きみちゃんが伝えてくれたこと 

郵便受けの中に、美しい字の封筒をみつけました。裏を返しておどろきました。それはずっと会いたいと思っていた、きみちゃんからの手紙だったのです。きみちゃんが卒業してから初めてのことでした。
そのころ、私たちの学校にいる生徒さんは、みんな、親元を離れて、そばにいる学園に入っていて、そこから学校に通っていました。
きみちゃんのお手紙をよみながら、いろいろなことを思い出しました。
そのひとつの情景です。ようこちゃんが「おうちに帰りたい、帰るって電話して」と繰り返し泣いているのです。最初は「昨日、おうち帰ってきたばかりだから、また二週間たったらね」と優しく声をかけていた看護婦さんも、あんまりようこちゃんが、「おうちへ帰りたい」を何度も繰り返すものだから、そして、看護婦さんはその頃、とても人数が少なくて、たびたびのようこちゃんの思いに、応えていられなかったから、「もういいかげんにしなさい」と、ようこちゃんはとうとう叱られてしまっていました。
学校に来てからも、ようこちゃんはやっぱり泣いてて、担任の先生に「小学部の生徒でも我慢してるのに、大きいもんがいつまでそんなこと言ってるんや」とまた叱られていました。
その当時、今ほど、学園に入っている子どもたちは、あまり自由ではありませんでした。どこもそうだったのかもしれないけれど、学園に入っている子どもたちは家へ電話をすることは許されてはいませんでした。面会日になる前におうちの方が会いに来られても、会わせてはもらえませんでした。他の子どもたちが寂しがるから・・・・それがおそらくは、その理由だったのではないでしょうか? 
私はまだ教員になったばかりの頃でした。赴任が決まったところは家から通うことができず、私は父と母と離れていることが寂しくて、毎晩のように家に電話をかけ、お風呂がお部屋についていないから、お風呂屋さんは遠いからという理由を作って、週に二度も三度も車で帰っていたのです。だからなおさら、子どもたちが電話もできないというのは、本当になんて理不尽なことだろうと思っていました。おうちの方と連絡がとれないなんておかしすぎると思っていました。もちろん、学園の中ですごしておられる方自身も、そのことをつらいことと感じながらも、どうしようもなく、すごしていたかもしれません。今では、もうそんなふうなことはぜんぜんなくて、できる限りおうちの人と長く時間がすごせるようにと配慮されていたり、それから、とてもやさしくて、温かな空気の中で、すごすことができる学園がほとんどです。
当時、きみちゃんは家もとても遠くて、なかなかおうちの方が会いに来られることは少なかったのです。どんなに寂しいだろうと思うのに、繰り返し泣いているようこちゃんの頭をいつも撫でて「もう少ししたらね。お母さんが迎えにくるよ」と優しく応えていたのはいつもきみちゃんでした。
私はそのころから、どうして障害があるということだけで、子どもたちは3つや4つで、もう家から離れなければならなかったのか・・・そのことがずっとずっとわかりませんでした。先輩の先生に尋ねると、「僕はそのことについては考えないようにしている。しかたがないのじゃないかな?子どもたちは教育を受ける権利があるし、親には受けさせる義務がある。そしてそのために養護学校ができたのだから。訓練もその子の自立のためにあるのだし、それを設備や、トレーナーのいない地域で受けることはむずかしいよ。そして、設備がある、この地域の子どもたちだけが家から通うということになると他の子どもたちが可哀相だから、そのこどもたちも、学園に入らなければ仕方がないんだよ。考えてもしょうのないことだよ」と先輩は言いました。
私はそれでも、ずっと気になっていました。手紙をもらってから、家に遊びにきてくれたり、それから電話で話したり、メールの交換をするようになったきみちゃんに、私はいつかそのことを尋ねてみたいと思っていたのです。
最近になって、「きみちゃんはいくつで学園に入ったんだっけ?私、そのときのことを知りたいの」と聞きました。
そのお返事に、きみちゃんから、FAXをもらいました。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は4つで学園に行ったよ。そのときのことはあまりおぼえてないけれど、総婦長さんが、私が初めて学園に来た日のことが印象に残ってると話してくれた時のことでもいいかな?
総婦長さんが印象に残ったことは、私が泣かなかったこと。母も私もニッコリ笑ってバイバイと手を振って、別れたあと、私は知らん顔でみんなと遊んでいたんだって。どうしてだろうって、総婦長さん思っていたんだって。あとで、総婦長さんが私に聞いたの。それまでは、入ってきた時に、泣かなかった子はいなかったのに、どうして泣かなかったのかなって、不思議だったんだって。
それはたぶん、今振り返っても、絶対そうだろうなと思うのだけど、総婦長さんにきかれたとき、「母が笑って『また来るね!』と言ってくれたからだよ」って答えたの。だって今でもおぼえている。その時の母の顔は「安心して、ここにいればいいんだよ」って顔だったから。でも夜になったらさむしくて泣いちゃったけどね。4歳のその日はそんな風に過ぎていったんだと思うよ。母が笑ってくれなかったら、不安だったかもしれないけど、笑ってくれたから。それに総婦長さんがね、母が言った言葉が忘れられないとも言ってくれたの。「あの子の居場所はここだと思います」って。それから家を離れなければならなかったことは、今もそう思うけど、そうしなければならなかったのではないとは思うけど、その方法しかなかったんじゃないかと思うよ。自分で難しかったことが少しずつできてきたり、できることが少しずつ増えていく。家に帰るたびに、できることが多くなってくると、みんなが(家族が)よろこんでくれたから、私もまた、学園でがんばれるって感じだった。学園ではなくて、学校だけを作るっていうのはきっと難しいことだったと思うよ。学園があって、学校を作ってほしいと学園の職員さんも、父兄も、一緒に学校をたてたい、通わせたいという気持ちがあったから、学校が、学園のそばにたったと思う。
私の家族は誰も、私が、遠く離れた学園に行くことは喜んではいなかった。父が「できれば家においておきたかったけど、施設に入ることで、できることが増えたり、字が一文字でも覚えられるんだったら、親もがまんするしかなかった」と言ったことがあったよ。「親にはできることがあっても、それが良い方法であるかどうかわからないし、あまやかしてしまうかもしれないし、がまんもさせないかもしれないと思ったことがある」とも言っていたよ。学園にあずけることで少しでも子のためになるんだったらとの思いしかなかったんじゃないかな?と思うよ。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
きみちゃんのおうちの方が、4歳のきみちゃんを学園にお願いしなくてはならなかったこと、そうでない方法もなくはなかったけれど、きみちゃんが書いているように、自分のこどものために、子どもを愛しているがために、なお、離れて生活することの方をおうちの方が選んだのだということに、胸がいっぱいになりました。きみちゃんが、FAXの中で、学校だけ作るのはむずかしくて、学園があったから、学校ができたというのは、こういうことではないかと思うのです。障害を持つ子どもさんは、長い間、修学猶予という名前のもとで、学校へ通うことができませんでした。昭和50年代になって初めて、養護学校も義務化となって、子どもたちは学校へ通うことができるようになりました。学校を作ったのだからと、地域の学校へ通っていた子どもさんまでもが、親元を離れて養護学校へ通うように、きびしく勧められたというようなこともあったようです。しかし、また、養護学校が義務化になったことで、今まで行きたくても行けなかった学校へ行けたということもきっとあるのだと思います。きみちゃんがいた学園でも、、きっと、遠く離れたところじゃなくて、学園の中に、学園の近くの小学校の分校を作ろうという思いが大きくなって、そして学校ができたのじゃないかと言うのです。
お母さんも、きっときみちゃんを学園に残した日や、面会日のあとは、さびしかったり、どうしているかと不安だったりして、泣いている日が幾日もあったことでしょう。それでも、四歳のきみちゃんを不安がらせないようにとにっこり笑って帰られたということに、なんて、素晴らしいお母さんだろうと思うし、やはり、せつなく涙が出る思いがします。お父さんも、それは同じ思いだったと思います。
上手には言えないけれど、たくさんの時間の流れの中で、きみちゃんや子どもたちがとてもさびしい思いをしたり、おうちの方が、やっぱりおつらかったり、いろんなことがあって、その折々のことは、障害があるからといって、どうしてそんなにつらくさびしい思いをしなくてはならなかったのだろうという思いは、亡くなることはないけれど、でも、それが、今、施設の中で、人員が増えたり、行きたい学校を選べるようになりつつあることなどにつながっていて、それが、また子どもたちの未来を作っているのだろうと思いました。その時間が、たぶんとても大切な時間だったのだろうとも思いました。

「たくさんの気持ち」のページへ

メニューへ戻る

inserted by FC2 system