宇宙の秘密

6 やっぱり会えたな

 また私、へんてこなことを言い出しているのかもしれないのだけど、この宇宙にあるもの、地球上にあるもの、みんな同じなんだろうなって漠然と思うのです。

 きっと同じ規則というか、作られ方というか、そういうものでできていて、同じしくみで営まれているんだろうなあって思うのです。

 すごく大きなものから、すごくすごく小さいものまで、それから、海も、地球も、人も、風邪の菌もみんな同じなんじゃないかなって。

 入り子構造というのでしょうか?ロシアのこけしマトリューシカみたいに、大きさは違っても、みんな同じで、どんどんつつまれていくという感じじゃないかなと思うのです。

 大ちゃんの詩「僕の手の上に 宇宙がある 僕の身体の中にも 宇宙がある 小さなありのからだの中にも いくつもいくつも 宇宙がある」のよぅに、核の回りを電子だったり、惑星だったりがまわっていることもそうだし、それから、どんなものも、きっとすべてのものがデジタルというか情報であらわされるということも同じなのじゃないかという気がします。

 ほんのちょっと前まで、音楽や、映像や、写真が、デジタルであらわされるということは思いもつかなかったのじゃないかと思います。パソコンや、携帯で、音楽や、映像まで藻を送ったり受けとったりできるなんて、アトムの世界だけのように思っていたけれど、今はそれが当たり前になりました。他の立体のものも、みんな情報で表すことができて、その情報があれば転送できるのなら、何だって、理屈からいうと、簡単におくることができるのかもしれません、

 人間はすべてが遺伝子に書かれたとおりにできあがっている。だから、遺伝子の情報さえあれば、その人というものを作ることができて、もっともっと科学がすすめば、電話を通じて、人を送れたり、コピーして貼り付けしたりが簡単にできるのかもしれません。

ただ、命というものも、コピーしたり貼り付けしたりできるのかということが、よくわかりません。

 とにかく、そんなふうに、もし、みんながおんなじしくみでできているのなら、うんと小さいもので、起こっていることは、大きいことでも全部同じように考えられるわけだし、逆に大きいもので確かめられていることは、目に見えなくても小さいものでも、起こっているっていいのじゃないかと思うのです。みんなが入り子構造でできているから、きっと同じに違いないと思うのです。

 村上和雄さんが言われる「サムシング・グレート」が作った設計図で、その遺伝子の部分部分がONになったりOFFになったりすることで一人の人間ができているのだけど、その設計図は、きっと人としての身体を完成させるときだけに使われるのではなく、将来の設計図も遺伝子の中に刻まれているのだと思います。たとえば、年頃になって女性らしい体つきになっていくことや、時期がくれば年老いていくことなど、遺伝子の設計図にすでに書かれていることなのだと思うのです。

 人間に起こることは、小さい中でも、大きな中でもきっと起きているのだという前提がもし正しいのなら、“大きな力”は、地球がどうなっていくか、宇宙がどうなっていくか、人の人生でも、誰と誰が出会って、それがまたどんな出会いを生むか、そんなことも“大きな力”はお見通しで、ちゃんと設計がされているのじゃないかと思ったのです。

 そのことがまさに仏教で言う“生かされている”ということなのでしょうか?

大ちゃんは

「僕が生きていること

 君が生きていること

 ここにこうして いられること」

「僕の上の星

 時計の上の星

 君の上の星」
 
という詩を作っています。大ちゃんは心の耳で“大きな力”からどんな言葉をうけとってそんなふうにお話してくれたのでしょうか?

 大ちゃんと学校で一緒にいるようになって、どれくらいの時間がながれたころだったでしょうか。私の顔をじっと見て、大ちゃんが「やっぱり会えたな」と言ってくれたことがありました。私は涙が出そうになるほどうれしかったです。それにしても大ちゃんは、私と会えるということをどうして知っていたのでしょうか?

そういえば、こんなこともありました。大ちゃんの弟さんがその年の7月に生まれたのです。大ちゃんは「7月5日に涼太が生まれる」とお母さんのお腹の中の赤ちゃんが男の子か、女の子が少しもわからない頃からずっとそう言い続けていました。でも、お母さんはもっと早いうちから、もうすぐ赤ちゃんが生まれそうだからと病院に入院していらっしゃったのです。もう今日にでも生まれそうと思われるのに、なかなか陣痛がつよくならずに、7月になっても赤ちゃんは生まれませんでした。でも、いくらなんでも、5日まではもたないと誰もが思っていたけれど、大ちゃんは「涼太は7月5日に生まれる」と言って譲らないのです。

そして本当に涼太くんは7月5日の深夜0時を少しまわったころに生まれました。

お母さんが今日はお迎えが遅れるということがわかったあやちゃんや大ちゃんはやっぱり未来のことがわかるのかもしれません。お坊さんがおっしゃったように、「そうなるようにできているから」ということなのでしょうか?

私はでも、あやちゃんや大ちゃんだけが特別なんだという気がしないのです。人はみんなそういう素敵な力を持っていて、でも、“大きな力”への扉を閉じ気味にしてしまっているのではないかという気がするのです。

 私たちは自分ができないことや目にみることができないことをなかなか信じることができないけれど、目に見えないことや自分ができないことでも、本当にあるということはいっぱいあると思うのです。たとえば、コウモリが、真っ暗の中でも、ぶつからずに飛ぶことができること、犬や馬の調教の笛が、私たちには聞こえないけれど、犬や馬には聞こえていること、魚が、広い広い海へ出ても、再び、生まれた川へもどってこれるということ、つばめが、生まれたおうちの軒下へまたもどってこれること・・・・どのことも、とても不思議でたまらないけれど、でも、やっぱりみんな本当のことですもの。

ところで、本当にそうなることになっているなら、“大きな力”によって、人は、動物や、すべてのものや、いったい宇宙はどこへ向かっていくのかなと思いました。いったい私たちはどこにいくのか・・・何もかもを“大きな力”は知っているのでしょうか?



目次へ

たんぽぽの仲間たちの表紙へ

inserted by FC2 system