宇宙の秘密

19 情報の秘密

 

 人間の体のしくみについて、いつもいつもただ繰り返し思うことは、ただただ「不思議だ」ということばかりです。生きていくということは本当になんて、うまくできているのでしょう。

 運動をすると、体温があがります。でも、そんなとき、汗をかいて、気化熱を奪われて、体温が調節されます。寒くて、体温が下がりそうになると、くしゃみが出たり、体がぶるぶると震えることで、体温があがってこちらも、ちょうどいい体温に、体がしようとするのです。

  病気やけがで、体に菌が入ると、自分の体の中の物質でそれを攻撃して、菌から体を守ろうとします。

 ものを食べれば、胃液がそれを消化して、体を作る物質に変えていきます。

そのどれもが、自分の体の中で起こっていながら、自分では少しも気がつきません。私自身の気持ちでなく、胃が働き、皮膚が働き、腎臓が働く・・では、いったい誰がそれを命令しているのでしょう。いったいそれは誰の気持ちなのでしょう。

テレビに、ふぐとカニが満月に一斉に産卵する様子が映し出されていました。くさふぐは満月の夜になると、水面が真っ黒になるほど、波打ち際に集まってきて、産卵をいっせいに始めるのだそうです。なぜ、いっせいに、満月の夜なのでしょう。ふぐも、カニも、自分の気持ちで、ちょうどそのときに、産みたくなって、卵や子供を産むのだろうけれど、それが、自分の力のおよばないところで、誰かわからないけれど、大きな気持ちに抱かれるようにして、産卵を始めるのは、これもとても不思議なことです。たくさんの卵が一度期に生まれることで、その卵をねらっている鳥や他の魚が、いくらたくさんのふぐの卵を食べたとしても、次の世代へ子孫を十分に残せるだけの卵が残る・・・偶然だと思う方がむずかしいような気がします。

私は、くさふぐの産卵のことと、私のからだの中のいろいろな機能が、自分の思いとは別にとても上手に動いて、私を助けて生かせてくれていることが、なんだか似ているなあと思うのです。

そしてもうひとつ思うことは、情報ということの不思議です。今、携帯電話やパソコンでいろいろなものが情報として伝えられています。前にも書きましたが、文字だけでなく、音楽や声や映像も、伝えられます。伝えられた映像は、その情報を形として表す装置、音であるなら、スピーカーが、映像であるならば、テレビなどのディスプレーがその情報を形にして、私たちにみせてくれます。(余談だけど、立体のものが、転送できないのは、それを目の前に表す装置、スピーカーとか、ディスプレイのようなものが、立体にはないからなかあと思うのです)

ところで、人間の体の中もまた、情報の伝達というものが、自分の知る知らないにかかわらず行われているのだそうです。汗も、それから胃液の消化酵素も、体の状況から、脳に必要な情報の伝達が行き、そして、また脳からも信号が伝えられて、それによって、物質が放出されて、行われるということがわかっているのだそうです。

また、無鉄砲なことを言うようですが、体の中で、知る知らないにかかわらず、情報が伝達されて、物事が行われているのなら、一匹のふぐが、自分で卵を産みたいなあと思って卵を波打ち際に産むのだけど、でも、どこからか、くさふぐたちにも、やはり、情報が伝達されて、不思議と満月に卵をそろって産むのだろうかとそんなことを考えてしまうのです。

もし、そうならば、大きな力は、人間や、動物や、もしかしたらすべてのものに、どんなふうに情報をつたえてくれているのでしょうか。

 

ある日、また別のテレビ番組を見ました。蝉の声も鈴虫の声も、電話を通すと、その声は聞こえないのだというのです。それはどうしてかというと、電話機を通すことができる音の幅が限られているからだそうなのです。

蝉も鈴虫も、電話を通す音の幅の外にあるのだそうです。人の声をもかき消すような蝉の鳴き声なのに、受話器を通すと、まったく聞こえないなんて、本当に不思議な気がするのだけど、でも、実際に、鈴虫寺でたくさんの鈴虫が鳴いているのに、その鳴き声はとどかず、レポーターの声だけが電話から響いていたのです。

人の感覚も、ある意味、携帯電話のような機械と同じなのだろうと思うことがあります。あっちゃんは、私にはあまり気にならない、冷房の音が、耐えられないような騒音となって、心に届くと教えてくれました。

あっちゃんにすれば、「どうして、あんなにうるさい音が聞こえないの?」と思うかもしれません。きっとこれも携帯を通さない、蝉の鳴き声と同じようなことなのだろうなと思うのです。

学校の子供たちと一緒にいると、見るとか、聞くとか、感じるというようなことは、その人それぞれ、感覚の回路の開き具合によるのかなあと漠然と思うことがあります。今、私がお話ししたいのは、視力が、「私の視力は2.0だとか、いえ、0.1だ」とかそういうことではないのです。

前にも書きましたが、大ちゃんは

「秋の空気は粒のすきまが大きい」と言いました。それから

「クレヨンはこれから描く絵のかたまり、僕たちはどんな夢の固まりでできているのだろう」という詩も作っています。

大ちゃんは、秋になって葉っぱの色が赤く色づいてきたときに、葉っぱにはたくさんの緑の粒があって、その粒が赤い粒に変わって行くのだと教えてくれました。

カエルの皮膚の色が、葉っぱの上から壁に移動して、皮膚の色を変えていくときも、大ちゃんはじっとカエルを見たり、時間をおいては、カエルを見に行って、カエルの皮膚の粒の色が変わっていく様子を話してくれました。

どんなものも、粒でできているということを大ちゃんは知っているような気がします。

テレビの画像は細かな粒でできているということは知っていたけれど、自然のものも、やっぱりそうなのでしょうか?私たちは、自然にあるものを、これは紫色の実だとか、青色の花だとかいうふうに観ているけれど、でも、実は、そんなふうな色もいくつかの色の粒の集まりでできていて、たとえば、紫という色を見ているようで、赤の粒と青の粒の集まりを見ていたりということもあるのでしょうか?

赤と緑を見分けることが難しい方がおられます。あっちゃんの聞こえる音が、私たちが聞こえる音の波長と少し違うように、その方の場合は、赤と緑の波長が、あるいは、赤や緑を作っている青だったり黄色だったりする色の波長が、感覚の回路の幅の外にあったりするのかなと私は思うのです。

私たちは自分の感じることで、すべてを判断してしまいがちだと思います。だから、シーンとした、雪の日など、何も音がないように思うけれど、実は、もしかしたら、雪が降る音で、うるさくてたまらないという人もいるかもしれないなあと思います。

においも、色も、音も、同じように感じる人はいないのだろうと思います。見え方や聞こえ方や感じ方というのは、きっと、一人一人によって、全部違うのだろうと思うのです。  

大ちゃんは雪が降る前にいつも、雪のにおいがするよと言いました。風の向きが変わったのもにおいでわかるなあと言うのです。

みんな、感覚の回路の幅が違うから、それは、言ってみれば当たり前のことなのかもしれません。

自分が見えている世界がすべて本当の世界のように感じてしまいがちだけど、一色に見えているものが、実は他の人が見れば、たくさんのあふれるような色合いでできていたり、なんの音もしないと思っているところが、ワンワンと鳴り響くような音の集まりだったりもするのかもしれません。どれが本当かだなんて、きっと言えないのですね。

それと、もうひとつ思うことがあります。それはチャンネルを合わせるということなのです。私は、ラジオやテレビのことを考えました。たくさんの電波、おきかえれば情報が空気中に流れていて、テレビやラジオの場合は、チャンネルをそこにあわせると、そこだけの電波が選ばれて音が流れたり、映像が映し出されたりします。

あっちゃんやしんちゃんは「たくさんの情報が体の中に流れ込んできて大変です」と言います。私は友達と話しているとき、友達の声だけしか耳に残らないけれど、あっちゃんは、外の車の音も、水道管の音も、エアコンの音も、遠くのおしゃべりの声も、みんな耳に届いて、友達の声に集中することがむずかしいと言いました。いすに座っていると、いすから伝わってくる感じ、温度、それから洋服のタグ、自分の口の味、においなど何もかもが流れるように入ってきて大変だと言うのです。

多くの人たちが、あっちゃんのように敏感な感覚を持ち合わせていないのは、チャンネルをあわせるということをしているからなのかもしれません。確かに、エアコンの音は気にしてみれば、小さくだけど聞こえるし、注意すれば、隣の人のおしゃべりや、外の車の音はとても大きく聞こえます。でも、私たちはきっと、相手の音だけにチャンネルを合わせて、他の音は聞かないようにして、相手の声だけを聞こうとしているのだと思います。

いすの座った感覚も洋服のタグも、確かに感じているけれど、脳がそれにチャンネルをあわせていないために、感じていないように思えるのかもしれません。見たり、聞いたりの感覚としては受け止めていても、実際に自分が意識している「見ている」「聞いている」ということとはまた別のことなのかもしれません。

チャンネルをあわせるということは、言い換えれば、私たちは「選んでいる」という言い方もできるのかもしれません。

私たちはバスの窓の外、たくさんの景色を見ています。けれど、興味がないものは見ていても、心にその風景は届かない、でも興味のあるものは、どんなに早い電車の窓の中からでも、きっと見つけられる気がします。ぱっと大好きな人の名字がついている、○○屋さんという看板が目に入ったり、本やさんのたくさん並ぶ本の中から大切なものはすぐに見つけられます。それは、知らず知らずのうちに、目に映っているたくさんのものから、自分が興味のあるもの、必要なものを選んでいるのだと思うのです。

そんなふうに、いろいろと考えていると、大きな力からの情報の伝えられ方というものも、私は、見たり、聞いたり、においをかいだり、さわって感じたりするような感覚の伝えられ方と似ているのかもしれないと思ったりもします。

自分の感じられないことは、なかなか信じられない気がしてしまうけれど、でも、本当は感じていて、でも選んでいないだけかもしれないし、あるいは、感覚の回路の幅の外にあって、なかなかそのことに気が付くことができないのかもしれません。

大きな客船が事故で沈む前に、ねずみが港へ逃げ出すという話や、それから、また、鮭やつばめが、遠くを旅して、また自分の家へ戻ってくると言うことなども、自分にはできないから、不思議な超能力のように思ってしまいそうだけれど、実は、誰もの感覚のそばにあることなのかもしれないとそんなことをこのごろ、考えています。

 



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