宇宙の秘密

13 カミソリも入らない石垣

 前に石と石のすきまに、カミソリ一枚入らないほどぴったりと組み合わさっている石垣がペルーにはあると書きました。じっさいにペルーに行ってみると、その不思議な石垣の石と石との関係は、とおりいっぺんではありませんでした。
 ジグソーパズルは平面であわさっているけれど、その石垣はそうではありませんでした。あわさっているところが、縦にも横にも、底の部分にも、その面のでこぼこが、すぺてぴったりと、少しも隙間のない組木のように、合わさっているのです。これだけぴったり組み合わさっていれば、どんなに頑丈で、くずれにくいことでしょう。これを人工的に、作るときには、いったいどうやったらそんなことができるのでしょう。
 マチュピチュにも、クスコの街にも、それから、サクサイワマンという砦にも、その石垣は見られました。それほど頑丈なつくりの石垣も、それでも、何か理由があって、たとえば、森の木の根や枝、それから雨が、あるいは人が、その石垣をくずしたのではないかと思われる部分があって、それを新しい時代になってから修復したところは、インカの時代の石垣とはぜんぜん違いました。すきまだらけで、ただ積み重ねてあるだけのように見え、どこから、修復したのかが一目瞭然なのです。おそらく、今の科学でも、そのような石垣をつくることはむずかしいのだと思います。
 だったら、やっぱり宇宙人が作ったと考えてしまうのでしょうか・私はやっぱり、そのときにも、今まで出会った大好きな子供たちのことを思いました。
 大ちゃんはこんな詩を作っています。
 
秋の空気は
つぶの
すきまが
大きくみえる

私は大ちゃんや子供たちが、デジタルでものを見ているのだと思うことがよくあります。
家庭の刺し子の授業で、あるお子さんの、あまりにも規則正しい針目を見て、虫眼鏡で布地を見たことがありました。そのお子さんは、布地の布の細かな細かな目(繊維)を、正確に同じ数ずつすくっていました。数える様子もないのに、本当に同じ数、8目なら8目。10目なら全部10目ずつすくっているのです。虫眼鏡でしか見えない布地の糸目の数を、子供たちはどうやって、わかって、それを同じ数だけすくうのでしょうか?
私が、「すごーい!!見て、見て」というと、同僚は、「よく虫眼鏡で数えようなんて思い立つね」って私のことを少しあきれ顔をして、そしてやっぱり、同じ糸目だということに、私と同じように、ものすごくびっくりしていました。
 ドナ・ウィリアムズさんの「自閉症だったわたしへ」という本があります。その中にも、ドナさんは、空気の中の光のつぶをはっきりと見ていました。
 子供たちが、何かの技術で石と石をもし切り取ることができるなら、あいまいに切り取るのではなくて、粒子の単位でデジタルに、はっきりと切り取る場所がわかるだろうと思うのです。
 ペルーは本当に不思議なところでした。ペルーにはたくさんの気が渦を巻いているというのです。気を感じるという言葉があります。何か目に見えないエネルギーか何かを感じるということだと思うのですが、それを感じることができやすい人とできにくい人がいるようです。そして、ペルーはその気を感じると言うことができやすい場所だということでした。
目に見えないものを信じるということはことが簡単なことじゃないと思うのです。自分で体験していなことは信じにくいし、目に見えないものはわかりにくいですもの。でも、目に見えないものだって、確かに実在するということはたくさんあると思います。
 話が飛んでしまうけれど、人間だって動物です。ドライブ先や旅行先で迷子になった犬が何十キロあるいは何百キロも離れた家へもどって来たという話をときどき耳にすることがあります。つばめだって、サケだって、渡り鳥だって、生まれたところへ戻ってくることができます。つばめが移動した距離の大きさを思うと、隣の家と私の家の距離なんて、本当に小さな誤差なのに、つばめはしっかりと、また同じ家にもどってくるといいます。それから、地震が起きる前に、ねずみはそのエネルギーを感じてか、その場所を逃げ出すと言うし、また、こうもりは、真っ暗闇の中、けっしてぶつからずに、洞窟の中を飛ぶことができます。そんなふうに、目に見えなくても、本当にあることはたくさんあるのに、相手が人間だと、自分のできないことは、つい、超能力というような言葉を使ったり、それが何かの間違いなのじゃないかと、私などすぐに思ってしまいそうになります。でも、それは間違いですよね。
 それでね、ペルーの遺跡に行ったときに、気を感ずることの上手な仲間が、くるくる回り出しました。「どうして、彼女はまわっているの?」と仲間に尋ねると、「昔なら神がかりと言ったのかもしれないけれど、気をいっぱい感じたのじゃないかな」と教えてくれました。本人も「自分ではどうなったのかわからなくて、どうなっちゃうのかなとちょっと怖かったの」と教えてくれました。もしかしたら、彼女は、大きな力とそこで、しっかりとつながることができたのでしょうか?
マチュピチュの中に、日時計と呼ばれる不思議な石があります。現地のガイドさんが、ほとんど人が、気を感じることのできる石だと教えてくれました。そして、実際に仲間の多くが、石のある部分に手をぴったりとつけるのではなくて、少し隙間をあけて、手をかざすようにすると、静電気のようにびりびりと何か感じたというのです。私もその場所では、ちょっとビリビリ感じたような気がしました。
 仲間のなかに、やはり、とても気を感じるのが上手な方がおられて、「むこうの山から、大きなエネルギーがこの石に入って、そして、また、たくさん集まって、出ていっている。この石は気を集めて、出す収集装置のようなもの」と教えてくださいました。
 私はそのときに、また突拍子もないようなことを思ったのです。
 気を集めて、出すというけれd、それは情報の伝達をしているというふうには考えられないだろうかということなのです。ペルーにきて、インカは情報の伝達をとても大切にしているところだと感じました。文字自体は残っていないそうなので、文字は存在しなかっただろうということなのですが、インカの昔からあった、クスコの街の岩畳の道路はとてもりっぱでした。マチュピチュの作りも、まるで番地がつけられるように、家々が区切られていて、そして、広いマチュピチュが、段々になっているから、目やそれから耳などで、情報の伝達が上手にできたのじゃないかなと思ったのです。そして、マチュピチュはもしかしたら、もっともっと大きな情報の伝達の方法を知っていたのじゃないかと、私は不思議なことを思いました。
この地球上、いいえ、宇宙上にあるものは、どんなものもデジタルで表すことができるということは前にも書きました。人間や動物だって遺伝子で表すことで、デジタル化できると思います。
昔は携帯電話やあるいはパソコンで、まさか、音楽や写真や、ときには映像まで、そのままの形で送ることができるなど考えられないことでした。でも、今は、多くの人が、簡単に、写真をとって、それを情報として送ったり、パソコンでは、コピーして貼り付けしたり、切り取って貼り付けたりしています。今の時点では、立体のものを、コピーして貼り付けして転送することはむずかしいけれど、でも、同じ仕組みなら、もう少し科学がすすめば、立体や、人間自体も、転送できるようになるかもしれません。ロボット犬のアイボやCDを発明した、SONYの土井さん(ペンネームは天外司朗さん)にうかがうと、理論上は可能なことだよと教えてくれました。デジタルで表すということは、はもちろん、すがた形だけを表わすということではないと思います。人間や動物であれば、性質や身体の状態や、病気のかかりやすさや、その人のすべてがデジタルであらわされると思います。
 私は、日時計になっている大きな石が、情報として、その大きな石を向こうの山から切り取って、貼り付けるなどしたに違いないと、なぜだかそんな突拍子もないことをそのときに、確信したのです。本当に今から思うと、どうして、そんなにはっきりとそう思ったのかは不思議ですが、その場所にたったときに、はっきりとそう思いました。
そして、子供たちと同じように大きな力ときっとつながりやすいペルーの人たちが、きちんとデジタルで切り取って、貼り付けることができたのじゃないかと思ったのです。
長い時間の流れの中で、いろいろなことがおこったと思います。今日は昨日やおとといの積み重ねには違いないのだけれど、けれど、今の方が、うんとうんと大昔よりも、科学が進んでいたと決めつけるのは早いかもしれません。正しいことは一つ。宇宙の不思議のようなことが、どの世界でも存在するのなら、どの世界でも可能だったと思ってもいいはずではないでしょうか?
パズルのように組み合わさった大きな岩の中には、何百トンもの岩も存在し、その岩は、今、実在する大きな大きなレッカー車を何台も何台も使っても動かないと言われている大きな岩もあるのだそうです。その話を聞いて、私はいっそううれしくなりました。私が思っていたことが本当かどうかはわからないけれど、でも、それが、いつか技術がすすんだときに、インカの不思議が、また子供たちの素敵さを証明してくれるような気がしたのです。
本当にペルーはそんな不思議なことをたくさん感じさせてくれる場所でした。



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