宇宙の秘密

25 祈るということ

  今年もペルーから阪根さんが来てくださいました。私たちは毎年、岐阜や琵琶湖に集まって、阪根さんやみなさんとお話をしあう会を持ちます。
 それが、先週の土日でした。夜になって、車座になって、話をしていたとき、どういう話の流れだったでしょう。阪根さんが「もし、僕が外国の人で、『あなたの信仰はなんですか?どんな神様を信じますか?私たちを守っている神様はどこにいあると思いますか?』と聞いたらあなたはなんと答えますか」と言いました。そして、それを一人ずつ、輪になっている順に話していきました。
「仏教です」とか「クリスマスにはクリスチャンになるし、大晦日にはお寺に行って、お正月には神社に行きます」という人もいました。それから「大自然を信仰している」「わからないけれど、なんとなく神様にお祈りするということはある」という人、「自分自身に祈る」という人もいました。
「かっこちゃんは、どう?」最後に私に順番が回ってきました。
 私はみなさんのお話を聴きながら、思っていたことがあったのです。
「阪根さん、インカでも、それから日本の土器の時代でも、それからどこの国でも、祈るという行為が大昔からあったのはどうしてでしょう。怒るとか笑うとか泣くとかそれから食べるとか、そういう行為がどこにでもあるのは当たり前だけど、そういう行為や感情と祈るということとは少し違うように思うのです」
阪根さんは「たぶんそれは人間のDNAに書かれているのだと思う」と言いました。そして私もそう思ったのです。きっと祈るということはとてもとても大切なことなんだ・・大きな宇宙にとっても、そして人間にとっても、(この二つは別の物ではないと思うのですけれど)とても大切だから、人の身体にもう組み込まれているのに違いないと思ったのです。では、「祈る」ということにはどういう意味があるのでしょうか。
 私はこんなふうに考えました。前に、私たちは大きな力が出会うべき人や、物や、ことを目の前に用意してくれていて、それに沿って生きているのではないかと書きました。大きな力が私たちをいつも導いてくれているように思うと書きました。では、人はどうやったらその大きな力の声を聞くことができるのでしょう。
 私はそれが「祈る」ことのような気がしました。目を閉じて、心の耳をすませて、心の目をすませて、大きな力とつながること・・・それは、言い換えれば大きな力の声を聞くことだと思いました。だからこそ、私たちは困ったことがあったときなどは神様に祈ろうとするのじゃないかなあと思いました。
 そう思ったときに、いろいろなことがつじつまがあうような気がしたのです。沖縄で、祈ることで未来を知ることができる人がいて、そのときに、その方の脳から出る波長を調べると、滝に打たれて修行をしている人の脳の波長と一緒だったのだそうです。また驚くことに、人が作曲や彫刻、絵を描くなどの活動に打ち込んでいるときに出てくる波長とも同じだというのです。
 今年の夏はネパールに行きました。「本当のことだから」を書いたあとだったので、ネパールに行って、神様のことについて考えたかったのです。
 ネパールでは、人々はいつもいつも神様とともにいました。朝に夕に、いいえ、日中にも、町のあちこちで、人々は手をあわせていました。その様子を見ている内に、私は、祈るという行為は、本来であれば、こうしてほしい、ああなるといいなあというようなことをお願いする行為なのではなくて、無心に手を合わせることなのだというふうに感じるようになっていました。ネパールには、マニ車という神具があります。手に持って、くるくるとマニ車を回すのですが、1回、回すとお経を一度読んだことになるのだそうですが、それを何時間もずっと回していたり、108個の菩提樹の実をつなげて作ったお数珠の数を無心に数えながら、仏舎利を何度も回っていたり、・・ひざまずいて頭を地面にこすりつけるようにしていたり・・・その様子は、こうなって欲しいというような願う行為ではなく、心を無にして神様の心とつながろうとする行為、すなわち大きな宇宙とつながろうとする行為のように思えたのでした。
 ネパールから帰って、友だちが「神様に会えた?」と 話しかけてくれました。「ネパールではね、人の数よりも神様の数が多いんだよ。それでね、山も空も、牛も犬も、花も虫もみんな神様なんだよ。みんなみんな神様なんだよ」そう言ってからはっとしたことがありました。
 私は、阪根さんやみんなと出会った琵琶湖の会場に行くまでの間に、見事に大きな球の形に枝をのばした木を見ました。私の家の近くにも、まるく枝を伸ばす木々が生えていて、夕日に見事なシルエットを残します。
 木々のたくさんの枝は、それぞれが自分の気持ちで、枝を伸ばすのだと思うのだけど、でも、その枝たちは、全体で、大きな球の形をさせながら、大きくなっていくのです。木はたくさんの枝の気持ちのあつまりだけど、木というひとつの気持ちに沿って伸びていくのです。琵琶湖のあたりをお散歩していたときに、土からも草花が全体として半球の形に生えているのを見ました。おそらくお日様が上手にあたるように球の形を作っているのだろうと思うのですが、それぞれの長さで伸びながらも、全てでひとつの美しい形を作っていることの不思議を思いました。それはお互いにつながって生きているからに他有りません。
 阪根さんはインカ文明について、研究している考古学者です。「考古学者というものは、この文明は他とここが違う。ここがすぐれている・・というようなことを考えがちなものだけれど、このごろでは、ああ、この文明でもこの文明でも同じなんだ・・人はどこでも、どうして、こんなふうに同じ事をして、同じ事を考えるんだろうと思うことばかりなんです。どうしてこうも同じなのでしょう?」と言いました。
 私は、人も木と同じようにつながっているからではないかなって思いました。祈るという行為や、瞑想や、あるいは無意識下の意識でつながっているからではないかと思いました。そして、前の章でも考えたように、やはり、神様や大きな力というものはどこか特別なところにあるのではなく、人も動物も、鳥も木も森もみんながつながっているからこそ、みんなの中にあるのだと思ったのです。
 ついこのあいだまで一緒に仕事をしていた佐藤先生が、ある日こんなふうに言いました。
「僕の祖父は亡くなるときに僕を呼んで、『じいちゃんは亡くなっても、カラスになってお前を見ている・・困ったことがないか、つらいことはないか、いつもカラスになってお前のそばにいる』と言ったんです。カラスというと、嫌われ者というふうに思われがちだけれど、僕はそれからはそう思わなくなりました。この学校に来て、大きな学校で知らない人ばかりだったり、慣れないことも多かったけれど、運動場にカラスが来て、雨の日などに、虫をついばんでいる様子を見ると、ああ今日もじいちゃんが来てくれて僕のことを見ていてくれるんだなと思うようになったんです」
 ネパールにもカラスがいました。頭が白くて、身体が黒い、魔女の宅急便に出てくると同じカラスです。驚いたことに、ネパールでガイドをしてくれたギータちゃんが「カラスが私たちを守っている」と言ったのです。佐藤さんのおじいちゃんのお話をしたら、ギータちゃんは「そうです。カラスは人をとてもよく守ります。ネパールにはカラスの神様もいます。だから私はカラスの民話にとても興味があるのです。ネパールにもあるし、中国にもあるし、インドにもカラスの民話が残っています。カラスが人をよく守るというわけは、カラスが人のすぐ近くにいるということでもわかると思います」と言いました。けれど、ギータちゃんは、牛も虫も山もみんな神様だとも言ったのです。
「私たちを守っている神様はどこにいると思いますか?」という阪根さんの問いにはなんと答えたらいいでしょうか?
 私たちを守っているのは、私の横にいるあなたであり、カラスであり、その犬であり、その草であり、そして、その空であり、そしてその石だと言えるのではないでしょうか?そうですよね、私たちの廻りにある全ての物が私たちを守っていると言ってもいいのかもしれません。そして、犬も猫も、木々も、宇宙とつながりながら、その本当のことを知っているような気さえしてくるのです。
 私たちの廻りには不思議な出会いがたくさんあります。どうして、こんなふうにつながれたのだろうと驚くような出会いもいっぱい・・・でも、どんなこともつながって、誰もが守ってくれているのだとわかったら、そんなことも何も不思議なことではないのかもしれません。



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