都田萬作さんの気持ち
自己とは何か
自己とは何か 試しに自己とは何かを生意気ざかりのA君に聞いてみた。
「この身体です」 と言うのでこういった。 「ではその身体のDNAを使ってクローン人間をつくったらどうだろう。
まったく同じ身体をもった個体ができあがるが、すると自己が二つになるよ」
「じゃあ 身体じゃないや 脳味噌だ」 「でもクローンだからまったく能味噌もおんなじなわけだよ」
「じゃあ 脳味噌じゃなくて、それに蓄積された経験だよ」
こういう生意気で素直で単純なヤツは大好きなのでもっといじめる。
「その経験は記号(言語)化されて、蓄積されてるけど、それならば、
それはコンピュータのハードディスクのなかに全部保存できるから、
自己はもうコンピュータの中に入れることができて、だからいくらでも増産できそうだね」
「・・・・・じゃあ 自己とはこの意識じゃないかな」
いよいよ答えが核心に迫ってきたのでとどめをさす。
「意識が自己だって? じゃあ眠っているとき、特に夢を見ていない深い眠りの時は自己は無いんだね」
「・・・・」 こういう沈黙は何度あじわってもいい。
山もっちゃんに同じ質問をしてみた。 そしたら、夢を見ていない深い眠りのときもいる「気持ち」があるのだという。
赤ちゃんを育てているときに、布団をから出てしまうとわかって、ふっと目覚めて赤ちゃんに布団をかけたり、おなかがすいた頃だとめざめる心が子育てのときにあるのではないかと言う。
山もっちゃんがいう「気持ち」はいつも懐かしくてあたたかい。山もっちゃんが勤める養護学校では「いのちの近いところで出会った」人たちとの交流があるという。
自己をおいつめてゆくと気持ちにゆきあたり、気持ちはいのちにゆきあたる。
自己とは誰か、という問いは海の深みへと旅立つ船のようなものだ。
都田萬作さんへのお手紙