宇宙の秘密

5 大きな力

 今もいつもぼんやりと、なんだかいろんなことを考えている私だけど、小さいときから、それは変わらないみたいで、小さいときもいつもぼんやり何かしら、いろんなことを考えていました。

 それは、大人の人にとっては突拍子もないことだったりもしたようで、「変な子」「不思議な子」とよく言われました。

 私はそんなふうに言われることが、ときどき恥ずかしくて、あまり、思ったことを口に出さないようにしようとしていたけれど、でも、やっぱり不思議だなあと思ったことは聞かずにはいられないのでした。

 いくつのときだったでしょうか?人間の身体が細胞からできていると聞いたとき、そしてその細胞が、最初はたった一個の細胞からできていて、それが、二つに分裂して、4つに分裂して、その後どんどん分裂してできていると聞いたときのことです。

「どうして、細胞が一個から、二個になるとき、まったく同じ物が二つできて、そのあともどんどんおなじものが増えていくのに、細胞がどんどん増えて、人間の身体になったときに、どうして、その細胞が、口になっていたり、足になっていたり、爪になっていたり、心臓になっていたりするの?だって、同じ物なのにどうして?」

 私は不思議でならなくて、いろんなひとに聞きました。父も母も、私が突拍子もないことを言っても、決して「変なことを聞いてはダメ」と言うことはなかったので、このときも、「わからないなあ、よく気がついたね。おもしろいな」と言ってはくれたけれど、その答えを教えてはくれませんでした。学校の先生に聞くと、ある先生は「今はわからないけれど、調べてみよう」と言ってくださったし、ある先生は「そんなことは考えない方がいい」と言いました。今から思うと、そのときは、まだ遺伝子の研究がそれほど進んでいなくて、誰もそのことの本当の答えを出してくれる人はいなかった時代だったのですね。

けれど、今は、科学も進んでそのことも明らかになりました。

 筑波大学で遺伝子の研究をしておられる村上和雄さんは、ひとつの身体で、どの部分も同じ遺伝子をもっているけれど、口の部分の遺伝子は口になるところがONになっていて、その他のところがOFFになっているから、口になり、足は足の遺伝子がONになっているから足になるのだとおっしゃっておられました。そして、村上さんは本の中でこんなふうに書いておられます。

「ヒトの遺伝情報を読んでいて、不思議な気持ちにさせられることが少なくありません。これだけ精巧な生命の設計図を、いったいだれがどのようにして書いたのか。もし何の目的もなく自然にできあがったのだとしたら、これだけ意味のある情報にはなりえない。まさに奇跡という敷かなく、人間業をはるかに越えている、そうなると、どうしても人間を越えた存在を想定しないわけにはいかない。そういう存在を私は『偉大なる何者か』という意味で10年くらい前からサムシング・グレートと呼んできました。・・途中省略・・・サムシング・グレートとは『こういうものである』とはっきり断言できる存在ではありません。大自然の偉大な力ともいえますが、ある人は神様といい、別の人は仏様というかもしれません。どのように思われても、それは自由です。ただ、私たちの大本には何か不思議な力がはたらいていて私たちは生かされている、という気持ちを忘れてはいけないと思うのです」生命の暗号―あなたの遺伝子が目覚めるとき−村上和雄(サンマーク出版)

小さいときからずっとぼんやり考えていたことが、村上和雄さんの本を読んだり、お会いしてお話をうかがったときに、すんなりと腑に落ちました。

なぜ、大ちゃんが言っていること、金沢のお坊さんが教えてくださったこと、そして村上和雄さんがおっしゃっておられることが同じなのでしょう。

金沢のお坊さんは「本当のことだから」とおっしゃいました。みんなが違うアプローチの仕方をしていても、みんな同じことに気がつくのは本当のことだからなのでしょうか?

人間の身体が作られるとき以外でも、何か大きな力の存在を感じることがあるなあと私いつも思うのです。

 たとえば、白川の講演会のときに、もし、小林さんが、私に「何号車に乗っているのか電話で聞こうかな?」って思いついてくださらなかったら、それから思いついてくださる時間が、あの時間よりもあと一分でも遅れていたら、私は絶対に講演会にまにあっていないと思うのです。小林さんが電話をしようと思ってくださったのを偶然だと思うのは簡単だけど、けれど、ちょうど滑り込んで乗れる電車があったり、次の高山線の電車のつながりが、講演にぎりぎり間に合うように接続していたり、呼んでくださった方が、何日か前に、なぜか講演時間を30分あとに変えてくださっていなかったら、そのどの一つがなくても、講演会には絶対に間に合わなかったのだと思うと、私はやっぱりそれが偶然だとは思えなかったのです。

 もしかしたら、宇宙か、それとも天かあるいは、どこかに、“大きな力”の存在があって、学校の子ども達が、その“大きな力”の声に耳を傾けることができるように、その“大きな力”が、小林さんの心に、「いま電話をするといいよ」と声をかけてくれて、小林さんは心に届いた“大きな力”の声に耳を傾けて、電話をしてくださったのじゃないか、主催者の方たちも、そうなのではないか、電車もちょうど乗り継げるようになっていたのだって、やっぱり偶然じゃないんじゃないかとそんなふうに思ったのです。

 おっちょこちょいで忘れん坊の私は、いつもいつもいろんな失敗をするけれど、でも、そういえば、ギリギリのところで、大きな失敗にならずにすんだこともたくさんあるなあと思います。靴を履こうとしたときに、まるで背中をトントンとたたかれたように「あ、あれ持っていかないといけないんだった」と気がついたり、厚い本をぱっとめくったときに、偶然あらわれたページに、とても大切なことが、書かれていたり、本やさんでまるで飛び込んでくるように、自分にとって大切な出会いともなる本が見つかったり・・・。

もし心の声に耳をすましてたり、心の目で、ちゃんと見ることができたら、もっともっと“大きな力”が教えてくれていたことにちゃんと気が付けたこともいっぱいあったのかもしれない・・・学校の子ども達や、小さい子ども達や動物たちが、いろんなことができるのも、やっぱり心の目で見て、心の耳で聞くことがとても上手だからかもしれないなあと思うのです。



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