ドラゴン(竜生)の12年を振り返って
                     
                             
ドラゴン(竜生のニックネームです)12年間の生い立ちを紹介したいと思います

平成4年3月5日、その日は朝から雨がシトシト降っていました。ドラゴン兄が生まれた日は快晴だったな・・・とぼんやり考えていた母。人工破水でようやく生まれてきたドラゴンは「ふぁー」と言ったきり産声もあげずひどいチアノーゼで数名の緊急呼び出しのかかった医師にかこまれていました。母の枕元には使うはずだったカメラが残っていました。

産後の1週間が地獄でした。3時間ごとに授乳室にむかう同室の母親達。その地獄の時間でも母にとっては待ちわびた時間でもありました。誰にも気兼ねせず声をあげて泣けたからです。兄は2歳5ヶ月。かわいい盛りでまだまだ親に甘えたい時期です。でも「面会には連れてこないで。」と突っぱねた母でした。切迫早産の危険性もあったので母の入院は長期化して当然会いたかったのですが生死をさまよっているドラゴンへの気持ちが薄れていくような気がして・・そんな自分が許せなくて退院するまでは拒みました。

ドラゴンの病気は母からの遺伝による筋肉の病気でした。初めてドラゴンに会ったのは出産3日後でした。保育器の中で身体にはいっぱい管や線がついていて腕は大人の男性親指程の太さでとても痛々しく涙が止まりませんでした。ドラゴンの声を初めて聞いたのは1ヶ月程経った頃の弱々しい泣き声でした。一生懸命生きようと頑張っている姿に胸を打たれました。人間というのは口から物を摂らないと元気にならないようで鼻注でミルクを摂取している頃より口からのミルクを飲む頃の方が体力のつき方も全く違いました。月日が経つごとにゴンタな面が出てきて保育器を蹴飛ばしたりナースさんにウンチをひっかけたりと困らせていたようです。夜泣きが止まらずナースさんが肩から酸素ボンベをかけドラゴンを抱っこして院内散歩。おかげで有名人になってしまい今でも母の知らないナースさんにまで声をかけられ「大きくなったね。」と言われちゃいます。

出産後1週間で母は退院しましたがドラゴンは10月まで7ヶ月間ベビー室で入院になり面会に通う毎日が続きました。1日でも休んだら負けてしまう、行けなくなる自分をわかっていたので必死で通いました。ある夏の日、兄への気持ちから海水浴に行こうかと迷いベビー室のナースさんに相談したところ「是非に」と進められ、行く日の早朝とあくる日の夜こっそり入れてもらい会いにいきました。ちょっと意地になっていたかもしれません。
平日は1人で、土、日は主人と2人で通っていたある日、祖母に兄を預けて病院へ向かう父母に初めて泣きじゃくり後追いをして「行かないでー。僕と一緒におうちにいてー!」とさけんだ兄の声は忘れることができません。でもそれ1回きりで2度と言いませんした。
これでは兄ちゃんがあまりにもかわいそうすぎると思い連れて行く事にしたのですがバス、電車、バスの道のりは、はしゃぐ兄を連れて行くのは大変でした。途中、喫茶店で休んだりハンバーガーショップに立ち寄ったりしてJR吹田駅まで祖母にバギーで迎えに来てもらい、病院についてからは祖母に預け屋上で遊ばせている間に面会に行きドラゴンが眠ってから実家に帰り夜、車で祖父に送ってもらう日々が続きました。その車の中で兄(勇輔)は「お月さまが勇ちゃん待って待ってーって追いかけてくるよ」と母の心を癒してくれました。

100日のお食い初めの日も短冊に「早くおうちに帰れますように」と祈った七夕の日も病室でした。少々落ち込んでいる母にナースの主任さんは「あなたたち夫婦だから大丈夫と思ってドラゴンを授けてくださったのよ」と励ましてくれました。

在宅酸素の条件付で帰れたのは10月に入ってからでした。レベル2の酸素量も兄がダイヤルをまわして10になっていたり、鼻のチューブを自分でぬいていたり・・・。張り詰めた毎日が3ヶ月あまり続いた頃にドラゴンは肺炎にかかってしまいました。夜中に荒い息づかい。熱を測ると41度。落ち着け。落ち着け。と自分に言い聞かせ父に緊急連絡。身体の不調を訴えられない事。こちらが注意しておく事。少しでもおかしかったら先手を打つ事を教えられました。その後やっと酸素がはずれました。

1才検診で医療センターへ行って問診のとき「よくここまで育てられましたね。」と言われ無我夢中で走り続けていた母はちょっとジーンときました。あんなにガリガリだったドラゴンは赤ちゃんらしくふっくらとしてきました

1歳のお誕生日を終えて4月から藍野療育園への母子入園が決まりました。最初は携帯酸素を抱えて通いました。結局、使うことはありませんでしたが。
最初に見学に行った時はとても衝撃的でした。保育の先生方の明るいこと、それに負けないほどのお母さん方の明るさ。状態は違っても障害を持つ子の母親である事は同じです。月、火、木、金の週4日の通園でした。保育、訓練、給食があり家事はお姑さんにまかせ兄を幼稚園のバス停まで送ってから通園する生活が3年半続きました。泣き叫ぶ我が子を押さえつけての訓練はつらい事でしたが「この子の為」と自分に言い聞かせた日々が続きました。2年程でずりばい、寝返り移動ができるようになり、保育では「ぞうさんのあくび」「むすんでひらいて」の手遊び、「バイバイ」などができるようになったのですが、その後一進一退・・・。そしてそれらの手遊びもしなくなり母の病状もこの頃から進みだし「重いものは持たないように。力仕事はしないように。」と主治医に言われ、悩んだ末G先生に相談。もう泣きながらの訴えでした。「ぜんぜん進歩しない。通う気力もなくなって来た。私はもう子供が抱けない」と思いをぜんぶ吐き出すと、よく理解してくれ、先生も「毎年子供を卒園させて5月になったら、これで良かったのだろうか、もっとできたのではないかと落ち込みます」と泣きながら話してくれました。

数日後、療育園をやめて玉島保育所に週2回通うことになりました。4才7ヶ月のことです。これには父も母もとても悩み健常児の中に入れて怪我をしないか、いじめられないか、先生方の対応は、ドラゴン自身の気持ちは・・・など。考えたらきりがなくまずは見学に行く事になり「セラピーマットは市役所の意見で用意できない」と言われていたのに行くと4枚のマットに所長先生の手作りのカバーがかけられ職員室に敷いてあり、先生方の対応、所長先生の人柄に好感を持って入所を決めました。現在もきて頂いている社会福祉協議会のボランティアさんに送迎を頼みました。朝はバギーから振り返って涙をためて母を見つめています。そんなドラゴンを見て母も泣きそうになりますが笑顔で「行ってらっしゃい」と送り出します。たぶん顔は引きつっていたと思いますが・・・。
参観に行くと子供達がまっすぐな目で「どうして?」の質問の嵐で親を取り囲みます。ひとつひとつ分かりやすいように説明していくと納得して「じゃあ僕が。」「私が。」とドラゴンの席の横の取り合いになりお世話をしてくれます。そんな時先生は「周りの子供たちはドラゴンと関わることで優しい気持ちが育まれ大きくなっても困った人に自然に優しくなれると思う」と言ってくださいました。

お泊り保育、運動会、夕涼み会、遠足、いろんな行事も無事参加でき楽しめたようです。

母は療育園に通いだした頃から精神的におかしくなる時があり、決まって夜中に発作的に涙が止まらなくなり泣きわめき「私のせいで」「この先どうしたら」と父を困らせていました。ドラゴンだけでなく母まで障害者で情けなくて生きていく事がつらくて、しんどくなって・・・。黙って受け止めてくれていた父ですが「前向きに。な。前向きに。」を繰り返していました。母の発作は週1から月1になり二ヵ月、三ヶ月と期間が長くなり今ではすっかり無くなり、少々の事では動じなくなり一時の事を思うと強くなりました。最近では母の主治医にまで「この病気の人はたいてい、鬱の人が多いのにあなたは特異な人や。いい事ですよ」と褒められているやら不思議がられているやら。先のことは考えず、『なるようになる』という気持ちで毎日の生活に追われています。

学校を決める時期になり教育委員会の方や保育所の先生に相談し、一度地域の小学校の見学にいきましたが校長先生に「ちょっと・・・」と言葉を濁されてしまい、1日の授業の内養護学級で見るのは1時間だけであとはクラスで過ごすと聞き即座に諦めました。

現在通っている茨木養護学校にも見学に行き先生方の態度、子供に対する関わり等を見て茨木養護に決めました。この選択は間違っていませんでした。

入学式の日は1人大泣きで苦笑してしまいました。大好きなお父さんからいきなり離され初めての体育館。あまり泣くのでH先生が式の間、抱っこして歩いてくれ、親はこの先どうなるのだろうと不安でいっぱいになりました。また、玉島保育所の所長先生が来賓で来て頂いていたので穴があったら入りたい思いでした。

どんぐり村(3くみ)の一員になれたドラゴンは本当にしあわせでした。小学部6年間とても良い先生に恵まれドラゴンをりっぱに育てて下さいました。他のクラスの保護者の方がうらやむ程の良い先生方であったかいクラスでした。少しの期間で車椅子を乗りこなし障害物にも当たらず嬉しそうに走りまわっているドラゴンを見た母は嬉しくて胸があつくなりました。

学校が大好きになったドラゴンは登校時、保育所の頃ベソをかいていたのとは打って変わって知らん顔でボランティアさんにバス停まで送ってもらっています。帰ってきた時は「楽しかったよ」という100万ドルの笑顔で満足気です。苦手な事は体育館、暗い所、土いじり、ネバネバスライム、絵の具遊び等で泣いて訴えていました。その度に先生方は根気よく接してくださいました。親ではとうてい出来ない事です。それらの事は先生方のおかげでだんだんできるようになってきました。

銀杏祭(劇の発表会)は体育館で大勢の人の前にでます。これがまた大変で脱力して抵抗し、またまた大泣き。3年生の頃までは毎年そんなふうで見に行った母は冷や汗ものでした。4年生以降は泣く事も無くなりポーカーフェイスで難なくこなせるようになりました。

訓練は療育園の時とやり方が変わりボバーズになりました。泣くことなく意欲的に取り組めているようです。バルーンやバランスボードも乗りこなし、足の筋力アップの為の三輪車も喜んで乗って暴走族のように「ブイブイいわしている」と聞き大笑いでした。

3年生の6月5日、初めて独歩ができるようになりました。先生から電話連絡があり母は大感激!父、祖父母、友達等あちこちに電話して「聞いて!聞いて!」と喜びを分かち合ってもらいました。ドラゴンも目線が高くなり嬉しそうに良く歩いています。

歩くぶん、よく転び怪我もしました。その年の9月19日、学校の音楽室で転倒して後頭部を強打。その日の深夜と次の日の朝、嘔吐してぐったりしています。医療センターに問い合わせると「打ってから12時間以内に吐いたら問題がある」と聞き12時間以上経っていたので少し安心しましたが翌朝病院に直行。CTの結果、とりあえず大丈夫という事で肝をひやしました。心配されたOH先生も病院にかけつけてくださりCT室に入りずっと抱っこしてくださいました。父母は学校に出向き「怪我は仕方ないがすぐ病院には行って欲しい」「他クラスの先生に見てもらう時は口頭と文章で引継ぎをしてください」と伝えました。たまたま他クラスの先生の介助だったのです。

3年生の5月17日には、中庭で転び眉毛の上に傷ができたり、6月29日には、うんちからパチンコ玉が出てきたり(母が注意してくださいと言っていたにも関わらず)いつだったかオオカミのかぶり物におどろいてうつ伏せになりメガネを割ったり(目を怪我しなくて良かったのですが)とハラハラ、ドキドキすることもありました。

4年生の2月13日、学校のOA先生から電話で「今、病院にいます。」と言われ、ドキッとした母。「今度は何ですか?」と恐る恐る聞くと「左腕を骨折しました。」と言う事でした。めまいがしそうでしたが送ってくださったドラゴンを見て顔色も悪くなくホッとしました。でも時折顔をしかめています。廊下を歩いている時つまずき腕にひびがはいったそうです。その日はリビングで父と母がドラゴンをはさんで寝ました。寝返りを打つたび「フェーン」と泣き「よしよし」と父。「代わってやりたいなー」と思う母でした。母に力が無く朝のバギーにはドラゴンはいつも自分で乗り込みますが怪我の為できません。朝の登校は先生に家まで車で来てもらいスクールバスまで徒歩で送り一緒に学校に行き帰りはその逆での送迎をしばらく続けてくださいました。怪我をしてすぐ教頭先生を交えて担任のOA先生と訓練のO先生がお詫びに来られました。父はかなり怒っていて難しい顔をして思いをぶつけていました。怪我後の誠意で何とか納得したようでした。

ドラゴンが帰宅してない時間に学校から電話があると本当にドキッとします。

その後、先生方が協議して下さりドラゴンに胸ベルトをつけ後ろからそれを持ってよろけたら引いて転倒を防ぐという方法をとってくださいました。なんせ怪我の多いドラゴンの上にうるさい母がいますので・・・(笑)  

ある検診の日、主治医の小野寺先生にドラゴンの歩く姿を見てもらいました。先生はドラゴンの目線までしゃがんでくださり「よかったねー上手にあるくねー。」と目をほそめて褒めてくださいました。ドラゴンは得意そうに歩いていました。その先生が退職され北海道の伊達赤十字病院に赴任されました。生まれた日、泊り込みでドラゴンの命を助けてくださった先生です。その先生の診察の日は泣かずに受け入れていたのでとても残念です。

夜、急な発熱で吹田市民病院の救急外来に行った帰りベビー室でお世話になったナースさんと出会いました「その後どうですか?」と笑顔で聞かれ「歩くようになったんですよ」と答えると涙を流しながら「良かったね」と言うのがやっとのようでした。また別の日の
検診の日にベビー室ナースの主任さんに出会いその前を歩いて見せたドラゴン。とても驚かれ「今だから言えるけど一生寝たきりと思っていたのよ。良かったねー」といってくださいました。 7ヶ月間育ててくださったナースさん達にまで喜んでいただいてドラゴンはしあわせものです。

4年、5年の宿泊学習、6年の修学旅行。最後のレクレーションの暗い部屋では泣きがはいったものの 楽しめて良い思い出になったようです。母にとって1番信頼できるOA先生だったので安心してお任せする事ができました。初めて親と離れて「夜は寝れるかな?」と思いましたが、takapyonが寝たらドラゴンがごそごそして起こし、ドラゴンがウトウトしたらtakapyonが笑い出す。の繰り返しだったようです。楽しい2人です。

3組の先生方のおかげで6年生になり立位のオシッコが定着しました。また学校以外の場所でもできる様になり、父の休みの日は家でも少しずつできる様になりました。

楽しいどんぐり村とも今年でお別れとなった6年生の授業はなるだけ参加しようと父に無理やり会社を休んでもらい行きました。素晴らしい先生方、素晴らしい仲間たちに囲まれてドラゴンの成長を実感しました。

ドラゴンの特技は人を見る目がすごい¥鰍ナす。短時間でこの人は自分にとって優しくしてくれる、甘えさせてくれると分かったらニコニコ笑顔ですり寄っていきます。たくさんの人とかかわりが多いドラゴンの見てないようでしっかり見ている観察力は鋭いと思います。どんぐり村の先生方もすぐに大好きになって6年生のドラゴン担当のH先生(女性)にはとても甘えていました。いつもニコニコと優しい先生だったので親も大好きになりました。

小学部6年間でドラゴンは肉体的にも精神的にも成長しました。言葉はまだ出ませんがドラゴンの気持ちは読み取る事ができます。喜怒哀楽も良く出て嫌な事はイヤ!嬉しい時は身体全体で表します。回りの言っている事もよく理解しているようです。

母の病状はじわじわと進み家の中での転倒が多く足の指の骨折を繰り返すようになり外出時は車椅子が必要となり、生活は多くの人の手を借りなければならなくなりました。ドラゴンの送迎は社協のボランティアさんに頼み、家事は週2回ホームヘルパーさんに来てもらい、朝、ドラゴンを送り出したり家事援助はお姑さん、ドラゴンの入浴は母の祖父母が吹田から通ってくれています。多くの人の助けを借りて何とか生活が出来ているドラゴンファミリーです。感謝の気持ちでいっぱいです。

お父さんが大好きで、怒ると怖い母、手荒いことをして遊んでくれる兄。ドラゴンは私達の大事な大事な宝です。私達にいろんな人との出会いを与えてくれ、とびっきりの笑顔で癒してくれ幸せな気持ちにさせてくれます。さあ中学部に進学しました。これからのドラゴンの成長がますます楽しみです。

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