宇宙の秘密

26 与えられて生きる

私の大好きな学校のお子さんの中に、お菓子のナイロンの包み紙が大好きで、いつも、包み紙を持って、いつもにこにこ笑って歩いている女の子がいます。女の子は顔を右に左にかしげながら、歩くのですが、その様子がまた、可愛くて、会った人はみんな女の子に魅せられて、そしてうれしく楽しい気持ちになるのです。 
 ある時、私は本を読んでいました。その本は、染色体が他の多くの人と違うために、似通った症状が出るおこさんたちのことが書いてある学問書でした。
 たとえば、ダウン症と呼ばれる症状のお子さんについても書かれています。人の遺伝子はたいていの場合、46本の染色体があります。22対の常染色体と呼ばれる染色体と、2対の男性か女性かを決める性染色体でなります。ダウン症の方は、多くの場合、21番目の染色体が3本あります。
 ダウン症のお子さんは、お父さんとお母さんにもよく似ているけれど、けれども、ダウン症のお子さん同士もよく似ておられます。特徴的といっていいお顔をしています。似ているのは顔だけではありません。ぷっくりとした可愛い指、やわらかな身体、明るい性格なども、またダウン症のお子さんたちの多くが持っている性質だと言ってもいいかもしれません。
 その本には、たくさんのお顔の写真が載っていました。ページをめくっていて、前に書いた、にこにこと可愛く歩いているお子さんにとてもよく似た写真をみつけたのです。写真のお子さんは、ハッピーパペット症候群(にこにことあやつり人形のように可愛くあるくことからつけられたと書かれていました)あるいは、その共通性を見いだした人の名前をとって、アンジェルマン症候群と呼ばれていると本には書いてありました。遺伝子の15番目の染色体の欠損でおきるとも書かれていたのですが、その中で、驚くことが書かれていたのです。それは、その症状の子どもたちはみんなビニールが好きだということでした。学校にいるその女の子が、その症例にあてはまるかどうかということは医学的な判断もないので、もちろん決めつけてはいけないのですが、おやつをみんなでいただくときに、おやつよりも包み紙が大好きで、みんなの包み紙をもらって廻って、それはそれはうれしそうににっこりしている可愛い彼女の笑顔と写真のお顔が重なりました。なぜあちこちにだくさんある紙でなく、ナイロンなのか理由はわからないけれど、彼女はナイロンの袋が大好きなのです。
 私はそれからいろんなことをぼんやりと考えています。
 22対の遺伝子のどこかひとつの特徴が同じだということで、いろんなことが似てくるのだと言うことは頭ではわかっていたつもりです。顔が似てきたり、体つきが似てきたり、それから、性格が似てきたり・・・。
 けれど、好きな物まで同じだということに私はたぶん、とても驚いたのだと思います。私は好きな物がたくさんあります。食べるものでもそうだし、それから、作ることが好きだったり、とても心惹かれる人がいたり・・・。私が何かを好きという気持ちは私という人間自身であると言ってもいいかもしれません。私の行動のもとになっているものだし、思考の根源でもあるかもしれません。
 急に「私って何なのだろう」という奇妙な気持ちにおそわれました。私の感じていること、私の考えていること、それは私自身の思いに間違いはないのだけれど、でも、誰を好きになって、何を食べたくなって、何をしたいかということはもう決められたことなのだろうか・・・。すべて与えられたものなのだろうか・・・。「本当のことだから」の本を書きながら、私は、私たちは大きな宇宙の中で、大きな宇宙に抱かれるようにして、会うべき人や物やことに出会って生きていくのだということを考えてきたけれど、そのことが、やはり現実なのだいう思いが、わき上がるように胸に迫ってきたのでした。 
 ペルーの天野博物館の阪根さんが、今、日本に来ています。先日お会いしたときに、阪根さんはこんなことを言いました。
「考古学者というものは、この国の文化は他とこんなところが違うのだというようなことを言いがちだけど、僕は、最近は、どうして人間というものは、どこの国にいても、まったく同じ事を感じ、同じ事をするのだろうとそのことを考えるようになってきた。遺伝子学者に言わすとね、人間なんて遺伝子がそう違わないから、同じことをするに決まっているさというんだけどね、それから、僕はね今まで、考古学に携わって、数字ばかりを大切に思ってきた。どんな角度でいくつ埋まっていて、それは何年のものだとかいうように。もちろん数字だってとても大切なんだけれど、このごろわかってきたんだけど、僕が伝えたいのは、そういう数字じゃないんだな。数字から、昔の人はこんなに素晴らしいことを考えていたんだ、感じていたんだと言うことをみんなに伝えたいと思うようになってきた。たとえば、インカの遺跡から出土された神の手の織物(六本指の手が真ん中に織り込まれ、その廻りに五本指の手が、6本指の手を守るようにあがめるようにして織り込まれたもの)がそうだし、それから、土器で、逆子で、今まさに生まれている様子をあらわしているものがある。同じようなものが、日本の古い土器からもみつかっていることがわかった。多くの人とは違った形で生まれた人は、特別な力を持っている大切な存在だということを、みんなが当然のように知っていて、それをあらわした物に違いないと僕は思っている。そしてそういうインカの人たちの遺跡を研究できることを誇りに思うし、けれど、そのことはインカに限らないということはすごいことだと思う」
 阪根さんの言葉を聞いて、私はやはり、「与えられた自分」というものを考えています。「障害を持っている人は、他の人と違うところがあるわけで、それはこの世に特別の役割を持って生まれたのだとみんなが当然のように考えたんだ」と阪根さんは言いました。
 私は最初、障害を持っている人に限らず、誰もが、それぞれ、みんな違っていて、一人として同じ人はいないわけだけどなあとか、きっと障害を持っておられる人だけが大事なのではなくて、誰もが、ひとりひとり特別な存在なのだと思うなあと考えていました。でも、もし、阪根さんがいうように、とりわけ、障害を持っていた人は大切な存在なんだということであれは、それもまたとても素晴らしいことだと思います。
 考えれば、この宇宙の成り立ちは、なんとうまくできているのだろうと思うことばかりです。そんな宇宙が、他の人よりはもしかしたら、生きていくことが大変かも知れない障害を持った人たちをことさら作り出しているということは、やはり、阪根さんが言われるようにとても大切な役割をになっているからということなのでしょうか。
 雪絵ちゃんは、よく私は私でよかった・・私は私にいつも誇りを持っていきたいといっていました。大ちゃんは「俺の中にはいつも本当の俺がいる。どうしたらいいかは本当の俺が決めているんや」「僕の好きなものに理由なんていらないんや」「心の奥にすわっている 僕の僕が 考えている」と言いました。
 与えられた自分を精一杯生きている大ちゃん、そして、精一杯生ききった雪絵ちゃんは、きっと言葉にしなくても、この自分がとても大切で、障害や病気も含めてみんな大切だと知っているのだと思います。 



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