気がつけてうれしかったこと

誰かと意見をいいあうようなときに、なかなか意見の折り合いがつかないっていうのはつらいものだなあって思いました。

「先生のとこ(わたしのとこ)は生徒さんひとりかふたりに教員がひとりいるっていう話だったんだけど、変な話だよね。一人かふたりで少なくとも教員一人分の給料は一ヶ月にかかるわけでしょう?建物を少ない人数で使っていることや、教材なんかを考えると腹ただしいことだよね。お金をつぎ込んで甲斐のある人間以上にそんなにお金をつぎ込んでどうするんだろうね。つぎこむ価値のある生徒にそれだけのお金をつぎ込んだらもっと教育効果が上がるのにね」とその先生はおっしゃるのです。私が自分の気持ちをお話すると「先生は(わたしのこと)養護学校の生徒が読み書きができるようになることで、日本にどんな利益をもたらすようになると言うんですか?科学者になれるわけでも、政治家や、医者や、看護婦になるわけでもない。なぜ我々の大切な、日本の資金をそんなことにたくさんつぎ込むのでしょう?どう考えられますか?」

そして「養護学校の子は本当に教育なんて求めているのですか?おいしい食べ物と睡眠さえ与えておけば満足なんじゃないんですか?」

もし私が「巨人の星」の星一徹さんだったら、そこにならんでいたテーブルをひっくりかえしていたかもしれません。
いいえ、わかっているのです。私とその方とどちらが悪いとか悪くないとか、間違っているとか正しいという問題じゃないことはわかっているのです。意見というものは、どちらも自分が正しいと信じ切っていることが多いから……だから考え方が違っていて、視点も違っていて、それから本当に大切なことにお互いが気がつかないことが多いから意見がすれ違うのだということを思っているにしても、「おいしい食べ物と睡眠さえ与えておけば」という言葉に唇をかみしめずにはいられませんでした。

私はそのことで心が傷ついていて、すごく疲れていて、なぜそんな議論が生まれたのかしらと考えずにはいられませんでした。そして、すこし時間がたってからは、もしかしたらそのときの先生の気持ちはこうだったのかなって考えられるようになりました。あの方も、高校生のことが大好きで、もっと学校にお金があって、たくさんの本が図書室にそろっていたらいいのに・・・とか、もっとたくさん教員がいたら、高校生の気持ちを知って、深く分かり合えるかもしれないのにって、大好きなご自分の生徒さんがもっと楽しい学校生活をおくれるようにと考えておられたからだったのじゃないか、そうに違いないって思えてきたのです。そう思えたら心が楽になりました。
それからこんなこともありました。この話を雪絵ちゃんにしたのです。雪絵ちゃんはいつだって、何があったって「よかったね」って言うのです。それが私にとってすごくいいことが起こったときも、それから今日のようにあんまりおもしろくないって思ったときも、いつだって「よかったね」と言うのです。前に私が階段から落ちたときも雪絵ちゃんは「よかったね」って言いました。「どうして?」って聞いたら「だって、今、元気じゃない。たいしたことがなくてよかったよ。今度階段を降りるときに気をつけるようになったからよかったよ。きっと今度から気をつけれるように、階段から落ちるってことがおこったんだよ」って言うのです。それはプラス思考とはちょっと違うように思います。本当にどんなこともいつかいい日のために起こるってそう信じているのだと思います。そして今日もそうでした。「良かったね、その人がそんな質問してくれて」雪絵ちゃんは言いました。「障害を持っている人に対して、社会の人が考えていることは、まだまだそういうものかもしれないよ。そのことに自分たちは気がつかないだけかもしれない。今日、講演会にたくさん来ていたお客さんもみんな気がついていない人が多かったかもしれない。その先生が質問してくれたからこそ、先生はその場で違うと思いますって説明できたんだもの。もしかしたら何か宇宙の大きな力が働いて、その先生は私たちのためにそういう質問してくれたのかもしれないよね。よかったね」びっくりしました。本当だ。本当にそうですよね。その人が質問してくださったからこそ、私あのとき、すごく悲しくなって一所懸命お話させていただけたのですもの。だからこそ、そうそうってうなづいて下さったかたもたくさんおられたんですよね。雪絵ちゃんの言うとおりだって、私、今その質問してくださったかたにありがとうって思っています。
雪絵ちゃんや、ほかの友達だちといて、私、だんだんみんなの考え方に似てきたみたいです。
今日もね、実は同じようなことがあったのです。福祉の大学の教授さんが学校へ来られて、授業を見ていかれたのですけど、授業の後、クラスの尚ちゃんに「僕は君よりもっとひどい人と一緒にくらしたことがあるよ」っておっしゃったのです。私はその言葉がどうしても我慢できなくて、急に無口になってしまいました。(尚ちゃんよりひどい人っていうことは尚ちゃんもひどい人ってことになるのじゃないかしら。障害が重い人っておっしゃりたかったのだろうけど、ひどい人なんて言う言葉は尚ちゃんの障害や、尚ちゃん自身までを否定しているような言葉に聞こえちゃう)私はそう思ったのです。でも先輩の同僚は私が私が元気をなくしている様子をみて、「どうして?」と聞いた後、「ちょっと考えすぎだし、今の場合心が狭いんじゃないの?尚ちゃんを励まそうと思って言われたのだからそんなこと考えるほうがおかしいわよ」と言われました。
私、それでじっくり考えていたのです。そして思ったことは、心が狭いのかもしれないけれど、でも私はいつも人を分ける言葉や行動には敏感でいよう、そうしたい、私はそれでいいって気がついたのです。そしてそのことに気がつけたことは私にとってとても大切なことでした。それを気がつかせてくれたのは大学の教授さんや同僚の先輩なんだなあって思いました。もしかしたらそれを気がつかせてくれるためにそういうふうになっていたのかなあって今思っています。いろんなことはいつかのいい日のためにあるんだという素敵なことに気がつけてとてもうれしいです。

「わたしの気持ち」のページへ

メニューへ戻る

inserted by FC2 system