どうして大事なの?

 たかちゃんが車椅子に乗り出して何年になるでしょう。「脳性麻痺は進行しないんじゃなかったんか?」たかちゃんはときどき投げ捨てるように言いました。ひとりで歩いていたのが、やがて歩行器になり、そしてたかちゃんは車椅子にのるようになりました。進行は麻痺のために身体の傾きがどんどん進んで、まっすぐに身体を保つのがむつかしくなっていったためだと聞いていました。たかちゃんは少しずつ明るさを無くしていきました。3つも4つも離れた教室にいても聞こえたたかちゃんの笑い声がこのところすっかり聞こえなくなりました。ときどきわっと泣き出したり、「どうせ、私なんか」という言葉が口癖のようになりました。
 昨日できたことが今日はできないというのはどんなにか不安なことだと思います。今日できたことが、もしかしたら明日の朝起きたらできないのかもしれない・・今できていることがいったいいつまでできるのだろうかという恐れはきっと頭の中から離れることがなく絶えず渦巻くのだと思います。
 その日はたかちゃんが入所している施設の面会日で、それにあわせて学校も参観日でした。いつもかかさず来られるお父さんがその日に限って、お仕事の都合がつかず、たかちゃんに会いにくることができなかったのです。ずっと不安な思いですごしていたたかちゃんはお父さんに会いたくて会いたくてたまらなかったのだと思います。お父さんが来られないという知らせを聞いたたかちゃんは、車椅子のサイドに何度も何度も手を思いっきりぶちつけました。「たかちゃん、やめて・・、ね、どうしたの?お父さんはお仕事の都合でいらっしゃれないけれど、明日でもあさっても少しでも手があいたら学校をのぞかせてもらいますっておっしゃってたのよ」でもたかちゃんは乱暴に手を打ち付けることをやめませんでした。手から血がにじんで、車椅子のサイドにも血がつきました。たかちゃんの後ろから抱きつくようにしてたかちゃんの手を後ろ手にしました。お願いやめて!!たかちゃんは絞り出すような声で泣きながら「私のことなんか大事じゃないんや。何もできん。こんな手あってもなんにもならん。私なんて生きていてもなんにもならん」たかちゃんの強い悲しみが、そばにいる私の心さえも、切りさいているようでした。
 「私、本気やよ。死んでしまいたい。どうしたら死ねるの?生きていても何もならん。何もできんのやから・・」
 私はただ通り一遍のことしか言えませんでした。
「たかちゃん、人間が大事なのは何かできるからじゃないよ。そうじゃないよ」
「じゃあどうして大事なの?ご飯を食べたら、お金がいる。生きていたらお金がいる。誰の役にもたたないのに、お金がいる・・お父さんだって私がいなければ、私に会いに来る必要もなくなる。いそがしいときに無理する必要がなくなる。私のことを心配する必要もなくなる。楽になるよ」
「たかちゃん、親ってきっと子どものことはいつも心配するものだよ。子どもがどんなふうな生き方をしていても、誰だって心配するんだよ。それって当たり前のことなんだよ」
「でも私はお父さんに迷惑をかけるだけなんだよ」
 その日からたかちゃんと「生き続けていること」についての話をふたりで何度も何度もしました。時にはふたりで泣いたり、それからまるでけんかのように怒りあって、「わからずやなんだから・・」と言い合ったり。
 しばらくたったある日のことでした。テレビでよくみかける有名な方が自ら命をたたれたというニュースが流れました。
「ばかだよね。身体が動くくせに死んじゃって・・。生きていればいつかいいことだっていっぱいあるはずなのに・・。なんか腹がたつよね。もったいないと思わないのかな。動く身体もっててさ」
「そうだよね。生きていればいいこといっぱいあるよね。たかちゃんだって同じだよ。生きていればいいこといっぱいあるよ」
「だって、あの人は手が動くよ。人のためになれるよ。私にはそれがないもん」
「私はあの人はあの人なりの比べられない苦しみがあったのだと思う。だけど、私はやっぱりどんなことがあっても、生きていなくちゃと思うんだ。だって、ひとりひとりみんな大切だもの。でもね、あの人が大切なのは何かできるからじゃないよ。よく説明できないけれど、そうじゃないよ」
「泣くなよ。もうすぐ泣くんだから」
たかちゃんが初めて「わかるような気がする」と言ってくれたのはそのときでした。 
人が生きていくということは簡単ではないのだなとこのごろ思うようになりました。つらいことや悲しいことをみんなひとつふたつは抱えて生きているのだと気がつきました。その苦しみや悲しみがどんどん広がって、時には生きることさえもやめたいと思うことがあるのだと思います。でも、つらいことがいっぱいあって、悲しいこともいっぱいあって、だからこそ、うれしいときにはとびきりうれしいし、優しい人の心がとても身にしみたりもするのだと思います。
 人はどうして大切なのか・・・・なにかできるからじゃない・・私のその思いをいつかちゃんと説明できるようになれたらなあと思いました。

「わたしの気持ち」のページへ

メニューへ戻る

inserted by FC2 system