15 死ぬこと
何年か前の検診で「癌のおそれが大きいので、すぐに受診してください」という要再検というはがきがきたことがありました。結果的には、そうではなかったけれど、私はそのときに、死というものを少し考えました。それから、心臓が少し悪いので、たまに締めつけられるような気持ちがするときにも、それだって、全然たいしたことはないのだけど、やっぱり、死というものを考えることがあります。
そういうとき、心のどこかに、死ぬことをおそれている自分がいることに気が付きます。そんなときは、どうして「死ぬこと」が怖いのかな?と考えます。
死ぬ瞬間は、ひどく痛かったり、苦しかったりするのかなあ・・・私はそれをおそれているのでしょうか?それともこの世界から、いなくなってしまうことが怖いのかな・・・私が考えたり、感じたりしている、この自分を失うことが怖いのかな?それとも、家族や、私のことを愛してくれているだろう人が、悲しむのが嫌なのかな・・・死への恐れはいったい、何に対する恐れなのでしょうか?
本を読んでくださったり、HPで知り合った友人の中に、死に急ぐ気持ちが抑えられずに、とてもつらい思いをしておられる方が何人かおられます。「助けて!苦しくて死んでしまいたい。助けて!」メールの中の文字や電話の声のすぐ後ろに、暗く恐ろしい死というものが、ぽっかりと口をあけて、私の大切な友人を飲み込んでしまうのじゃないかと怖くてたまらなくなることがあります。
けれど、宇宙の秘密について考えているうちに、「死」というものは、そういうものでないし、そうあってはならないという気がしてくるのです。
「われわれはなぜ死ぬのか」という本の中で、柳澤桂子さんはこんなふうに書いておられます。
「多細胞生物にとって、生きるとは、少しずつ死ぬことである。私たちは死に向かって行進するはてしなき隊列である」
柳澤さんの言葉を読むと、生きるということと、死ぬということは決して別なことではないのだという気がしてきます。
この宇宙に生命が誕生して、36億年という時間が流れました。その流れは、遺伝子の情報として、確かに私の身体の中にあります。
そしてその36億年という時間が、ある意味、一人の人間である、私という人間がつくられるための積み重ねだったとも言えるし、あなたという人間がつくられるための積み重ねだったとも言えなくもないのです。そして、私は次の世代、次の次の世代、ずうっと後に生まれる誰かの明日のために、与えられた命を懸命に生きているのだとも言えるのだと思います。人間だけでなくあらゆる命がとうとうと流れる中に、今、私が身をおいているのだと感じるときに、命に対して、とても謙虚な気持ちになっている自分に気が付きます。
生きると言うことは、少しずつ死ぬこと・・・この大きな宇宙の中で、さまざまなことがあって、出会うべき人や物や事に出会って、お互いにいろんなことを学んで、昨日や明日やあさってや・・たくさんの日にいろいろなことがあって、少しずつ死んでいく・・・。
そう思うと、やはり、死というものも、暗く恐ろしいものというよりは、もっと静かなものとして受け止めることができるような気がしてくるのです。
お盆近くになって、道ばたや、木の陰に、蝉が仰向けになって死んでいたり、今、まさに静かに死をむかえようとしている蝉の姿をみかけます。次の世代へ遺伝子を伝え、蝉は、暴れることもなく、大きな宇宙の流れに身をまかせるように、受け入れるように死んでいこうとしているように思います。
宮沢賢治さんが、雨ニモマケズの手帳に、こんな詩をのこしています。
[眼にていう]
だめでしょう
とまりませんな
がぶがぶ湧いているですからな
ゆうべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは 青くしんしんとして
どうも間もなく死にそうです
けれどもなんといい風でしょう
もう清明が近いので
あんなに青ぞらからもりあがって湧くように
きれいな風がくるですな
もみじのわか芽と毛のような花に
秋草のような波をたて
焼痕(やけあと)のある藺草(いぐさ)のむしろも青いです
あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていただけば
これで死んでもまずは文句もありません
血がでているにもかかわらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄(こんばく)なかばからだをはなれたのですかな
ただどうも血のために
それをいえないがひどいです
あなたの方から見たらずいぶんさんたんたる
けしきでしょうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとおった風ばかりです
宇宙の中で、ひとつの命が与えられるということは、本当に奇跡のようなことだなあと思います。与えられた時期に、与えられたそれぞれの場所で、たくさんの人や、物や、ことと出会って、かかわりあって、そしていつか、死さえも与えられて、死んでいく・・・そのとき、私はもしかしたら、また宇宙へ帰ることができるのかもしれません。宇宙が、いつも、前向きで、いつかのいい日のためにたゆまぬ命を送る続けていることを考えたとき、宇宙というものは、驚くほどのあふれる愛でいっぱいのもので、私はその宇宙に抱かれるのかもしれないし、宇宙にとけることができるのかもしれません。
そう考えると、与えられる死というものは、おそれる必要がなく、その日がくるのが、むしろ、少し楽しみのような気さえしてきます。