13.ナガルコットの丘と、旧都バクタプル

 3日目の朝は、バスが、6時45分に出発することになっていました。朝食も早くとることになっていたので、朝の散歩は、やめて、ホテル内の探検をすることにしました。その日は朝から、雨でした。
 少し雨があがったときに、一階のレストラン裏にある、プールを見に行きました。きれいな水でいっぱいの大きなプールの横に、立つとももくらいの深さの小さいプールがありました。
「あ、大変。大変、ねずみがおぼれてるよ・・」大谷さんの声に、見ると、20pくらいの中くらいの大きさのねずみが、プールの中でもがいていました。
 どうしよう・・・なにかつかまるものないかな・・と、そばにあった棒きれを入れても、ねずみはそれにつかまろうとはしませんでした。大谷さんが、ジーンズのすそをひざまでめくって、でも、それより深かったので、ジーンズはずぶぬれになって、プールに入っていきました。小さい桶ですくいあげるようにねずみをプールの外へ出すと、ねずみは、すごいスピードであわてて走り、また一度プールに落ちてしまって、また助けてもらって、今度は、茂みの中に逃げていきました。プールにはカエルも泳いでいたから、それを取ろうと思って、落ちたのでしょうか?
 その日はナガルコットの丘へ出かけることになっていました。カトマンズの市街地からバスで1時間ちょっとくらいの距離だったでしょうか?バスの外は田舎道になってきました。ギータちゃんはなつかしそうに、小さかった頃の話をしてくれました。
 「大人はいつも働いていて、子どもたちの面倒を見るのは、上のお姉さんやお兄さん、近所のお姉さんお兄さんでした。私は妹と二人姉妹だったけれど、近所の子どもたちがたくさん家に来て『おねえさんお話しして、お話しして』と言うので、私は昔話をたくさん勉強してみんなに話してやりました。お話をしてあげると、子どもたちは泣きやむの。おばあちゃんと小さい子が一緒にいると、子どもも年寄りも幸せだなあと思いついたのはそのころでした。小さい子は年寄りの話を聞きたいし、お年寄りは子どもに話をしてやるのが好きだから。
 小さい頃はつらいことがいっぱいありました。とても貧しかったから。貧しくて、おなかもすいていました。私は昔はよく泣いたけれど、もう10年以上泣いていません。どうしてかって?昔、たくさんたくさん泣いたので、もう、涙はなくなりました。今は感動することがあっても、つらいことがあっても、泣かなくなりましたね」
 ギータちゃんはとびきり明るい笑顔で「もう過ぎたこと」と言う具合に話してくれて、私たちは、ギータちゃんが幼いときに、どんな生活をしていて、どういう風につらかったのかを推測することすらできなかったけれど、このギータちゃんの言葉は、私の胸にも、そして、みんなの胸の中にも深く残ったようでした。
 もうどこにも食べるものがなくて、おなかがすいていても、今度はいつ食べることができるかわからないということを、戦後しばらく以降に生まれた日本にいる人たちのほとんどは経験したことがないと思います。私もありません。想像することも難しいけれど、食べ物がなくてひもじくて、悲しくてたくさん泣いていたギータちゃんが、そんなときにも、近所の子どもたちが泣かなくてすむように、もっともっとお話をしたかったという、小さかったギータちゃんのことを思うと、胸が痛くなるような気がしました。 
 そろそろみんながトイレが心配というようなころ、高原にバスが停まりました。「雲が晴れていると、ここからは山がよく見える場所なのです」
 あいにくのガスの中、山は見えそうにありませんでした。ナガルコットはカトマンズの中で、ヒマラヤがきれいに見える場所なのだそうです。「ここのトイレはとてもきれいですよ」というギータちゃんのお話で、ほとんどの人がここで、トイレをしました。西洋式のトイレで、本当にきれい。トイレの便器が斜めになっていて、それからおしりを置く場所が広いので、おしりが滑って中に落ちてしまいそうなのがおかしくて、「落っこちちゃいそうだったねえ」なんて言い合ったのでした。
 小林さんが、ナガルコットの見晴らしのいい場所に立って、両手を広げて、祈っていました。雲が晴れて山が見えるように・・・。不思議なことにちょうどそのとき、雲が晴れて、山の下の方が見えてきたのですが、残念なことに上の方まで見えるようにはなりませんでした。それでも、小林さんのお祈りの力はたいしたものなのでした。でも、何より、今は雨期。見えない確率100パーセント(のつもりででかけましょう)とまで、書いた本がありました。山もなかなか顔を見せてはくれないのでした。
「11時まで待ってみましょう」私たちはクラブヒマラヤという場所でお休みがてら時間をすごすことになりました。そこはとても素敵なところで、プールがあったり、宿泊施設があったり、その他にも運動もできるみたいです。私たちはお茶を飲んだり、地下にあるお店でお買い物をしたりしました。ホテルの中なので、お店のものは少し高めですが、でも、そこにしかないものもあるようです。私は皮のパッチワーク風にしたててあるペンケースの大と小を求めました。高めと言っても500円くらいと800円くらいでしょうか。それから、ネパールの切手(使ってある物も使ってない物もまぜて)100枚セットのものを買いました。全部、並べてスケッチブックに貼ったのですが、それがなかなかおもしろいのです。この切手でずいぶんたくさんネパールの人からおもしろいお話をお聞きすることができました。
 たとえば、お魚の切手、前の日にお魚を食べていて、その名前を覚えていたので、「”ベティ”という魚?」と聞くと、「いいえ、これはサワーナという魚。ネパールには海がないから、湖や川のお魚ばかり。サワーナはとても大きくておいしいよ」とホテルの人が教えてくれました。「私もよく釣りをするの。竿に糸をつけて・・・」「ネパールはあまり竿は使わないよ。お船に糸をむすびつけておくと釣れるんだよ。すごく引くんだ」とその様子を身体いっぱい使って「俺はこんな大きなものを釣ったことがあるんだよ」と話してくれました。それから、カモシカみたいな動物がヒマラヤの前にいる切手では「これはナヤン。パシュミナというとても高い品質のネパールの織物は、このナヤンの胸のやわらかな毛だけでつくるんだよ」とか、サイとかトラといかの切手もあったので、ああ、ネパールにはそんな動物がいるんだなあと思ったりもしました。それから、不思議な形のネパールの国旗の切手が何枚かあったので、ギータちゃんに尋ねると「98年は観光の年でした。国旗が山を表しているということをもっとわかりやすく表現したもので、国旗の赤は、もし戦いをいどんできたものがいたら、我々は必ずや戦って勝つぞという意志を表していて、それから白はでも平和を愛しているということを、青は空を、月は平和、太陽ははげしい力を表しているんです」というお話も聴きました。楽器の切手もありました。おみやげを売っている人が、切手に描かれた楽器より少し小さくしたものを売っていたのですが、それはバイオリンのような形をしていて、ちょっとギターのようにも見えて、弓でひくサランギという楽器だということでした。その他にもお花の切手、そしていろいろな人の切手。車いすに乗っていたり、杖をついて歩いている人たちの切手もありました。
 11時になっても、雲の状態はほとんど変わりませんでした。少し見えて、このまま晴れてほしいと願っても、また曇が出てきて、あきらめましょうということに、なったのでした。
 ナガルコットをあとにして、バスは旧都バクタブルに向かいました。バクタブルはカトマンズから15キロくらいのところにある、とても古い街だということでした。
 その街の入り口近くに石の門のついたレストランがあって、そこへバスが入っていきました。私はその門の手前にあった出店に目が釘つけになりました。そのお店にはたくさんの色とりどりの帽子が売られていました。ぱっと見ただけだったけれど、魔女の帽子やバイキングの帽子、ピエロの帽子など、全ての帽子が、赤や青やピンクなどのさまざまな色の布のパッチワークでできていました。あとでわかったのだけど、その帽子は17世紀頃ヨーロッパから入ってきて、子どもたちのおもちゃとして、普及したということで、今ではネパールの特にバクタプル地区でおみやげとしてたくさん売られているのだということでした。欲しいなあ・・と思ったとたんバスがついたのはレストランだったので、あとで買えるかもしれないとうれしく思ったのでした。
 そのレストランはネパールの食事を出してくれるところで、地元の人たちも利用しているのだそうです。二階に上るとそこからはバクタプルの街がよく見えました。ビールや飲み物を注文し、ギータちゃんやてつやさんたちがメニューからいくつかを選んでくれました。ところが、その食事がなかなかなかなか出てこないのです。おそらくは28人というたくさんの人数が突然来たので、材料もなかったようなのでした。よく食べ物屋さんに入って、テーブルに出てくるのが遅いと「今、肉、買いにいってるんじゃない?」なんて冗談を言ったり、聞いたりすることがあるけれど、本当に材料を買いにいったようなのでした。
 私たちの仲間は、本当にやさしくて、温かいなあと思うのだけど、そんなときにも、誰かが腹をたてて席をたつとか、誰かが悪いんじゃないかなんて、文句をいう人もいなくて、おしゃべりをしたり、屋上へ上って、屋上にある調理室をのぞいて写真をとったり、少し近くを散歩したりと思い思いに時間をすごしていました。私は、お財布を持って、あの帽子屋さんに帽子を買いに行きました。どれも可愛くて、選ぶことができなくて、なんと5つも買ったのでした。その中の魔女の帽子をかぶって帰りました。「わぁ、かこちゃん、その帽子どうしたの?すごく似合ってるよ」なんて言ってもらって、私はとってもうれしかったのでした。それでね、何人もの人が、そのお店へ帽子を買いに行ったので、帽子屋さんはあわてて、近くのたくさん帽子がおいてあるお店へ帽子を取りにいったということでした。それで、男の人たちもみんな帽子をかぶって写真を撮りあって、旅ならではの楽しさですね。ネパールから帰って、学校が始まって、今、学校では劇をしています。その劇に出てくる子どもたちの衣装に、買って帰ったそのたくさんの帽子を使っています。色とりどりの素敵な帽子が、遠くから舞台を見ても、とてもよく生えて素敵なのです。
 大谷さんはレストランの入り口のところで、男の子と知り合いになったのだそうです。その男の子は絵の勉強をしたいので、教科書がほしい・・買ってもらえないかと大谷さんに頼んだということでした。本屋さんに行って、教科書を実際に買ってあげると、すごく感謝していたそうです。
 大谷さんはそのあと、何度も、「あの教科書で勉強してくれるのかな?それともだまされたのかな?でもちゃんとお店で教科書を買ったんだから、きっとそうだよね」と私に聞いていました。ときどき、買ってもらった教科書をまた売って、お金に換えるというようなことを聞くことがあるから、心配になったのでしょう。でも、私も、きっと大丈夫と信じたいし、信じて教科書を買ってあげた大谷さんが、素敵だと思います。
 みんながそろった頃、誰かが床に何かを見つけて、小さい悲鳴のような声をあげました。そこには血でぱんぱんになったヒルが落ちていたのです。「この中に誰かヒルに血を吸われていますね。誰でしょう。ネパールにはヒルがたくさんいます。身体のどこでも登っていくので、気をつけてくださいね」みんな自分の足下を調べてみたけれど、そのときは誰が吸われたのかわかりませんでした。あとで大谷さんが「ヒルに吸われたの僕だった」と告白?をしたので、事実があきらかになりました。
「いったいどこで吸われたのかなあ。地面を歩いたりもしなかったのだけど」
「もしかしたら、プールじゃない?」
すぐにジーンズも履き替えておられたから、違うかもしれないということだったけれど、ヒルに吸われたあと、その場所は普通猛烈にかゆくなるのだそうで、外国で、身体が慣れていないということもあるし、免疫もないから、病気になったりしないのだろうかとしばらく、心配でした。
 2時間ほどして、やっと食事が出てきたときには私たちはおなかがペコペコを通り越して、何がなんだかわからなくなったほどでした。最初に出てきたのはサラダでした。でもギータちゃんは「生野菜は食べない方がいいです。水で洗っているからおなかを壊すことがあります」とのこと。いくらおなかがすいていても、おなかを壊すのは困りますものね。
 食事が終わってバクタプルの街を歩き出しました。私はその街がとてもとても好きでした。煉瓦でできた道路、街はネパールなんだけど、どこかヨーロッパの古い城下町のようにも見えました。いたるところにお店があって、手作りの人形、和紙(ネパールでの和紙って言うのかな?)で作ったカレンダー、工芸品など、心惹かれるものばかりでした。私は、ていねいに人の手を何度も何度も入れて作られたものが大好きです。でも、観光という物はいそがしいものですね。早足で、通り過ぎるだけで、ああ、ゆっくりと街を見て歩けたらどんなによかっただろうと、その急いでいる旅がちょっと残念でもあったのです。奥の方には焼き物ばかりが売られている場所もありました。どこででも、小さな子どもたちが働いている姿を見ました。子どもたちの多くはずいぶん汚れて、小さくなった制服を着ていました。ギータちゃんによると、制服は政府から支給してもらえるから、他に服を持たない子どもたちはいつもいつも制服を着ているんだということなのでした。私はもっともっと子どもたちといたいと思いました。一緒に手をつないで、いろんなお話をして、もしかなうなら、子どもたちの生活を一日でも二日でも、その何時間かだけでも一緒にすごすことができたらなあと思いました。

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