都田萬作さんの気持ち

タイタニックの謎

980321
   タイタニックの謎/まんさく

 とてつもなく美しい夕焼けをまったくみとれているとき、自我はどこにいるのだろうか。

 映画「タイタニック」をみて一つの謎が解け、一つの謎が生じた。

 解けたナゾとは人の死のことだ。
 よく人は死んだり、別れてしまっても、心の中に生きているということを聞いたり読んだりした。そんなことってあるだろうかと思っていた。気休めにしか過ぎないと思った。あれは単に自己満足か人を安心させるためにいう方便だとおもっていた。
 しかし、タイタニックを観てそれは間違いだと気づいた。
 タイタニックのことはこんな詩で伝わるだろうか。

   タイタニック

大きいという名の船が
いままさに沈もうとしている
四千のドラマを一つに完了させようと
船よりも陸よりも大きな海が
静かにその時を待っている
肉片となって海に落下する者もある
船と運命をともにする決意の者もいる
人々の悲しみをやわらげようと
楽隊は最後の曲を演奏している
牧師は神に祈っている
母親は幼子にもうすぐ楽になるよとさとしている
幼子のつぶらな瞳は母親をいっそう強くやさしくする
死を目前としたすべての出来事は生々しい

救命ボートの上から
救助信号が星空に打ち上げられるのを眺めることができた
それは皮肉にも美しい光景だった
最後まで救助に徹する者はそれを見ることはなかった

愛する女を漂流する木片にすくい上げた男は
自らは氷点下の海に漂った
一人で生きることなど考えることはできない女だったが
最後まで生きぬくことを男に約束させられた
言葉を越えた否みがたいいのちの力を
女は感じた

男は凍てつく海に体を浸しながら
女と出会えたことを心から神に感謝した
女のいのちを確認するかのように
ふるえる男の目は最後の力をふりしぼって女を見つめ
女の目にすべてを託した
男の肉体は力尽き、凍った物体となって海に吸い込まれていった
しかし女は男と共にあった
女は男のいのちと共にあった
船よりも海よりも大きないのちと共にあった

 男はひょんな賭けに勝ってタイタニックに乗船することができた。そして女とであった。
 女はもう一人では生きてゆくことは考えられなかった。 だから、男が死ぬのなら迷わず死を選んだであろう。
 しかし、男は女に生きることを約束させる。そして死んでゆく。
死に際にさいして、男は女に出会えたことを神に感謝するのである。間近に迫る人体の死よりも今の瞬間に輝く愛情に全てをかけて、女の中に自らの命を生かすのである。
 女は約束どうり、最後の力をふりしぼって生き延びる。女にとっては延命そのものは意味をもたなかったのだが、男との約束がすべてだった。男の命を近くに感じていたのである。
 そのとき男にも女にも自己の肉体というものを越えていたのである。
 まさに、女の心の中に男が生きているんだと実感できた。気休めでも自己満足でもない、命の実感である。

 それで一つのナゾが生まれた。
 人体の死はなにを意味するのだろうか。
 人体の死によって何が変わるのだろうか。何が変わらないのだろうか。
 人間とは何か。

 女の心の中に確かに男は生きているのである。だから女は生き続けたのである。
 しかし人体はもうないのである。女の中に生きる男とは男の記憶だろうか。
 そもそも女は生きているのだろうか。女の人体は確かに生きている。女が生きているとはどういうことをいうのだろうか。生きているとはどういうことだろうか。

 そんなときである。森津純子さんの講演会がKCCの主催で行われたのは。
 森津さんは形成外科にいたころ、二十の子の胸毛をぬいていたという。ぬきながらこんなことをするために生まれてきたんじゃない、と思ったという。捨て鉢になっていたころ、余命幾許もない患者さんの話し相手になっていたことがあったという。
「先生のおかげで、ちっとも死ぬのが恐くなくなったのよ
・・・私の人生、辛いことばかりでいいことは一つもなかったけど、
最後に先生に会えたのだけはうれしかっわ。
私は、喜びながら死んでいくのだから、かなしまないでね。
・・・ありがとう、先生。また、あいましょうね・・・」
こんなちっぽけな私の存在を「ありがたい」と言ってくれる人がいた・・・
生きてよかった・・・
命を救うはずの医者の私が、今まさに消え逝こうとする患者さんに
心を救われた瞬間でもあった」
というのだった。抜け殻のように生きていた森津さんが生きている証をつかんだのである。
 生きると言うことは、どういうことなのかがここに答えがあったのだった。
 どういう答えか。生きるというのは関係の中でしか意味をもたないということだ。それも単なる関係でなくお互いがお互いを必要とする関係である。

 大ちゃんの詩に
「 星の光が見える
  星と 僕は 知らないもの同志やけど
  僕の心を 動かす力を 持ってるんやな 」
というのがある。関係において存在が意味をもつということに他ならない。

 再びタイタニックに話をもどす。
 男が女とともに生きているということは、関係である。
 友達の山もっちゃんや雪絵ちゃんが言うように「愛し愛される」関係なのである。
 人体が無くなっても、男の名と女の名があって、愛し愛されるならばそこに男と女は存在しているのである。もっと言えば、主語ぬきでただ「存在している}のである。
 英語の一人称と愛の音読みが同じ発音なのは偶然にしては面白い。

 人間とは人の間とかく。
 人と人の間である。男と女、兄弟、親子、社会、人類、それらすべてである。
 人となにかの間である。人と花、人と山、人と夕焼け、人と星、それらすべてである。
 それらすべての関係が世界であり、宇宙なのではないだろうか。
 関係が人間の正体だとすれば、人体はその表現の道具である。
 人と人の関係こそ人間であり、世界である。
 
 繰り返すが、ただ単に関係があるというのは人間の正体とは言い難い。
 森津さんが、その患者さんから必要とされてはじめて生きがいを見いだされたように、お互いが愛情で結ばれている関係こそが人間なのだ。その証拠に、森津さんはそうしてはじめて「ある」ことを実感された。別の言い方をすれば結びが人間なのだ。
 全ては一つという言葉はさらに別の言い方と思える。

 だからこそ、タイタニックで生き残った女は男と共にいたのである。
 男の体というものはその活動を停止していたが、男の名とともにその関係がのこっていた。映画の最後に女は名前を聞かれ、男の名(姓)を答えたのはその意味だと考えたい。
 冒頭にあげた疑問の答えは、「ない」である。自我はない。結びがある。

「人間は、私とあなたと彼というように、別々に存在していると
思っているけれど、本当は一つなのです。別々にある肉体というのはないのですよ。
只、天命がそこにあるだけなのです。天命を全うさせる意識があるだけなのです。
だから、本当に自由自在心になるためには、
あらゆる体というものを越えなければいけません。」(五井先生)

都田萬作さんへのお手紙


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