宇宙の秘密

21 雪の降る日に

 どんなふうに、心の中で受け止めていいのかわからずにいます。親しい人の声を聞いたら、心がゆるんで泣きそうになってしまう。だからなかなか誰かと連絡をとることもむずかしくいます。悲しいのかと言われたら、悲しいという言葉は少し違うようにも思うのです。つらいのかと言うと、たぶんつらいのだけど、そう言ってしまいたくないのです。さびしいのかと言うと、それも違うような気がしてしまう。それでも、ふと気が付くと、涙が知らない間にあふれているのです。あれから、夜もあまり眠れず、何度も起きてしまう。そうかと思うと、まるでそのことから逃げたいように、目を閉じていたくなり、ベッドに入って、眠ろうとしてしまう。眠れば、いっそう強く雪絵ちゃんとつながっていられると思うのでしょうか?けれど、起きていたって、雪絵ちゃんの笑顔や、雪絵ちゃんの言葉や、雪絵ちゃんの声が、頭から離れないのです。

 雪絵ちゃんとは、病弱養護学校という学校で出会いました。子供たちはネフローゼや喘息、糖尿病など慢性の病気を持っておられました。雪絵ちゃんは、生徒さんのひとりで、私はそこで、教員をしていました。出会いの仕方というものはきっかけにすぎないのかもしれません。私と雪絵ちゃんは、学校にいたあいだも、そして、学校が終わった後も、ずっとずっと親友だったと思います。

 3年前の冬、雪絵ちゃんは、車いすを使っていたけれど、車いすに移るときは、自分の力で立ち上がっていました。私の肩を使えば、立ってあるくこともありました。

 雪絵ちゃんとはよく旅の話をしました。雪絵ちゃんは旅をしたがったし、私もいつも雪絵ちゃんと旅に出たいと思っていました。ディズニーランドに行こう、宝塚に行こう、と本を見ながら話をしたり、交通手段の相談もしあったこともあったけれど、雪絵ちゃんの体は時折、再発をすることがあって、私はそれが心配でなりませんでした。「なら、温泉に行こう」言い出したのは、雪絵ちゃんだったでしょうか?私だったでしょうか?

 そんなときに、温泉で忘年会をしようと、声をかけてくれたのが、私と、雪絵ちゃんの共通の友人である、中小路さんでした。車いすでも快適に過ごせる温泉のホテルはどこか、お風呂はどうか、くわしく調べてくださって、私たちは本当にうれしかったです。

 忘年会は、東京から、私の「きいちゃん」という本を作ってくださった、アリス館の後路さんやイラストレーターの多田順さん「ゆうきくんの海」の装丁をしてくださった多田進さん、きいちゃんの装丁をしてくださった丸尾さんが出席され、小林さんご夫婦、大谷さん、中小路さんというふうに、冬の石川の観光も兼ねてこちらへこられたのです。

 雪の日でした。寒くはないかと心配だったけれど、雪絵ちゃんは冬の海に降る雪を見たいと言いました。(私が好きだと何度も話をしていたからだと思います)雪の科学館にも行きました。蟹や甘エビの市場にも行きました。一晩、いろんな話をしました。

 同じ部屋で眠りながら、私たちは修学旅行のようにはしゃいでいました。

 しばらくなかったほどの大きな再発が起きたのは、それから何日もたたないある日でした。足だけでなく、手もほとんど動かせなくなりました。体をおこすこともむずかしくなりました。入院した病院に飛んで行くと、雪絵ちゃんが落ち込んでいるのが私にもわかりました。けれど、そんなときでも、「ねえかっこちゃん、手が動かなくなったけれど、自分でご飯を食べられるように考えて」「指の先だけが少し動くから、なんとかテレビのチャンネルを変えれたらなあ」と前向きでした。補助具を考えて持っていくと、雪絵ちゃんは「これを上手になろうという目的ができたら、明日はもっとと思うでしょう?そうしたら、明日が楽しみになるんだよ」と言いました。

「ねえ、温泉のせいかなあ」温泉の忘年会はとてもとても楽しかったけれど、温泉や海に出かけたのが原因でなかったかと私はずいぶん悔やみもしたのです。けれど、雪絵ちゃんは「雪の海がきれいだったね」「私、温泉に本当に行ったんだね。本当に海を見たんだものね」とただただ、喜びの言葉を口にするばかりでした。

前は一月、二月という入院だったのが、その入院から、1年、2年とずいぶん長い入院生活になりました。私の住んでいるところから少し遠い、難病病棟がある病院に転院になりました。長くなるたびに、私は温泉のことを思いました。雪絵ちゃんは「あっはー、まだそんなこと言ってる」と雪絵ちゃん独特の可愛い笑い方で、私の言葉を笑い飛ばすのでした。

会いたくて会いたくて、たまらずに出かけたことも何度かあったけれど、でも、病院が遠い分、会う機会はずいぶん減りました。けれど、雪絵ちゃんはそのころ、携帯電話でメールをすることができるようになりました。会えない分、毎日のように、携帯でメールをしあいました。それから、病院の先生にお願いして、パソコンがつながるように(山にあったために、なかなかインターネットにつなげることがむずかしかったのです)してもらって、お友達にホームページを作ってもらったりもしたのです。雪絵ちゃんは、メールや手紙を通して、たくさんのお友達とつながっていきました。雪絵ちゃんは私の勇気と元気であったと同時に、たくさんの人の元気の素でもあったのだと思います。雪絵ちゃんの人柄や、まっすぐで、前に向いていつも歩いている生き方が、たくさんの人の心を動かしたのだと思います。雪絵ちゃんの本「幸せ気分」は3刷りにまでなり、2冊目の本「お日様気分」も作られました。その本たちは、雪絵ちゃんのことが大好きな友達が、入力しデザインし、企画し、印刷し、販売をし、広めました。本を作ってくださった鶴田さんはそういうふうにして出来た本が、3刷りまでいくことや、2冊目の本ができることに驚いて、「奇跡の本」だと言われました。

今年の春ごろ、病室をたずねたときに、雪絵ちゃんは「私、家に帰りたい。それが夢だから、あきらめないよ。あきらめないのが、私流な生き方なんだよ」とにっこり笑って言いました。そして、その言葉通りに、退院のためのリハビリをするために、雪絵ちゃんや私の家の近くにある病院に転院になりました。そして、2年半年ぶりに雪絵ちゃんは家へ戻ったのです。家でも、リハビリの病院でも、どこでも雪絵ちゃんはいつもいつも笑っていました。そんな中、何度も何度も小さい再発をくりかえしました。目がほとんど見えなくなったこともありました。

「パソコン見えないから、なんとか音で入力したり、読んだりすることをしたいの。もうパソコンできなくてもいいじゃないなんて、言う人もいるけれど、それは違うの。私はホームページにエッセイを書き続けたいし、それを読んでもらいたい。もし、メールをもらって、お返事を書くことが、今はむずかしくても、なんとかエッセイだけは続けていきたい。私ね、たくさんお手紙やメールもらってね、それでも、お返事できないと、みんなが、私のこと、忘れらちゃうだろうなあと思って、少し悲しかったの。でも、あ、大丈夫って気が付いたの。私がみんなのこと、忘れてないから、私はいつも思っているから、だから、それでつながっていられるって。それでね、思い出したときに、ホームページに来てもらえたら、エッセイを読んでもらえるもの」

「大丈夫だよ。エッセイなら、おしゃべりをしたのを書き留めておいてもらったら、それをアップしてもらえばいいんだもの」養護学校の時の友達の茜ちゃんや、病院の看護士さんで、でも、やっぱり出合い方は看護士さんと患者さんでも、大の仲良しの山佐さんが、「うん、私、できるよ」って言ってくださって、エッセイは続けられました。

ある日、雪絵ちゃんが、「私はどこへも出かけられないでしょう?そのことで、どんないいことがあると思う?私、どんなことにもいいことを見つけたいから。考えて」と言いました。私は日頃思っていたことを言いました。

「私の勝手な言い分なんだけどね、私は、ほら、なんだか嫌なことがあったり、悲しいことがあったりつらくなったり、それから、うれしいことがあったり、とにかく、いろんなときに、雪絵ちゃんに会いたくなるでしょう?そんなときにね、もしたとえば会えなくてもね、“雪絵ちゃんは、あそこにいつもいてくれるから”っていう安心感が私にあるの。会いたくなったら行けば会えるって思えるの」と言いました。「あ、そっか、それって、すごくうれしい。それに、勝手な言い分じゃないよ。私が会いたくなったときは、かっこちゃんは必ず、なぜかそれがわかって、私のところへ来てくれるもの」

「ええ?本当?」「うん、かならず、会いに来てくれるよ」「私は、自分が会いたくなって会いに来てるんだけど、もしかしたら、雪絵ちゃんが会いたいって思ってくれたから、私の心が会いたがったの?」「あっはー。きっとそうだよ。あ、それとも、かっこちゃんが会いたいって思ったから、私が会いたくなったのかな?」「ようするに、どっちも、お互いに、会いたがってるんだ」「そうだよ。かっこちゃんと私、ようするに、お互い必要どうしなんだよね」

本当に、私たちは、会っているときもそうじゃないときも、心のどこかに、いつもお互いがいて、いつもつながりあっていたように思います。

10月の初めに雪絵ちゃんはこんなエッセイを書いています。

。。。。。。。。。。。。。。。。

10月6日

 なみちゃんからお便りもらったの。
そこには、私が前に書いた本の一文が書いてあった。
「私がいい日にしてみせる」
確かにそういう文書いた。どんな日も、悪い日も、全て私がいい日に変えてみせるって言う感じの文だったと思う。今もそういう私でありたい。」

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

10月6日

一生懸命さがさなくても無理してがんばらなくても、楽しいことや幸せはすぐそばにあるんだよね。
楽に力を抜いて生活していけば、次から次へとやってくる

。。。。。。。。。。。。。。

10月6日

ホームページをスタートさせて今年の秋で2年になりました。
みんなのおかげで今日まで続けてこれました。
どうもありがとう。そして、これからもよろしくね

。。。。。。。。。。。。。。。。

このエッセイが、ホームページのエッセイの最後のページになっています。

10月7日、雪絵ちゃんは目がまた見えにくくなっていたので、病院に検査の入院で行くことになっていました。福祉タクシーを頼んで、乗り込んだあと、急に容態が変わりました。どんなふうに変わったのかは、雪絵ちゃん自身でないと言えないかもしれません。とても不安だったのでしょう。お母さんに「怖い怖い、痛い痛い」と言ったのだそうです。お母さんは、ただごとでないと思われて、救急車を呼ばれました。そして、検査やリハビリのために入院していた病院に入院したのです。

 お母さんのお話によると、雪絵ちゃんの再発は「意識」の場所だったのだそうです。救急車の中ではお話していた雪絵ちゃんでしたが、病院に着く頃には、意識不明になりました。私もあわてて雪絵ちゃんのところへ行きましたが、そのときには、「家族だけしか会えない」という状態でした。ただ、祈るだけの毎日が過ぎていきました。

 「あきらめないのが、私流(わたしりゅう)」雪絵ちゃんの言葉が私の支えでした。雪絵ちゃんがそう言っていたから、だから、きっと大丈夫。がんばって、がんばって、また一緒に話そうね。おいしいものも、一緒にいっぱい食べようね.

一ヶ月がすぎたころ、看護士さんの山佐さんからメールをいただきました。「他の人はまだだけど、かっこちゃんには来てもらってって、お母さんがおっしゃってるよ」

お母さんには複雑な思いがおありだったのだと思います。雪絵ちゃんにはたくさんの友達がいることをお母さんはよくご存じでした。そしてそのことを、お母さん自身もとても喜んでおられました。だからこそ、こんなときには、雪絵ちゃんのもとにすぐに駆けつけたい友達もたくさんおられることもわかっておられたのだと思います。けれど、面会は疲れることもあるかもしれない。こんなときは安静が一番だという気持ちも持っておられたでしょう。それから、お母さんは「雪ちゃんが、今、怖い顔をしているから、会ってもらっても、返事もできないし、怖い顔をあんまりたくさんの人に見てもらうのも・・」とおっしゃいました。大きな大きなその発作のあと、しばらくのあいだ、顔がなぜか2倍ほどにもふくれ、目の表情や顔の表情も確かに、いつもの雪絵ちゃんではなかったようです。お母さんも心労のあまり、少し心を閉ざしておられたかもしれません。

けれど、私が会いに行ったときの雪絵ちゃんは、もとの雪絵ちゃんの可愛い顔でした。ベッドを起こして、目は閉じていたけれど、私がそばに行くと、手をぎゅっとにぎってくれました。「雪絵ちゃん?」と声をかけると、また手をぎゅっと握りかえしてくれるのです。(雪絵ちゃんはきっと聞いてくれてるんだ)

一月ぶりにお風呂にはいったということを聞いたのもそのころでした。病院の先生がつねると、「痛い」と声をあげたのもそのころで、私たちは、雪絵ちゃんが言葉を発したことをとてもとても喜びました。

大きな可愛い目をぱっちりと開けたのを見たのもそれから何日かたった頃でした。確かに聞いてくれてるという思いは変わらなかったけれど、でも、しばらくするとまた目を閉じてしまう雪絵ちゃんと確かに気持ちの交信ができていると、確信をもつことはむずかしかったのです。二日おきくらいに、病院に行きました。雪絵ちゃんは、今までと同じように、私の毎日の出来事に耳を傾けてくれているようでした。たくさんお話をしました。それから、クリスマスの歌も歌いました。きっときっと、雪絵ちゃんは心の耳で聞いてくれてる。

ある日、雪絵ちゃんが「せんせい」と大きな声で言いました。このごろではかっこちゃんと私のことを呼んでくれていたけれど、ちょっと前までは「せんせい」と呼んでいました。うれしくて、はあいとお返事をして、手をぎゅっと握り合いました。そんなとき、心のどこかで、きっと私のことを呼んでくれたんだと思いながら、でも、病院の先生の夢だったのかもしれないなあと思う自分もどこかにいました。

お母さんが電話で「先生、あんまり、無理しんといてね。忙しいのに、雪絵のために体を壊さないでね」と心配してくださいました。でも、私は雪絵ちゃんにいつも会いたかったのです。家にいるときも、学校にいても、雪絵ちゃんが、今日はもっとお話ができるようになったのじゃないか、、笑ったり、確かにお互いが交信しあえるのじゃないかと、気になるのでした。

 前の入院のある日のこと、雪絵ちゃんが、雪だるまと雪の模様のパジャマを着ていました。私が、「なんて可愛いパジャマ」と言うと、「私の一番のお気に入りなの」と言いました。雪絵ちゃんは雪の模様が大好きでした。私も遠くへ出かけたり、お買い物に出て、たまたたま雪の模様の便せんや、雪の模様の品物をみつけると、「あ、持っていくと、雪絵ちゃんがよろこぶだろうな」と思いました。雪絵ちゃんの喜ぶ顔は、本当に素敵でした。

 クリスマスが近づいて、クリスマスの3日後のお誕生も近づいていたので、私は雪絵ちゃんに、雪の模様のパジャマをプレゼントしたいと思っていました。あちこち探すけれど、なにげなく歩いていると目に付く雪の模様が、パジャマと決めて探すとなるとなかなか見つからないのです。「でも、きっと探すからね」雪絵ちゃんは、相変わらずお返事はしなかったけれど、大きな目をあけて、私を見てくれたようでした。

 20日頃、出かけたとき、雪絵ちゃんの表情の変化に気が付きました。

 いい風にでなく、もしかしたら、また再発が始まっているのじゃないかと感じたのです。23日、顔がまたふくれてきたようでした。「私、明日から、少し旅行に出かけることになっているの。雪のパジャマが見つけられなかったら、雪の模様の別の物を探してくるね」そんなふうに声をかけながらも、私は不安で仕方がありませんでした。

 24日、旅に出ようと、飛行場に行くと、なんということでしょう。「天候悪化のために、欠航となります」と張り紙があったのです。でも、この旅は日程を変更しても、どうしても、出かけなくてはならない、出かけたい旅でした。帰りに雪絵ちゃんのところに寄ると、雪絵ちゃんは少し苦しそうでした。

家へ帰ってから、どんな天候だったのかなあとインターネットで調べても、行き先の天候は、晴れ、同じ時間に飛行機も着陸しているようでした。不思議だなあと思いながら、26日を待ちました。

そして、26日の朝、雪絵ちゃんが亡くなったという知らせを受けたのです。苦しそうな雪絵ちゃんの顔を見ても、意識がなくなったと聞いても、私は雪絵ちゃんが亡くなることなんて、考えたこともなかったのです。

今日の午後から、出かけることになっていました。お通夜とお葬式・・・そんな言葉を聞いても、ただぼんやりとするばかりです。けれど、心のどこかで、そのとき、「雪絵ちゃんがそう決めたんだなあ」と思いました。

雪絵ちゃんはいつも自分で決めていました。薬を飲まずにいたいと考えれば、お医者様の気持ちとはそれが反対であったとしても、雪絵ちゃんは「薬は飲まない」と決めていました。迷って、やっぱり飲もうと思ったときは、お医者様にそう言って、「薬をのむことにした」のです。人との関係や、いろんなことを雪絵ちゃんはちゃんと自分で考えて決めていました。「だって、私の人生なんだよ。誰かの人生にどうして、責任なんて、持てる?でも自分の人生に、自分は責任を持てると思う。だって、自分で決めたならがんばれるし、自分で決めたなら、誰のことも責めずに生きていける。私、誰のことも責めたくないもの」「いつだって、自分で決めるよ」雪絵ちゃんはいつもそう言っていたのです。だから、なくなったことさえ、きっと雪絵ちゃんは自分で決めたのだろうと思いました。

お通夜とお葬式の日のことを考えなかったと言ったら嘘になると思います。旅の予定をもうのばすことは確かにできませんでした。けれど、それよりも、もっと、思ったことは、私はきっと雪絵ちゃんとずっと一緒にこれからも生きていくんだということでした。自分勝手な感じ方だとはわかっているのだけれど、雪絵ちゃんは私とお通夜やお葬式で別れるということを望んでいるのじゃないのじゃないかと思ったのです。

雪絵ちゃんのおうちへ行くと、お母さんが「ああ、よく来てくださったね」とおうちへ上げてくださいました。そして、雪絵ちゃんのところに連れて行ってくださいました。おふとんに横になっているすぐそばに、雪絵ちゃんが大好きな、妹さんと、そして、お姉さんの二人のお子さんが、静かに遊んでおられました。

「雪ちゃん、大好きな山元先生が、来てくださったよ」お母さんの言葉に、やっぱり涙がとまりませんでした。「本当にありがとうございました」と深々と頭をさげてくださる、お父さんとお母さんに、「私こそ、ありがとうございました」と頭を下げるばかりでした。

「雪絵は金沢へ行きたくなかったんやわね」お母さんがおっしゃることがよくわからず、「金沢へ?」と尋ねると、「年が明けたら病院をかわることに決まっとったの。脳外科へ転院することになっとったんやけど、雪絵は、遠いところへは行きたくなかったんやわね。家に帰ってきたかったから、そんでね」とおっしゃいました。

「雪絵ちゃんは、自分で決めたんですね。金沢へ行かないで、クリスマスやお誕生日や、お正月をおうちですごしたくて・・」

「ああ、この子は何でも自分で決める子やったから」

「でもほら、先生、この子、本当に安心した顔して、眠っとる。そう思いなさらんですか?いい顔して眠っとる。この子はこうしていたかったんやわ。大好きな甥っ子や姪っ子の遊んどるそばで、眠りたかったんやわ」

「この子が、ずうっと家に帰りたくて、前に何ヶ月かやったけれど、家に帰ることができて、私たちも、本当にいいプレゼントをしてもらったような気がするし、家族ですごせて、本当によかったと思ってる」

私は気になっていたことを言いました。「温泉に行ってから、大きな再発が起きたことを私はどうしても、申し訳なく思っていて、雪絵ちゃんはいつも、行けてよかったって喜んでくれたけれど、私はそれで本当によかったのかと、お母さんやお父さんにも申し訳なくて」

「そんなこと、思っておられたとはびっくりしたわ。先生、あの子は海に行きたくても、そんな誰も連れて行ってなかなかやれなかった。あの子は何度もそのことを喜んでいたわね。幸せな子でした。私らには出来ない経験もして、たくさんの友達によくしてもらって、本当に幸せでした」

「この子は雪絵という自分の名前を好きだ、気に入っているっていつも言ってくれたけれど、私は、こんな早くに死なしてしまった気がして」

人を大好きでいるということは、その人が、いつも笑っていてほしいとのぞむものだから、自分がしたことが、相手のつらさにつながっていないかと心配をするものなのかもしれません。

お母さんは雪絵ちゃんの名前の中の雪と字が、雪がすぐとけて、はかないものだからということで、おっしゃったのだと思います。

「雪絵ちゃんらしいきれいな、名前ですね。雪絵ちゃんは本当に自分の名前が好きだった。本当にきれいでまっすぐな雪絵ちゃんらしい名前だと思います」

「私は実は、24日に旅に出かける予定が、今日に延びてしまったのです。のびたことで、今日、こうして、雪絵ちゃんとそしてお母さんとゆっくりとお会いできて、よかったです」

「あの子は、先生に、あわただしいお通夜とかお葬式とかでなくて、こんなふうに、ゆっくりと話がしたかったんやわね。だから、24日に行かんといてって、言うたんやわ。きっとそうに決まってるわ」お母さんの言葉に、私もやはり、そんな気がしてくるのでした。

25日に、雪絵ちゃんの様子がいっそうおかしいように思われたお母さんやお姉さんは、雪絵ちゃんの意識がはっきりしない様子を、見せずにおられた、小さい甥っ子さんや姪っこさんを連れて病院にいらっしゃったのだそうです。

「『雪ちゃん』と姪っ子が名前を呼んだら、一瞬正気に戻ったようやったって。あの子は姪っ子や甥っ子が好きだから」

「この子は、お誕生日が、お葬式ということになって、本当に誰がしようと思っても出来んことやわ。本当に、雪ちゃん、あんた、あっぱれやわね」

「先生、本当に長かったわ。私も、なんだかほっとしてる。この子が、病院にいても、家にいても、私はやっぱり、寂しくないかつらくないかとずっと気がかりやったけれど、今からはずっとそばにもいられるから」

お母さんと、他にもたくさんお話をして、雪絵ちゃんの頭を何度かなぜさせていただいて、最後にほほをよせたとき、私は、私もきっとこれからもずっと雪絵ちゃんと一緒に生きていくのだと思いました。

旅に出る前にキョンナムさんから電話がありました。まだ、泣いていて、少し様子が変だったのでしょう。「何があったの?」というキョンナムさんに雪絵ちゃんの話をしたら、キョンナムさんも少し涙声で、「旅のあいだも、きっと雪絵ちゃんは一緒だから」と言ってくださいました。

「はい、そうします。雪絵ちゃんはいつも旅に行きたがってた。雪絵ちゃんといろんな話をしながら、旅をします」

私は旅の間中、雪絵ちゃんの言葉や笑顔を思っていました。

雪絵ちゃんの人生はどんな人生だっただろう。つらい人生だっただろうか、苦しい人生だったろうか、そう心に問うたびに、雪絵ちゃんの「私、せっかくMSに生まれてきたんだよ」という言葉を思い出します。雪絵ちゃんの人生は、雪絵ちゃんだからおくれた人生、「私、せっかく雪絵に生まれてきたんだよ、雪絵が雪絵であることを楽しまなくちゃ」って雪絵ちゃんはきっとそう言うでしょう。

私はどうして雪絵ちゃんと出会えたんだろう。雪絵ちゃんは「私、病気じゃなかったら違う人に出会えたと思うけれど、私は今周りにいる人と出会いたかったんだよ。だからそれでよかったんだよ」と言いました。

「おかしなことを言う人がいるんだよ。雪絵ちゃんと山元先生はライバルだねだって。アッハー、おかしいね。なんでそんなこと思ったのかな。私たちはどっちかがいなかったら、私たちじゃなくなっちゃうのにね」「出合いってお互いが大事じゃないと出会わないのにね」

私はまた、与えられた命、与えられた出合い、与えられた人生ということを思っています。雪絵ちゃんは与えられた命、与えられた人生を、こんなにりっぱいに生ききったのだと思います。そして、与えられたたくさんの出合いをとても大切にしていました。

雪絵ちゃんのお葬式の日、お誕生日の日は、小松には雪絵ちゃんの大好きな雪がたくさん降ったのだそうです。雪の降る日の、きれいな朝に生まれ、雪の降る日に、お葬式を迎え、雪のように輝いて、空に上っていく・・・

雪絵ちゃんは天使だったのかもしれない・・・そんなことをふと思いました。空から雪をたくさん降らして、たくさんの人の心をきれいにしてくれたのかもしれない。

私は、旅をしながらも、家に帰ってきてからも、まだときどき泣きそうになります。私は雪絵ちゃんとこれからも一緒に生きていくってわかっているのに、雪絵ちゃんは自分で決めた生き方をしたんだってわかっているのに、でも、やっぱりどうしようもなく泣きそうになります。たぶん、私の心の中には、一緒にまたたこ焼きやチーズケーキをいっぱい食べたり、お話をして、アッハーって笑い会ったりすることの未練があるのだと思います。

でも、きっと時間がたっていくうちに、大丈夫になるでしょう。だって、雪絵ちゃんが、きっとここそこに、毎日のように顔を出してくれるに違いないのですもの。

 

 



目次へ

たんぽぽの仲間たちの表紙へ

inserted by FC2 system