宇宙の秘密

18 亡くなることでもっと生きる

 お昼の二時過ぎに三五館の星山さんから、携帯にメールが届きました。

「ゆうきくんの海の森川雄太さんと小学校時代知り合いだったという女性の方が、山元さんに話を聞きたいと電話がありました。夜、ご自宅を教えてよろしいでしょうか?星山」

私は、「もちろんです。携帯の電話番号でも自宅の電話番号でも、お伝え下さい、夜どんなに遅くなってもかまいませんとお伝え下さい」

とメールでお返事をしました。

 なぜって、森川さんは口癖のように言っておられたのです。「偶然に起きたり出会えたりしたように思えることでも、それは決して偶然でないと僕は思うよ。起きるべくして、起き、出会えるべくして出会えたのだと思うんだ」「お互いが必要だから出会えたんだよね」

 そんな雄太さんが、今、私に会わせてくださろうとしている方は、私にとって、きっと大切な人に違いないと思ったのです。

 雄太さんのお話は星山さんの言葉の中にあるように、「ゆうきくんの海」(三五館)で紹介させていただいていますが、私が出会ったのは、雄太さんが大ちゃんの取材に学校に来てくださったときでした。

 雄太さんはNHKの報道記者で、笑顔がとても素敵で、本当に優しい方でした。

 詩や絵を見てくださった方が大ちゃんは素晴らしいねとおっしゃることが多い中、私は、大ちゃんだけが素晴らしいのではなく、学校の子ども達はみんな素敵でなのだ、いえ、人間はみんなみんな素敵なのだということをきっと大ちゃんも子ども達も伝えてくれてる気がするのですと雄太さんにお話すると、雄太さんは私の気持ちを組んでくださって、カメラを回す中でそのことをきちんと質問してくださいました。それから、大ちゃんが始めての人の中で、いつもと違う雰囲気がにがてだということを知って、望遠で、マイク無しでカメラを回してくださったりもしたのです。

 その取材のあとも、雄太さんとはいろいろなお話をするようになりました。福祉のこと、学校のこと、それからお互いに今日あったこと、そして、もっともっとたくさんのこと・・・。

雄太さんはご自分のお仕事のことも「僕は報道という仕事はたくさんの人に伝えることのお手伝いだったり、世の中を変えるために役に立つものだという考え方ではないのです。大事なことを報道するということは、人のためというよりは、僕にとってとても大切なのだということです。まわりくどいけれどわかりますか」と言われました。そのとき、私ははっきりとはわからなかったけれど、世の中を変えたり、お手伝いになったりするのは結果なのだ、そういうことを考えるのは傲慢なのではないかと、自分が好きで自分が大切に思うからするのだとおっしゃりたかったのではないかとそのとき、思いました。雄太さんの言葉は、どの言葉も、不思議と私の心の手帳に書かれたかのように、何度も何度も私の心によみがえってきて、その都度、私を助けてくれました。

 ときどき「あなたは何を伝えたくて、本を書くのですが?一番伝えたいことは何なのですか?」とか「子ども達のために働いている仕事は大変じゃないですか?」というような質問をいただくことがあります。そんなときに私はやっぱり雄太さんの言葉を思い出します。私は誰かのために子ども達といるのではなくて、子ども達と一緒にいたくて、子ども達の素敵さを話したくてたまらなくなってしまうのは、私自身なのだと思うのです。

 雄太さんはあるとき電話で、こう言いました。

「山元さん、つらいことや悲しいことはいっさいないほうがいいと思いますか?僕はそうは思わない」人は学べるし、変わっていけるからと雄太さんは言いました。それから、つらいことがあるからこそ、闇の中の光がいっそううれしく感じられるし、山登りの小さな花の美しさがいっそう心に響くのだとも雄太さんはいいました。

 その言葉もいったい何度私を助けてくれたことでしょう。

 雄太さんが夏に広島の方へ転勤になって、それからしばらくのあいだ、雄太さんから電話をいただくことがありませんでした。電話がないのは、雄太さんが忙しくしておられるからなのだろうと思いこんでいました。

 ある日のこと、雄太さんの夢を見ました。夢の中でも雄太さんはとてもやさしく笑っていて、私に手を振ってくれていました。その次の日のことでした。思いもかけず、雄太さんのお父様から分厚いお手紙をいただくことになりました。

 その中にはとても悲しいことが書かれてありました。「・・・・その後、雄太は多忙な取材活動をしておりましたが、8月27日急性心不全のため、急逝いたしました。全く残念で仕方がありませんが、29歳の実に短い生涯でした。・・・」

 お父様は雄太さんを亡くされた悲しみの中、手をつけることができずにいた、雄太さんのお荷物をようやっと整理するお気持ちになられて、まさにそんなときの、ちょうど10月25日の朝日新聞の夕刊コラムに載った大ちゃんの「秋の空気は・・・」の詩を見られて、私に、お手紙を下さったと言うことでした。「・・・先生と大助くんとの交流のテレビ放送は私どもも感動して拝見しました。雄太もこの取材だけは見て欲しいと私どもに連絡してきました・・・」お父様はそんなふうに書いてくださっていました。

 もしも、大ちゃんの詩がコラムに載ったのがもう少し早かったら、お父様はこの記事に気がつかれることはなかったかもしれません。お荷物の整理をしておられたちょうどのときにコラムが載ったのはとても不思議なことでした。

 お母様からも、お気持ちを綴ったお手紙をいただきました。「悲しい気持ちを持っていくところがありません」というお母様やお父様のお気持ちを思うと胸がふさがれるようでした。

雄太さんは仕事が一段落して、愛知の自宅へ帰って、楽しい団らんをすごされ、疲れたから休むねとおっしゃって、床につかれて、朝、起きていらっしゃらない雄太さんをお越しに行かれたところ、亡くなっておられたということでした。

 雄太さんのお仕事のあとを引き継ぐように、金沢のNHKにこられた、村井さんという女性の報道記者さんから電話をいただきました。村井さんもまた「雄太さんが伝えたいと思っていたことをまさに、私も伝えていきたいと思うので、一度会って欲しい・・・」そんなお電話でした。

 そんなこともあって、お母様に「雄太さんは今も私たちを助けてくれています」と電話をしたら、お母さんはおつらそうな声で「今日、とても重い病気にかかっているということがわかったのです。雄太にはまだ、そちらへは行ってやれないのよと話しているのですが」とおっしゃいました。私は村井さんが偶然のように、今日という日にあってほしいと電話をくださったのは、雄太さんが、今おつらい、お母様を、私に元気づけてあげてほしいというふうに思われたのじゃないだろうかと感じました。

 雄太さんが亡くなって、私は亡くなられる前よりももっともっと雄太さんを思い出すようになりました。お花を見ても、山を見ても、それから道の向こうから来る人の中にも雄太さんの面影をさがすようになりました。

 お父様とお母様にそうお手紙を書くと、お二人も、やはりそうなのだとおっしゃいました。私はお二人のお手紙を読んで、前に星山さんにいただいた、「千の風」(三五館)という本を思い出したのです。

・・・・・・・・・・・・・

 私の墓石の前に立って涙を流さないでください。

 私はそこにいません。

 眠ってなんかいません。

 私は1000の風になって吹きぬけています。

 私はダイアモンドのように雪の上で輝いています。

 私は陽の光になって熟した穀物にふりそそいでいます。

 秋にはやさしい雨になります。

 朝の静けさのなかであなたが目ざめるとき

 私はすばやい流れとなって駆けあがり

 鳥たちを空でくるくる舞わせています。

 夜は星になり、

 私は、そっと光っています。

 どうか、その墓石の前で泣かないでください。

 私はそこにはいません。

 私は死んではいないのです。    (南風 椎訳 1955年)

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雄太さんが亡くなってから、不思議な偶然を何度も経験して、私は、人は亡くなっても、ずっと私たちのまわりにいてくれて、そして、私たちをいつも見守っていてくれるのだと、私は雄太さんや雄太さんのお父様、お母様から教えて頂いた思いがしました。

 お母様の手術の日が近づいてきました。私はいてもたってもいられずに、でも、何をすることもできず、ただ、自分の心を落ち着かせるためだけに、お母様に毎日、絵はがきを送らせていただきました。

 ただ、毎日、とりとめのないことを書いた絵はがきでしたのに、お母様は「まるでおまもりのように」窓辺にずらりとはがきを飾ってくださったとのことでした。

 雄太さんが神の山だと言っていた白山が美しく輝く日に、雄太さんのお母さんの手術がうまくいったとの連絡がありました。そして、ほとんどの可能性で後遺症が残ると言われていた手術も、なんの後遺症も残らずにお母様は回復されていきました。

手術の日に、白山に思わず手をあわせている私の姿を見て、子ども達も、一緒にお母様の手術を祈ってくれました。

 子ども達の中には、事故だったり、病気だったり、理由はいろいろだけれど、生死をさまよって、養護学校に来るようになったお子さんがたくさんいます。子ども達はきっとつらい思い出があるからこそ、いっそう、会ったこともないけれど、私が手術の成功を祈っている雄太さんのお母様のことを心から心配し、そのあとも、ずっとずっと心にかけて、何度も何度も、「どう?」「元気になった?」「大丈夫だよ」と私に声をかけてくれたのだと思います。雄太さんが「つらいことも、悲しいことも、必要だ・・・優しい心が生まれるから」とおっしゃったことはまさにこのことだったのかもしれません。

 お父様とお母様がおっしゃられた言葉で忘れられない言葉があります。おふたりは、学校の子ども達と、実際に会ってはいないけれど、こうして知り合えたことをとても喜んでくださいました。「まったくこれまでは知らなかった多くのことを子ども達は教えてくれました」と言ってくださいました。そして、「私たちは雄太を失ってしまったけれど、でも、もっと大切なものを手に入れました」とおっしゃってくださったのです。

 お二人がどんなにか雄太さんのことを大切に思っていらっしゃったかを考えると、そんなふうに言い切られたお二人がなんてすごいんだろう、素晴らしいんだろうと言葉をなくしてしまうほどです。

 

 雄太さんが亡くなられてからも、雄太さんは私にたくさんの不思議な出会いをたくさんくれました。19歳のお子さんを思いもがけず、自殺という形でなくされたお父様から、メールをいただきました。

「息子を亡くして、どうして死ななければいけなかったのか?僕が彼を死に追いこんだのだろうか?仕事がいそがしすぎたのか?なぜなぜ、死ななければならなかったのか?誰が悪かったのか?そんなことばかりで頭がいっぱいになり、ついには、僕自身も息子の後を追って死のうと考えていたある日、図書館で、「ゆうきくんの海」をなにげなく手に取りました。そして、なにげなく開いたページが、森川雄太さんのページだったのです。僕は導かれたとしか思えないのです。たくさんの本を読んでも、講演会に行って話を聞いても救われなかった僕の心と息子の心が、雄太さんと、ご両親のおかげで救われたのです」

ご主人を癌でなくされた奥様から、いただいたお手紙です。

「主人を癌で亡くしてから、私は、なぜ病院がもっとはやくに癌を見つけてくれなかったのか?どうしてなおしてくれなかったのかという恨みの気持ちが先に立っていたと思います。病院に、主人を返してと何度も何度も訴え続けていました。そんなときのことでした。主人が病人で読んでいた本を何気なく手にとって、読んだら、それが『ゆうきくんの海』でした。そのなかの雄太さんのお話、千の風のお話を読んで、主人は私に何かを、伝え得ようとしていたのではないかと思ったのです。今、私がしていることを、主人は望んではいないのだと思いました」

 そのようなお手紙やメールをたくさんたくさんいただきました。そのたびに、私は、雄太さんのことを思い出しながら、雄太さんは私にもまた、何かを教えてくれているのではないかと思いました。なにかにぶつかったとき、いろいろなことに惑わされて、本当に大切なものを見失なってはいけないということや、生きることの意味や、もっともっと自分がどうすべきかというようなことを雄太さんは、「ゆうきくんの海」の本の中の雄太さんを通して、教えてくれたのじゃないかと思ったのです。

 星山さんがメールをくれた日の夜、その女性から電話をいただきました。その方は、小学校で雄太さんと出会われて、雄太さんの明るい、やさしいところが大好きになられて、それは初恋だったのかもしれないですねと言われました。「大人になって、パニック障害という心がつらくなる状態になられて、何年かたつのだけど、そのあいだになぜか、雄太の夢ばかり見たのです。雄太が亡くなっているなんていうことも知らなくて、なぜか雄太の夢ばかりみました。同じく、小学校の友達で、偶然にも同じパニック障害になっている友人がいて、その友人もまた、雄太の夢をみるので、それでは、雄太は何をしているのか、調べてみようということになったのです。それで雄太のご実家をお訪ねしたら、お母様が、亡くなられたことを話してくださって、そして、『ゆうきくんの海』の本を私に下さったのです。それを読んだら、それまでいろんな講演会に行ったり、宗教の本を読んだり、医学書を読んだりして、いろんなことに救いを求めてきたけれど、どうしても、救われるということがなかったのに、始めて、心にこんなにもストンと落ちてきて、自分がとても楽になっていることに気がついたのです。雄太が亡くなったということが、自分でも不思議なのだけど、悲しいという気持ちよりは、ああ、会えたなあという気持ちが大きいのです。そして、こんなふうに、雄太さんと心の交流をされていた山元さんにどうしてもお話をうかがいたいと思ったのです」

 雄太さんが何度も夢に出てこられたというお話をお聞きして、私も、お父様からお手紙をいただいて、雄太さんが亡くなったのを知った前の晩に、不思議なことだけど、雄太さんの夢を見たのです」と話すと、雄太さんのお友達のその方は、「ああ、そうなんですね。雄太は夢を使うんですね」と言われました。「3年も4年も、雄太の夢を見続けたのだけれど、雄太は『はやく、僕のうちにおいで、そうすれば、君はきっと楽になれるよ』って言いたかったのですね」と言われました。

 「雄太は夢をつかうんですね」・・・・私はそうなんだと思ったことがあります。雄太さんは、亡くなってしまった・・・そのことは本当にとても悲しいことだったけれど、でも、雄太さんは亡くなられてから、いったい何人の方にさまざまの大切なことを伝え続けていることだろうか・・・もしかしたら、雄太さんはご自分ではご存じなかったもかもしれないけれど、大きな宇宙のような力が、雄太さんの素敵さがさらに大きな力を持つように、たくさんの人の心を救うように、雄太さんに死を選ばせたのじゃないか(雄太さんはお疲れのためなのか、突然のご病気で亡くなられたのだけど、そういう意味じゃなく、これから、どう生きるかということを、もし、人がいつも無意識でも選んでいけるものなら)と思ったのです。雄太さんは亡くなることで、さらに生き続けておられるのだと思ったのです。雄太さんは天使なのかな?ってそんなことも、思ったのです。

 私は今年、心が少しつらくなったために、この学校にこられた生徒さんと一緒にすごすことになりました。その女の子は、とても暗い顔で学校にこられました。下をむいたまま

言葉をお話することが、最初はありませんでした。ただただ、私の手をぎゅっとにぎったままでした。クラスの友人や、学校の明るくやさしい雰囲気がだんだんと彼女を変えていきました。どんどん明るくなり、いろいろな人に言葉をかけることができるようになりました。それでも、彼女は私の手を離すと言うことはありません。いつも、私のところに飛んできて、朝から帰りまで、ほとんで私の手をにぎっていようとします。私はうれしい気持ちでいっぱいだけれど、そして、出来る限り、手をつないでいたいとも思うのだけど、でも、迷いもたくさんありました。他のお子さんも、朝、私の胸に抱きついてきてくれるけれど、できたら、ずっと手をつなぎたいなと思うこともあるのじゃないだろうか?さびしい思いをさせているのではないだろうか?そんな思いもありました。それから、明るく変わっていった彼女を見て、「ずっと手をつないでいることは甘やかしていることにはならないのか?来年彼女が担任をした人がとても大変な思いをするのじゃないか?」という同僚の声を耳にすることもありました。

 そんな迷いがあるために、「トイレに今日はひとりで言ってくれる?ちょっとご用時があって・・」そんな声をかけたりすると、彼女はとても不安そうな顔をして、さらに手をぎゅっとにぎるのでした。

 雄太さんのお友達のその女の方は「私はパニック障害になって、いろんなことが不安で不安でしかたがなくて、家からほとんど一歩も出られないことも、あるのです。そんなときはテレビも電話もみんな消して、ただ、家族に手をにぎってもらっていたいと思うこともあります」とおっしゃいました。私が「毎日一緒にいるお子さんが手をいつもつないでくれているのだけど、それでいいのでしょうか?」とお尋ねすると、「私からもお願いです。どうぞ、許す限り手をつないでいてあげてください」

 本当にまさに、その方から電話をいただいたその日に、私はそのことについての迷いや悩みを大きくしていたときだったのです。

 「お互いが必要としていればこそ、出会える」雄太さんは、また私に、大きな出会いを下さったのだと思います。

 亡くなることで生き続けている雄太さん。私は今日も、宇宙は愛でいっぱいだと感じたし、その宇宙の中で、今日一日を生きているということの不思議にありがとうと何度も何度も叫びたいほと、言いたいです。 

 

 



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