11.養護学校

 クマリの館などがあるダルバール広場はカトマンズの繁華街にあります。繁華街には車を長く停めておけるところがなかったので、バスは少し離れたところに停まっていました。
「後にちゃんと付いてきてください。迷子にならないように、みなさんいなくなると大変です」
 27名の集団だとかなり長い列になります。みんなで先頭のギータちゃんを見失わないように歩いていました。それでも、ドジな私。溝があったら、溝に落ちるし、停まっている車にドーンとぶつかって倒れたり、下がっている看板に頭をぶつけてしまったり・・・。外国の道路は車の往き来が、驚くほど激しいことがよくあります。車が走っているところにスピードを落とさないで、他の車が突っ込んできたり、歩行者が見えてもそのまま走ってきて、すごくびっくりしたり・・・
 ネパールの道路も、クラクションを大きく鳴らした車が早いスピードで走ってきていました。ドジな私を知っている雅子さんが私のそばにすっと来て、手を引いたり背中を軽く押すようにして、道路を渡してくれました。それから歩道を歩き出しました。私は列の真ん中あたりを歩いていたでしょうか?歩道の切れ目を、急に自転車が飛び出してきたらしいのです。そして、その自転車のタイヤに私の足がひっかかって、どうも私は見事なダイビングをしたらしいです。KOちゃんが、後ろで見ていて、「ありえんほど、飛んで、落ちたね」と言いました。でも私には何が起こったのか少しもわかりませんでした。自転車だということもわからなかったのです。ただ、気がついたときには、左の頬を道路に嫌というほど打ち付けていて、目の前が暗くなって、でも、なんだか妙に冷静で「あー。起きれないなあ、起きるの難しいなあ、でも起きなくちゃなあ」というようなことを思っていました。それでもやはり気が動転していたのでしょう。いったい誰が抱き起こしてくれたのかわからなかったのです。起きあがったあと、頬の骨が折れたかなって思いました。大げさだけどすごく痛かったんだもの。それからとっさにちゃんと右手が出て、手をついたらしいのです。右手と膝から少し血が出ていました。「私ってえらい。ちゃんと右手をついた」と私がいばると、KOちゃんが「でも顔もついたね」なんて、にくたらしいことを言うのです。「何か起きると、どうしてかっこちゃんなの?」と大谷さんも言いました。めんぼくないことです。
 最初はあまり顔の変化もなかったのに、だんだんと腫れてきた私の顔を心配して、みんなとても親切でした。下村さんがマキュロンでさっと消毒してくれて、村井さんがバンドエイドを足に貼ってくれました。おがちゃんがレストランからもらってきてくれた氷をナイロンにいれて、冷やすといいよとくれました。圭子さんが、すごくやわらかな、タオルをかしてくれて、それでつつんで冷やしました。大谷さんも、やっぱり氷をさがしてくれて、なかったからとすごく冷えたコーラを持ってきて、これで冷やすといいよと言ってくれました。そして、それからはいっそう雅子さんが、道路を渡るときだけでなくて、道を歩くときも、いつもそばにいてくれるのでした。
 頬も、手も足も痛かったけれど、胸もちょっと痛かったです。粗忽な自分が恥ずかしくて恥ずかしくて、心が痛んだのです。それともみんながとてもとても優しくて、それが心に沁みたのかもしれません。ところで、帰ってから病院に行ったら、折れていたのは頬の骨じゃなくて、手の方でした。手の骨にヒビが入っていたのです。今でも時々手が痛みます。そして、手が痛む時、少しネパールの排気ガスとアスファルトのにおいと、みんなの優しさを思い出すのです。
 バスに乗って向かったのは、養護学校でした。カトマンズから少し離れたところにあったその養護学校は、大きな敷地内に建っていて、スクールバスも持っている、おそらくカトマンズではとても大きな養護学校でした。玄関には教頭先生が迎えにきてくれていました。「ようこそ」と案内してくれたのは、小さい子供のクラスでした。
 「ネパールにはいろいろな民族の人たちがまざって暮らしています。インド系の人たち、チベット系の人たち・・たくさんの血がまざってネパールの人たちがいるのです」というギータちゃんの言葉通り、学校でも、子どもたちも、目が大きく、濃い肌の色をした子どもたち、それから、(あ、誰それちゃんにそっくり)と思うほど、日本人にそっくりの子どもたちなど、養護学校の一クラスの中だけでも、ネパールには民族を超えて、たくさんの人たちが暮らしていることがわかります。「お父さんも、お母さんもインドの人のようなお顔していても、その次の子供に、日本人そっくりの子供が生まれることがあります。おじいちゃんや祖先の中に、チベットの人がいたのです」ギータちゃんの言うように、海のないネパールの国には、日本のように海で区切られた国境というものがない分、いろいろな文化や宗教、それから民族の出会いの大切な場でもあったのでしょうか。
 教室も廊下も、モルタルの作りで、決してりっぱな作りではないかもしれないけれど、とてもきれいに整頓されていました。
 小さい子どもたちは、私たちが来るということで、お帰りの時間を少し遅らせて、学校で待っていてくれたということでした。きらきらとした目がとても印象的な子どもたちは、私たちが挨拶をすると、ちょっと恥ずかしそうにしていました。いつも子どもたちと一緒にすごしているギータちゃんが、私たちの間を取り持ってくれて、私たちは一緒に折り紙をしたり、手遊びをして遊びました。それから、用意してきた歌を披露したりもしました。19歳の時、初めての外国の一人旅がネパールだったというてっちゃんが、そのときに覚えたというネパールの歌を歌ってくれました。
 養護学校ということでしたが、どのお子さんも、とても軽い障害のように、私には思えました。障害を軽い、重いというように簡単にはお話できないのかもしれないけれど、日本であれば、みんな地域の学校に、おそらくは通っているだろうなと思われたのです。車いすに乗っている人は少なく、足に少し麻痺があるのだろうかというお子さんが多かったです。(重い障害の子どもたちはどうしているのだろう、ネパールには重い障害のお子さんがいないのだろうか?なぜ、この子どもたちは地域の学校へ行かないのだろうか?)それが、そのときに持った私の素朴な疑問でした。
 次に大きな子どもたちのクラスに案内してもらいました。10人ほどの子どもたちが、座って、勉強をしているところでした。
「このクラスは、特別にたくさん勉強をしているクラスで、大学への進学も希望しています」
 教頭先生の言葉に、思わず、ノートをのぞき込むと、数学のノートには、とても難しい式が書かれていました。
 「ナマステ。私は日本で養護学校の教員をしています。今日はみなさんに会えてとてもれしいです」というような簡単な挨拶を最初にしました。そして、「みなさんに二つ質問をさせてください。一つめは日本について、どんなことを知っていますか?ということ、もう一つはみなさんの夢はなんですか?ということです」
 「まず、日本について知っていることをお願いします」
「日本は、とても進んでいる国です。科学の技術が進んでいます」「お金持ちの国です」「経済が豊かです」・・・次々とそういう意見が出ました。
 びっくりしたのは、子どもたちが政治についてとても関心を持っていて、日本の政党について知っていたことです。
 前の方に座って、少し恥ずかしそうにしていた女の子が
「日本はとても心がまっすぐで一生懸命な国です。私は日本が大好きです。あこがれの国です。私たちも日本人のように一所懸命に、まっすぐに生きていきたいと思っています」と言いました。
 びっくりしました。そして急に胸がいっぱいになりました。ほめてもらったのがあまりにうれしかったのでしょうか?それとも、遠い外国の地で私たちのことをそんなふうに言ってくれる人がいることが、以外だったのでしょうか?いったいどういう理由で、涙が止まらなくなったのか自分でもわかりませんでした。その女の子こそ、まっすぐに前をむいて、ひとつひとつ言葉を選びながら、ていねいに、お話してくれました。
 私は彼女に恥じないような生き方をしてるだろうかと思いました。胸がいっぱいになりながら、「では夢はなんですか?」と聞きました。
「エンジニアになりたいです」「福祉の仕事をしたいです」という男の子もいました。「歌手になりたいです」と言って、みんなに「ひゅー」とはやされた男の子もいました。「歌ってくれないかな?」という小林さんにちょっと恥ずかしそうだったので、友だちと3人で、歌を歌ってくれました。「エッサンピリリ、エッサンピリリ・・」ネパールの人なら誰でも知っている有名な歌だそうです。「ドクターになりたい」という女の子もいました。
 哲也さんがいつも言う言葉があります。「夢は必ずかなうよ」という言葉です。
 私もその言葉を子どもたちに言いました。「きっと夢はかなうと思います。だって、みんな本当に一生懸命だもの。思っていれば夢はいつも、きっとかなう。それから、日本事をたくさんほめてくださってありがとうございます。あなたは日本のことが大好きと言ってくださった・・日本人のようにまっすぐに生きていきたいと言ってくださいました。私はその言葉にとても感激しました。そして、みなさんが言ってくださった日本であるために、その言葉に恥じないように、私たちも一生懸命にまっすぐに生きていきたいと思います」話している間も、ときどき胸がつまりそうになりました。
 私たちはギータちゃんに訳してもらいながら、「世界にひとつだけの花」を歌いました。「世界にひとつだけの花 一人一人違う種を持つ、その花をさかせることだけに一生懸命になればいい」
 教頭先生のお話によると、この養護学校は、寄付などで、運営がまかなわれているということで、どんなに貧しい子どもたちでも、障害を持っている子どもたちは、この学校へ入ることができるということで、一人一人に合った教育をし、可能性を育てているということでした。
 私たちがこんなふうに大きなクラスで子どもたちと話をしていた外では、大谷さんたちが、持ってきたギターで子どもたちと歌を歌っていました。一人の男の子がとてもうれしそうに、ギターを首からさげ、大谷さんが後ろから左手で音階を押さえ、その子が、右手でジャンジャンとメロディをならしていました。たくさんの子どもたちが周りに集まって、次から次へと歌を歌っていたようでした。子どもたちはとてもとてもうれしそうで、そして、大谷さんもとてもうれしそうでした。

inserted by FC2 system