いじめられていたよ

 安井くんが、ある日、「僕、ずっといじめられていたよ」と私に言いました。
「どうして安井くんはいじめられなくてはならなかったの?」
と、私達はもう、なんでも話し合えるようになっていたので、尋ねました。
 安井くんは「僕、勉強できなかったからね」と言いました。安井くんは、ひらかなのちいさい《っ》の字の使い方や、《を》の字がにがてだったり、計算がにがてだったりということはあります。でもこんなに作業も上手だし、なによりとてもやさしいし、とても頼りになるなあと助けられてばかりの私はそう思います。
「だのに、いったいどうして?」
と、もう一度たずねると、安井くんは「テストの点がよくないといじめられるんだよ」と言いました。
 どうして、そんなことでいじめられちゃうんだろうと、私はその日ずっと考えていました。
 そして、自分が小学校の教員をしていた時のことを思い出しました。私はたくさん日記を書いてきてくれるということが、うれしかったのです。ドリルをいっぱいしてきてくれる子をすごいなあと思っていたのです。だから、そんな時はみんなの前で、「がんばったねぇ」とうーんと誉めたような気がします。でもそれって、もしかしたら間違ってたかもしれないなって思います。
 字を書くのがにがてで、どうしても日記が進まない子はどんな思いでいたでしょうか。どうしても問題を解くのがにがてで、一枚ドリルをするのにとても時間がかかって、それでも一所懸命にドリルをしてきた子はどんな気持ちでいたでしょう。
 日記やドリルをたくさん書いた子だけを取り上げることで、日記をたくさん書く子がいい子、ドリルをたくさんできる子はすごい子、反対にドリルや日記があまり書けない子は駄目な子、という意識をいつのまにか子供たちに植えつけることにはならなかったでしょうか。
 そしてそういうことが続けば、それが子供たちのいじめにつながらないとだれが言えるでしょう。それなのに私はその時に特別のご褒美シールまであげてしまっていたのです。 誉めることが駄目なことだとは決して思いません。日記やドリルをたくさんしてきた子には「頑張ったね」と私のうれしい気持ちを告げればよかったのです。でも、私は、どうして笑顔のとても素敵な子、元気に遊べる子、釣りのうまい子、虫の名前をたくさん知っている子、足の小指の形がすてきな子を、テストでいい点をとれた子と同じように「すてきなことだよ」と、みんなの前で認めることをしなかったのでしょうか。
 みんな、いろいろすてきなところがあって、いろんな所で同じように「素敵だよ」と言ってもらえたら、きっと子供たちは(勉強できる子がいい子、できない子が駄目な子)という思いを持たずにすんだと思うのです。クラスの一人一人が、お互いにすごいなと、認めあうことができたと思うのです。
 学校は、勉強だけでなくて思いやりのある豊かな心を育てるところであるべきなのに、実は私たちこそが、子供たちにわける心や偏見を植えつけてしまっているのではないでしょうか。
 いじめをした子に「どうしていじめたの」と責めてばかりいる私たち。でも本当に間違っていたのは、子供たち一人ひとりの存在を認めず、大事にしてこなかった自分たちなのじゃないかな、と思います。

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