人権集会

 人権学習会の講演会に呼んでいただいたときのことでした。主催者のおひとりが、よく知っている先生でした。在職中は子供たちのために素晴らしい授業をされて、私も参観させていただいたこともありました。「共に生きる」ということについてもよく考えられ、障害を持った方も、そうじゃない子供たちも一緒に学ぶことについてや、平和の大事さなどについてもたくさんのことを教えてくださいました。私の尊敬している先生なので、私の話をきいていただけることが、恥ずかしいけれどうれしい気持ちがしました。
 控え室で、中学校の校長先生や、公民館の館長さんや、その先生をまじえて、お話をしていました。
 その先生は今、私がいる学校の近くの小学校にも勤務しておられました。その小学校は私たちの学校と長い間交流を続けています。それで、卒業生のこともよく知っておられたのです。それでこんなエピソードを話してくださったのです。
「聖子ちゃんは元気かな?もうとっくに卒業しただろうけど。いやあ、小学生は大人がいえんようなことを平気で言うからなあ。聖子ちゃんによだれなんかたらすなよ。汚いじゃないかって言うんだ。そしたら、あの聖子ちゃんがよだれを交流中はたらさなかったんだ。学校の先生に聞いても、学園の先生に聞いてもよだれを出さないことはないという話だったのに、交流中はださないんだよ」
 私は先生がどういうことをおっしゃりたいのかなと思ったのですが、「よだれを飲むときって、のどのどこかの弁が閉まったり、開いたりして飲むことができるそうですね。聖子ちゃんは脳性麻痺なのですけど、脳性麻痺の方はその弁の開閉がうまくいかなくて、唾液を飲み込むことがとてもむずかしい方がおられるそうですね。お医者さまは人の100倍も努力しないとたらさないでいられないと聞いています」とお話しました。
「そうや。そんな努力が小学校の子供といるとできるんや」
「いやあ、交流っていうのは、やっぱりすごく力を持ってるものですな」
そんなふうにお話は終わったのです。
 「共に生きる」ために力を尽くしてくださった先生の尊敬の気持ちはずっと今もそのままだし、大好きなままなのです。だから読んでくださってる方に、誤解されないかなと心配なのですけど、私、少しわからなくなったことがあるのです。
 それはこんなことです。
 ひとつはなぜ聖子ちゃんはその間、たとえば100倍の努力をしてまでよだれをながさなかったのだろうということです。いつも唾液を飲み込むことがむつかしい聖子ちゃん、学校で勉強するときはノートが唾液でぬれないようにと口にタオルをくわえて字を書いていた聖子ちゃんが、「汚いな、よだれ流して」という言葉を聞くことは聖子ちゃんの心を傷つけはしなかったのでしょうか?それから聖子ちゃんの誇りを傷つけはしなかったのでしょうか?私は誇りを傷つけられるということは、体の痛みよりも痛い痛いものではないだろうかと思うことがあります。よだれを出すことを汚いと言われることは、いつもの聖子ちゃんを否定されたことにはならないのでしょうか?その誇りを保ちたいために、聖子ちゃんは100倍の努力をしてまでよだれを出さないようにがんばったのではないのでしょうか?
 もうひとつわからないと思ったことがあります。交流ってすごいなという結果になったこのお話は「よだれを流すこと」は「よだれを垂らさないでいること」より劣っているということの前提にたってはいないのかということを思うのです。そういう前提があると、障害を持った人たちはとてもつらい立場におかれることになると思うのです。そして「人権の話」の柱になるであろう、「人はみんないろいろだけどいろいろでいいんだ。すてきなんだ」ということに大きく反するような気がするのです。
 こんな話もあります。
 立つことがむつかしく、ベッドでねたまま生活をおくっている子どもたちがいます。立たないでベッドですごしていると、足や手が堅くなり、内側に形がかわって曲がってくるということがおきてきます。もしこれから歩くということを選択する場合、曲がっていると歩くことができないので、手術をするという場合は別なのですが、歩くということを選ばない、または選べない(歩くといことがむつかしい)子供たちにも、「足がまっすぐの方がかっこいい」「他の大勢の人の足の形に近づける」などという理由で手術をする場合があります。私は小さいお子さんにそういう理由で痛い手術をすることに対して、とても不思議な気持ちがしていました。大勢の人の足の形が、萎縮のために曲がった足よりすぐれていて、少しでも大勢の人の足の形に近づけたほうが幸せだという気持ちがそこにはないのだろうかと思ったのです。そんなことについて疑問を持っていたときに、福島先生という、大学の先生にお会いすることができました。福島先生は目と耳が不自由で、指文字で通訳の方を通して話されたのですが、やはりこのことについて、無用な手術には疑問を感じるとお話しておられて、ああ、おんなじ気持ちとうれしくなったのを覚えています。 人権集会だったからこそ、なお私は思うのです。その社会に大勢いる人が、少数の人の持っているものや、個性を自分たちに近づけようとし、またその結果近づけたことをいいことのように思うのは、大勢の人たちの勝手な言い分なのではないのかと。
 私はやっぱりよくわからないままです。だからどこか違っているかもしれない。
 お箸やスプーンで食事をする人たちが、文化が違うために手で食事をする人たちを招いてともに暮らし、あの人は箸で食事をするようになった、よかったねと話すことは、その人の誇りを傷つけることにはならないのでしょうか?
 体に傷をつけることがいけないことは誰でも知っています。でも心にある誇りを傷つけることも、けっしてしてはいけないこと・・それなのに、知らず知らずにしてしまうことが私たちにはたくさんあります。人権を守ることって何なのか、もう一度ちゃんと考えてみようと思います

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