかと恐いのです。
当たり前のことなのに、私はすぐに忘れます。子供たちはいつもたくさんの気持ちを持っていてそれを伝えようとしているのです。それは大ちゃんだけではないことを今度こそしっかりと心に刻み込みたいと思います。

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