宇宙の秘密

14 われわれはなぜ死ぬのか

雪絵ちゃんという友達がいます。

 喘息や腎臓病や、心臓病など、慢性の病気を持っていて、地域の学校に通うことが難しいお子さんが通う、病弱養護学校と呼ばれる養護学校で、雪絵ちゃんとは出会いました。

 雪絵ちゃんは多発性硬化症、別名MSという病気を持っています。発病すると、目が見えなくなったり手足が動きにくくなる病気で、再び、見えるようになったり、動くようになっても、発病前の状態にもどるということは難しく、だんだんと見えにくくなったり、手足が動かしにくくなっていく病気です。

 雪絵ちゃんは昔からいつも「私、MSであることを後悔しないよ。MSだからこそ気がつけたことがたくさんあるし、MSだからこそ、出会えた人もたくさんいるよ。もしMSでなかったら、何も気がつけなかった。MSでなかったら、今、周りにいる人にも、先生にも出会えなかった。だからそれでよかった。MSでなかったら、また違う人に出会えたかもしれないけれど、私は、今周りにいる人に出会いたかったよ。先生に出会いたかったよ。だから、それでよかった」と言います。そして、「もし、手が動かなくなっても、足が動かなくなっても、目が見えなくなっても、たとえ、人工呼吸器で息をしなくてはならなくなっても、私はけっして、MSである自分を後悔しないよ。MSの雪絵そのまま、好きでいるよ。そしてせっかくMSになれたんだから、MSになって気がつけたことを、みんなにお話するよ」

 なんて、雪絵ちゃんは素敵なんだろうと思うのです。実際雪絵ちゃんは、MSになったからこそ、気がつけたということを、たくさんの人に伝えてくれて、そのことで、また周りにいる人に、いろいろなことを気が付かせてくれたり、それから、元気のなかった人が、勇気を持って生きれるようになったり、雪絵ちゃんの生き方が、今も、たくさんの人の生き方に大きな影響を与え続けているのです。

 ところが、雪絵ちゃんはたびかさなる再発で、今はベッドから首を起こすこともむずかしくなってきました。私は、自分が元気がなくなったり、なんだか、明日のことを考えるのが、ちょっとつらくなったりすると、雪絵ちゃんのおうちを訪れます。

おととい遊びに行ったときのことでした。雪絵ちゃんは珍しくこんなことを言いました。「かっこちゃん、私ね、昔と気持ちが違うかもしれない。今ね、楽になりたいなと思うの。死にたいとかそういうことじゃもちろんないんだよ。今、ベッドに寝たままでいるでしょう?やっぱり、腰が痛くなったり、息が苦しくなったりするんだよね。暑いから扇風機を回してもらうでしょう。身体が少し冷えてきたように思っても、扇風機の風の向きも変えられない・・・自分でものを食べることもできない・・・はがゆいなあと思ったら、少ししんどくなってね、楽になりたいなあって」

 私は雪絵ちゃんの思いが痛いほどわかりました。でも、その話にどう答えたらいいかわからなくて、ペルーから帰ってきたばかりだったので、ペルーの話をしました。6本指の手の話・・・神の手の話もしました。雪絵ちゃんはその話を何度も何度もうなずいて聴いてくれて、「なんだかすうっと楽になった気がする」と言ってくれました。「私も雪絵ちゃんに会うと、必ずなんだか苦しいときも、楽になれる。今日も楽になったんだよ」とそう言いました。

 鎌状血液の話をしたときに、雪絵ちゃんは、「一人の障害を持った人のおかげで、人類が救われたということはみんなには気がつきにくいよね。そうだったとしたら、やっぱり障害を持った人はつらいよね」と言いました。

「ペルーでは6本指の手の人が、神様のようにあがめられていたという・・・逆に、みんなを救う、すごい存在だということにたくさんの人が気が付いていたならば、敬われて、あるいはうらやましい存在だったかもしれない。日本に福助人形というのがあるよね。そのお人形を置くと、お店が繁盛すると言われていた。阪根さんがね、福助人形は水頭症の方がお店の番ををしておられると、お店が繁盛したから、神様のように思って、お人形がお店におかれるようになったのじゃないかとおっしゃってたよ。科学でも、今、障害をもっておられる人がいるからこそ、社会や地球や宇宙が守られているということが、分かってきているのかもしれないし・・」

 雪絵ちゃんは、しばらくだまっていて、そして「そっかあ。でも、まだ、今はなかなかそんなふうに思われることは難しいよね」と言いました。「科学で証明できるって?鎌状血液の人や、エイズにかかりにくい人が、いるってことだよね」と言いました。

 たぶん、雪絵ちゃんは、もっともっと、確かに、いろいろな人がいていいんだ、障害を持っている人がとても大切なんだということを知りたかったのじゃないかと思います。

 私はある本で読んだお話を思い出しました。その本を見つけたのは、古本屋さんでした。黒い表紙の中に、たんぽぽの綿毛がうかびあがっている絵が描かれた本でした。そして、その本はなんと、柳澤桂子さんの本だったのです。本の題名は「われわれはなぜ死ぬのか」

 少しその題名にぎょっとしながらも、そして、その中身も知らないのに、私はその本を手に取り、すぐにレジに向かいました。今から思えば、その本が、まるで向こうから私の目にとびこんできたように思ったのも、とても不思議です。

 メタセコイアという木があります。数千年もの命を持つというその木の年齢と、致死率を調べたところ、若い木も年老いた木も、その致死率に差がなかったという話がその本の中にありました。人は年をとると、死ぬ率が高くなるけれど、メタセコイアはそうではなくて、若くても、年をとっていても、死ぬ率は同じ・・・雷が落ちたり、木が病気になったり、根っこをささえている土がくずれたりして、そういうことで、木は命を落とすけれど、寿命だから木が死ぬということはないというのです。いちごは茎を伸ばして、増えていく・・・どんどん増えていく限り、いちごには寿命というものがないのだそうです。寿命がない生き物は、すごくたくさんあって、その生き物は、みんな、卵子と精子の受精によらずに、無性的に増えているということが言えるのだとかかれていました。

 けれど、人間はそうではありません。人間は病気や事故ということがなくても、年をとると、いつかは必ず死にます。それには細胞の中のDNAが関係しているというのです。

 DNAは酸素呼吸をすることで、傷がついていって、老化がおきる、その傷をなおそうと周囲の細胞が分裂をして補おうとするけれど、細胞分裂には分裂する数に限界があって、いつか補うことができなくなって、老化が進み、死に至るというのです。

 少しややこしい話になりますが、細胞が分裂することの限界を決めているのは、DNAの両方の端にある、テロメアというものだそうで、それが、細胞分裂のたびに、短くなってしまうのだというのです。そして、これ以上短くなれなくなったときが、死が訪れるときだというのです。

 酵母菌は寿命があり、大腸菌には寿命がありません。それは酵母菌は人と同じようにDNAの両端にテロメアがあるからだそうで、大腸菌のDNAは輪になっていて、端っこがないので、ずっと生き続けていけるのだそうです。

 ところが、遺伝子操作で、酵母菌のテロメアを遺伝子操作すると、テロメアの端と端がくっついて、リング状になることができたのだそうだけれど、そのとたん、その酵母菌は、卵子と精子によって、増えるということができなくなってしまうということでした。酵母菌は不老不死(突然死はのぞいてのことだけど)と引き替えに、卵子と精子によって増える有性生殖の機能を失ってしまうのだというのです。父親と母親との遺伝子で子供がうまれるためには、どうしても、寿命というものは必要だということなのでした。

 無性生殖だと、親と同じDNAを持ったものが、生まれます。けれど、有性生殖だと、父親と母親の遺伝子がまざりあって、さまざまな人が生まれてくるのです。

 ねえ、人間の身体のしくみって、なんてすごいのだろうと思うのです。たとえば、けがをして、血が出ると、自ら血をとめようと血小板が働き出します。心がつらくてたおれそうになると、なんとか、心をたてなおそうと、涙が出て、いつか少し元気になっている自分がいます。そんなふうに、人間の身体にもそして、宇宙にもきっと無駄なことはなく、意味がないことはないのです。

 人間が、父親と母親の遺伝子を持って生まれるということにも、きっと大きな意味があるのだと思います。複雑に父親と母親の遺伝子が、組み合わさって、たくさんのさまざまな人間が生まれる・・・それは、人が、自分とは違う人と出会うことによって、いろいろなことに気が付き、変わっていくことができるから・・・宇宙がそのことを必要としているからに違いないと私は思うのです。

 「雪絵ちゃん、私ね、本を読んだとき、科学が、社会にさまざまな人が必要なんだということを証明しているのだと思ったの。雪絵ちゃんは『せっかくMSになったんだから、気がつけたことはなんでも言うよ』って前に言ってたよね。雪絵ちゃん、私、そういうことなんだと思うんだ」

 私はいつも失敗ばかり。おっちょこちょいで、すぐにいろんなこともできなくて、自分のことが、ときどき好きじゃなくなりそうになるけれど、こんな自分だけど、ありのままの自分を、宇宙がそれで、いいんだよと認めてくれて、そして、ありのままの私の存在が宇宙から必要とされているんだということを、思うとき、涙がこぼれそうになるのです。 



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