青山先生

青山先生は音楽の先生でした。水泳部の顧問の先生でもありました。

 私は先生にとても惹かれていました。それは中学生頃の抱く淡い憧れとはまた違う不思議な感情でした。
 雨の日、先生はピアノの前に座り、黙って流れるような、そしてしみじみ心に染みわたる哀しげな旋律を奏でました。先生は単に上手という言葉では表しきれないくらいピアノが達者でした。私には先生の横顔がときどき驚くほど哀しげに見え、その哀しさが自分の心と体にものりうつって、気を遠くなってしまうのではないかと感じたりしました。ときには即興でジャズを弾かれることがありました。心の底に響く音楽はあまりに素敵で、魔法のようでした。中学生だった当時、ジャズなどほとんど耳にすることはなく、それなのに今までしょっちゅう聞いていた同じピアノからその音楽が流れているのは信じられないようでさえありました。
 ある日先生は、ピアノを弾いていた手をふと休め、顔をあげて驚くような話をされました。
「僕の手を見てごらん」
 先生の片方の手はくるぶしのところが不自然に大きくて、手が内側に曲がっているように見えた気がしました。気がしたというのは、私は先生の手をはっきりと覚えてはいないのです。いったいどうしてなのでしょうか。私はその時、先生の手をしっかり見つめることができませんでした。おそらくはそのことを心の奥でいつからか知っていて、先生の触れてはならない部分のように感じていたのかもしれません。そうでなければ、先生の言いたいことの真意がわかりかねていたからかもしれません。ただ言えることは、こころの中で(どうして、先生は手をかくしておかないのだろうか、)という気持ちが広がっていたということでした。先生に惹かれていた私は先生の、あの素敵な音楽をひく手を、不自然な形に見えたとしてもそうでなくてもいとおしく感じていたはずなのに……いいえ、そのことを知ってからかなぜか、不自然な形に見えたからこそ美しく、そしてその先生の手に憧れたような気がするのです。けれど先生の手を覚えていないもっと大きな理由は、先生と一緒にいるうちに先生の手のことが全然気にならなくなっていたということだと思います。
 先生はこうおっしゃいました。
「僕の父さんという人はピアノをやる人なんだよ。僕が小さい時に怪我をして、手がこんなふうになった時、父さんは、手がよく動くように、それから、僕が僕のこの手をきらいにならないように、僕自身の手に愛情をもてるように、きびしくピアノを教えこんだんだよ。手は最初からこんなふうに動いたのではもちろんなかったんだが、それからピアノの練習もそんなに楽しいとは小さい頃は思っていなかったんだよ。けれど、父さんの気持ちが通じたんだろう。僕は今こうして音楽大学を出てピアノをやってるんだからね。だから僕はこの手がとても好きなんだよ」先生はそこでお話を切られました。
 「だからみんなも努力しなさい」というようなことを先生は言われる人ではありませんでした。先生の話は単なる先生の身の上話のように話されたけれど、わたしたちの心にずんと響きました。(先生は自分の手が好きなんだ。だからもちろん隠したりしないんだ) その当時、「中学校はとても荒れている」と言われていました。県内でも一、二を争うマンモス中学だった私の中学校もまた例外ではありませんでした。あなたたちはだめ、だめ、といわれ続けていた私たちは先生が「僕はこの手が好きなんだ」という言葉を「僕はきみたちが好きなんだ」と言われたと同じような気がしていたのです。

 先生はいつも私たちを愛してくれていました。部活動で、みんなが一日六千メートルを泳ぐようなメニューをコーチや監督のもとで必死にこなしているとき、そして、そのことが時につらく感じられているときに、先生がひょいとプールサイドに水着であらわれて、泳ぐのではなく、シャワーのところで頭を泡だらけにしてシャンプーし、「ああ気持ちいいね」とにっこり言われるのを見ると、なんだかこみあげてくるくらいおかしくて楽しくて、肩の力がすっと抜けるのでした。
 音楽の時間は授業の多くの時間をかけて「学生時代恐怖の体験」−大きなウジ虫と死体の話−、「三センチ四方の紙でウンチをした後、おしりを拭く方法」などというお話をしてくださるのでした。わたしたちはそんなお話をどの授業よりも熱心に耳を傾けてきいたと思います。もううんと時がたっているのに、お話の内容をしっかりと覚えているのですもの。
 それから、授業中、だれも発言しなかったという理由で、クラスのみんなが、きっと何かとんでもない悪さでもしたのでしょうか?放課後廊下に正座させられたという時も、青山先生があらわれれて、「もういいから教室へ入りなさい」と言われました。正座を命じた先生がもういいと言われたわけではないので、ためらっていると、「もう十分だよ、こんなことは」とどこかきびしく、けれど私たちにはやさしい顔できっぱりとおっしゃいました。私たちはその後、青山先生が正座を命じた先生に叱られるのではないかと心配しました。私たちは正座を命じた先生からその後、そのことで叱られるようことはありませんでした。
 先生が時折哀しそうにしておられた理由をあとになって噂でききました。先生はわたしたち子供をいつもとても大切にしてくださいました。わたしたちを規則や不平等から守るために学校の中でひとりたたかってくださっていたということでした。わたしたちにはお説教じみたことのひとつもおっしゃったことのない先生でしたのに……
 ある時 先生の車に女の人の裸の略図のような傷がつけられていました。一度、車屋さんに出されてなおされたのに、また一週間たって同じ絵が鋭い刃物の先か釘のようなものでひっかいて描かれていました。その話を私たちは青山先生ではない別の先生から聞きました。いったいそんなひどいことを誰がしたのでしょうか。いつもわたしたちのことをこんなにも考えてくださった先生がどんな思いでおられたかと思うととてもつらいです。けれどその時も先生は何も言われませんでした。わたしたちは先生が人気があるから、他の先生がくやしがって、そんな傷をつけたのだと今から考えると、本当に罪ななんの根拠もない噂をしあいました。そして、他の先生方は「こんなこと今度見つけたら、警察にも通報するかもしれない」と冗談とも本気ともとれる口調で言いました。
 青山先生はあごひげをはやしていました。わたしたちは自由を大切にしてくださる先生らしいと思いました。その先生の顔がやさしくて好きでした。けれど、そのひげが教員としてふさわしくないと職員会議で非難のまとになっている噂がまた流れてきました。その噂を聞いてまた、先生は私たちとそれからご自分自身を大切になさるためにひげをことさらはやしておられるように思いました。
 私はそういったいろいろなことが先生の気持ちを哀しくさせておられるのではないかと感じていました。
 先生はその後しばらくして先生をやめられました。石川県のMROラジオの「日本列島ここが真ん中」という長寿の番組の中で、それからもうずっとの間ピアノを演奏したり、おしゃべりしたり、それからジャズのコンサートを開かれたりしておられます。
 私は青山先生のお声とピアノをラジオで聞くたびに、いまでも心の中で、自分が自分自身を探していたころのことを思い出すのです。
 

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