四月二八日
名古屋空港を午前一一時に飛び立ち、シンガポールを経由してバングラデッシュのダッカ空港に午後の一一時に到着。
トランジット(乗り継ぎ)の待合所ではバングラデッシュ人達が親しく話してくれた。日本人は好きだと言った。
機内では違うバングラデッシュ人の隣に座り、困ったことがあったらここに電話しなさいとメモを手渡された。そして、バングラデッシュのおすすめベスト4を地図入りでかいてくれた。その人はスチュワーデスに搭乗記念のトランプをもう一つくれ、と訴えていた。なんでも前回乗ったときに眠っていてうけとりそびれてしまったからだという。さしものサービス世界一を誇るシンガポール航空のスチュワーデスも毅然と断っていた。
シンガポール航空のスチュワーデスはとてもいい。
愛想がよくてスタイル抜群で美人。民俗衣装の制服もとてもいいのだ。
湿気を含んだなまぬるい空気を感じつつロビーに立つと窓の外側に百人以上の無表情な顔がこちらを見ていた。
ひしめきながら何かあぶない雰囲気をかもしだしていた。ひょっとしてこの人ごみの中に入ったら身ぐるみはがれるんじゃないかという恐怖感が沸いてきた。夜中の一一時に異常なまでに多い人はあきらかに出迎えではない。
出迎えてくれるはずのデリップさんを探したがみあたらない。とりあえずロビーの中にいる間は安全だった。どのようにあの包囲網を突破するのだろう。
そんなときに聞き覚えのあるデリップさんが名を呼ぶ声が聞こえた。同行の日本人女性もいた。出口の車寄せにまわることになった。そこは鉄門扉があって、タクシーだけがはいれるようになっていた。門扉の外は相変わらず群衆がいた。その間を逃げるようにして駐車場まで走っていって車にのりこんだ。
「まるでここではアイドルですよ」
と、容子さんと名のる女性が言った。あとでこの言葉はなんの誇張が含まれていないことがわかった。
容子さんもデリップさんの友達だった。
お互い友達の友達だから友達だと思えた。テレビの影響か。
道路に出ると真っ暗でなにもみえなかい。明日どんな景色がまちうけているのだろうとおもっていると高級なホテルと呼ばれているホテルに着いた。
広い室内に大きなベッド。ややかび臭い。
三人でバングラデッシュの話で夜遅く迄もりあがった。時差を考慮にいれると夜明けの日本時間の四時までおきていたことになる。
エアコンがあったので助かった。旧式だったがナショナルの製品だった。
シャワーを浴びたが、お湯がでない。以後一週間の滞在中一度もお湯を浴びることはなかった。蚊が数匹いた。
四月二九日
現地時間六時に起床。ホテルのまわりを散歩する。
むかいの高校の敷地に美しい赤い花をつけた木があった。
このへんは高級住宅街らしいが路地をはいると怪しげな雰囲気だった。
もう人々は活動をしていた。
交差点で人だかりがあったのでのぞいてみると喧嘩だった。
なんだなんだと野次馬根性をおさえきれずに近づいていった。
国境をこえてこういう根性は似ているらしい。
見ると二人の男がベビーカー(三輪タクシー)をはさんで口論をしていた。
首都ダッカでも外国人は珍しいのかじろじろとこちらをみられた。
物ごいがとても悲しい目をして手をだした。何か見てはいけないものをみてしまったような気がして通り過ぎてしまった。
ホテルで朝食は当地のめずらしいものでもと思って注文したが全然違うトーストがでてきて、がっくりした。メニューにはいろいろあるのだがでてくるのはひとつなのだろうか。まぁ日本円にして三百円だからいいか。宿泊代は四五〇〇円だった。
車でホテルを出るとクラクションと排気ガスと混雑の中にはいっていった。
路上ではバス、トラック、からベビータクシー、人力車にいたるまでスピードの違う乗り物がごったがえし、そのうえほとんど信号機もないから皆気合いと押しで運転しているっていう感じだ。ともかくクラクションの多さには驚く。暑さをいっそう実感させる。目前の人力車や歩行者にも容赦なくクラクションを浴びせてどかせる。人力車も負けていない。おまえこそよけていけ、といわんばかりに客もろとも手で合図する。
左側通行なので右折など必死である。にらみあって勝負をかける。
最近は浜松では直進車が右折者に道をゆずるゆとりをみせはじめているがそういうデリカシーはいっさいここには通用しない。
交通整理のおまわりさんが交差点にたっているところがあって、人力車がいうことをきかなかったので首ねっこつかんでビンタをくらわそうとしていたのを見た。人力車は子供のような年ごろの運転手だった。
排気ガスもはんぱじゃない。窓をしめればあついし、あければもくもくと臭い空気がはいってくる。もちろんエアコンはない。車が停車すると物売りや物ごいがきた。中央分離帯に三才ぐらいの女の子が足をひきながら歩いていた。
娘と同じ年じゃないか
車は一路、一二〇キロ離れたデリップさんのふるさとの近くのマイメンシンに向かっている。道路脇の光景はまったく見慣れないものだった。うす汚れた安普請の小屋が集まり、食べ物やさまざまな商売をしていた。どこにいっても人がたくさんいて、活気があった。バングラデッシュの人口は日本と同じでその面積は日本の三分の一ぐらいだろうか。日本の夏の気温にもかかわらずよく働いていた。また、よく話もしていた。
商店が少なくなるにつれ田園が多くなる。田園は日本の田圃とかわりない。しかし、田植えが済んだばかりの田もあるかと思うと、青々と成長の最中と言う田もある。一年に二回の収穫をしているそうだ。最高三回の収穫も可能だと言う。
どんな田舎にいっても道路脇には人がいた。人力車も走っていた。バスはもっとも一般的な交通手段だがどれも満員だ。バスの屋根の上にしがみついている人もある。
男たちの表情はどれも険しい。彫りが深く目が深刻だ。
道はどこまでもまっすぐに続き舗装されていた。
交差点も信号機もないのでバイクで走ったら気持ちいいだろう。
まるでNHK取材班のキャラバン隊のように、一行は観光客の来ない未知の領域にはいっていった。タクシーは五日間貸し切りなのだ。
車はマイメンシンについた。
人口をきいたが誰に聞いても違う答えがかえってくる。わからないのだろう。
中心部で推定一〇万人としておこう。かなりの人口密度だ。
車はめっきり少ないので人力車と歩行者天国だ。
車は人力車のためにほとんど徐行せざるを得ない。ガソリンスタンドで物ごいがきた。外国人はほとんどはいってこないのでいるだけで人々が集まってくる。
車はさらに二〇キロはしる。
デリップさんの故郷につく。かなりの田舎だが人はあいかわらず多い。
車から降りると人々が群がってきた。デリップさんの家は大きな池をもち、母屋と厨房家屋と隠居部屋と中庭そして外庭からなっていた。家は他の家同様トタン屋根だった。おもったよりみすぼらしい。
母屋の中はベッド二つとテーブル一つそしてテレビが一台あった。
一〇人ぐらいの人々がいるのでどれが家族かよくわからなかった。
花をわたしてくれたのがデリップさんの弟だった。家の中で紹介されている最中にも窓から子供や大人の顔がこちらをみつめていた。
男たちは深刻そうにこちらをみつめ、女たちは遠くから興味津々にみていた。
挨拶はヒンズー教徒には手をあわせてノマステといい。イスラム教徒にはサラームと右手をあげればいいとおそわった。デリップさんの家はヒンズー教徒なのでノマステだ。しかし、ほとんどがイスラム教徒のバングラデッシュだからサラームが多い。
デリップ家ではノマステというと、違うといわれた。その人は近所の人でサラームだった。それで次の人もサラームというとこんどはノマステと手をあわされた。
デリップさんはカーストでいうと上から二番目なので当地の名士なのだ。
だから庭に出て立っていると、イスをもってきてくれるひとがいた。すわるとうちわであおいでくれた。
食事がはじまるという。
井戸水のところで手を洗うと、誰かが水をだしてくれて、洗い終わると誰かがタオルを差し出してくれた。この手動ポンプ式の井戸は見覚えがある。
食事というとみがまえてしまう。
というのも、バングラデッシュに来る前に聞かされた話がこうだ。
下痢、食あたり、コレラ、マラリア、そして肝炎。水が悪いのですぐ感染するのだそうだ。デリップさんに聞くと心配ないという。
バングラデッシュのうわさはまだある。空港で荷物をおろしたとたんになくなるといううわさ。
それからガンジス川(ネパール、インド、バングラデッシュにまたがる)には死体が浮かんでいる。
これらの噂をバングラ三大話と名付けたが、とりあえず空港の話は嘘のようだった。
本屋にいってバングラデッシュの観光案内を探したが一冊もなかった。観光ルートから国ごとはずれているのだ。したがって、噂話しか情報の収拾方法はない。あとインターネットで検索してみたが大した情報は得られなかった。
さて目の前の食事のことである。
おいしそうなカレーがでてきた。バングラデッシュカレーである。
鳥肉と液状のカレー。日本のカレーとはもちろん全然違う。
料理はデリップさんの妹のチョンドナさんが作ってくれた。車で八時間はなれたチッタガングからわざわざこのためにきてくれたという。ふっくらしてとても美しいひとだ。だんなさんはとてもハンサムだときいた。
うまいうまいを連発して返礼した。実際うまかったので何ら演技力は要しなかった。おまけにカレーは大好物なのだ。
そのうち手でたべてみようと思った。みるみるうちに右手は黄色くなりご飯が付着したが、みなよろこんでくれた。日本人向けにチリ(唐芥子)はいれなかったという。
デザートはミルクの固まり、黄色いヨーグルト、西瓜やよくわからないフルーツ。
デリップさんの弟のシュジにはブーメランをプレゼントしたので、それを外庭で実演してみた。ブーメランは鋭いカーブを描いてもどってくる、はずだった。二十数メートルもあろうかという大木のてっぺんまでいってそこにのっかってしまった。
見ていた村人もあーあっていう顔をしている。
いーよいーよ 次の台風にはおちてくるよ
すると村の木登り名人を誰かがつれてきた。
あぶないからよしてくれ、と言ったがきかない。
名人はとなりの椰子の木をするすると登ったとおもうとその大木にうつり、登っていった。大木にうつると、こんどはどの枝にブーメランがあるのか彼には見えないらしい。村人は下からあっちだこっちだという。岡目八目である。しかしどうも村人によっての方針が違うらしい。そしてとうとう二十メートル登ってしまってブーメランをとってくれた。
木陰ですずんでいると蚊もいないし気持ちのよい風が快適度百パーセントだ。
そのまわりを村人が取り囲む。村人の質問攻めがはじまった。デリップさんが通訳する。
あなたの宗教はなにか
日本に川はあるか
バングラデッシュをどうおもうか
・・・
かわいい質問がとめどもなく続く。
そして答える。
答えながら思った。この人達こんな昼間の三時から仕事はしないんだろうか。
一人にきくと、もう終わったといい、これからだという人もいた。
女性もときどき後のほうから見ている。視線をむけると恥ずかしそうに去っていく。
子供が風上に立つと大人は容赦なく怒る。子供は誰も口答えせず、素直にきく。
ここでは子供も動物もみな従順と言うか、上下関係をしっかりわきまえている。犬はみな放し飼いだがぜんぜんほえないし、近づくとどうもどうもと頭を下げるような気もする。カーストは動物にも適用されているのだろうか。
今度はこっちが質問する番だ。
仕事はしないのか
嫁さん何人いるのか
どうやってあつかってるのか
・・・
バングラデッシュにはほとんど山がない。ガンジス川の河口の国で雨期には国土の三分の二が洪水で没することもあるという。だから肥沃な大地がありながら米が足りないという。治水に成功すればとんでもない可能性を秘めている国なのだが。
デリップさんにこのくにはのどかで平和だねと言った。
すると彼は真顔で、それは昼間だけと言った。
彼の家はたびたび襲撃にあっている。盗みである。
デリップさんはつくづくうんざりだという顔をしていた。両親を国にのこして日本にきている長男としては心配なんだろう。
バングラデッシュの国旗は日本と似ている。丸の背景が緑色なのだ。だが、その赤い丸の意味は血の色だと言う。独立のときに流された多くの人の血の色なのだ。
男たちの深刻な顔が妙に重なった。
デリップさんにエタキというベンガル語をきいた。これなに?という意味だ。
これさえしっていれば語意がふえるからだ。
子供たちに向かって天を指差して エタキ?と言ってみた。
アカシ
と、いった。そうか天はアカシか。
地面を指差して エタキ?ときいた。
マティ
といった。だれかが マティ・カティと言った。デリップさんにどういういみかきくと深い意味があるとだけいった。
それからおりにつけ マティ・カティというと皆よろこぶし、うっとりとする者もいた。どんな意味だろう。
マイメンシンに戻ってデリップさんの叔父さんの家にいった。大学の国語の先生だと言う。人のよさそうな口ひげをつけたおじさんだった。バングラデッシュでは叔父さんのことをママという。そういえばこういうおじさん日本でもいる。近所の酒好きの世話やきさんである。ここでは酒はみな飲まないが、大変なお人好しであることはあとでわかった。娘のトゥリさんはとてもかわいい高校生なのだ。
その家でも食事がでた。が、もう腹は限界だった。これ以上食べられない。でも
カベナ(食べな)
といわれたのでお菓子だけつまんだ。超甘い。
マイメンンシンのホテルにかえって痒いベッドでねた。
四月三〇日
毎日良い天気にめぐまれている。デリップさんとその弟のシュジが今日の予定をそつなくきめてくれる。とてもてきぱきとうごいてくれるのだ。その予定はそのとおりなったこともないが、頭が下がる。
こんな法則を考えた。
「バングラデッシュでは予定はおくれる。なぜなら、あなたは待ち合わせ場所に予定の時刻に到着できない。もし運よく到着できたとしても、相手はそこに到着していない」
その日はリコンファーム(飛行機の予約確認)と日本の家族に電話をかけることにした。
町でおそらくただ一つの公衆電話まで行き、電話をかけるが通じない。
電話は通じるものという、固定観念をもっていたことにきがついた。
そのうち電話ボックスの外に行列ができはじめる。
ぐずぐずしていると、一人が中にはいってきた。こうだ、といわんばかりに日本への番号をプッシュしてくれはじめた。それでも通じない。するともう一人がはいってきた。それでも通じなかった。もう一人がはいってきたとき、とうとう電話ボックスからおしだされてしまった。本人は外で無関係の者がボックスの中でああだこうだと話し合っていた。
結局そこで半日すぎてしまった。リコンファームはとうとうできなかったので後日となった。
電話ボックスのさわぎをよそに、牛が日差しをあびてゆったりと歩き、ジャックフルーツとよばれる巨大な果物のなる木があった。地面には木の影ができ日向との明暗が鮮明にでていた。七才ぐらいの女の子がこっちをみていた。おいでというと家の中にはいってしまった。とてもかわいい目のくりくりしたこだった。子供は世界中どこへいってもかわいいのかもしれない。
今日は買い物だ。
服をもってこなかったので、軽い服装をかいたかった。
こちらでは男でもスカートみたいのをはいている人が多い。あれはいいので買った。値切るのは苦手なので高いか安いかしらないが三百円ぐらいだった。インド人がよく着ている上着もそのぐらいだった。草履も買った。シャツは日本製だからお勧めだといわれたのでやめた。ここにもママがでてきていろいろやってくれた。娘さんのトゥリさんも容子さんにつきそっていろいろとアドバイスしていた。サリーを買った。
喉がかわいたので水をのみたかったががまんした。ミネラルウォーターがなかったからだ。コーラでものみたいと思った。
ある店にはいると、いらっしゃい どうぞどうぞ、と日本語で言われたのでみなおどろいた。聞くと、いっくらびっくらにいたという。
どこだろうとデリップさんが考えているうちに笑い出した。池袋のことじゃないかという。その人はエレベータの仕事をしていたらしい。日本人とみて懐かしくなって声をかけてきた。そしてどこからかなんとコーラを買ってきて飲めとさしだしてきた。さっきコーラがほしいと思ったばっかりだったのでうれしかった。
その人は日本大好きという。・・・よかった。
バングラデッシュはどう思うか聞かれた。
商店街は人が多く活気があった。
立ち止まるとまわりに人が集まってくるのでよく歩いた。
生きている。というだけで感動できる素敵な街だ。
ガンジス川につれてってくれ、とデリップさんに頼んだ。
すぐ近くにあるのだ。バングラ三大話の一つ、ガンジス川に浮かぶ死体を確かめたかったからだ。
ガンジス川はブランマプトラとバングラデッシュではよばれている。ヒンズーの神ブラフマンの子という意味らしい。
とうとうと流れる大河だった。土を含んで透明度はなかった。美しいというより頼れるという感じだ。
これがあのガンジス川か
死体などどこにもないではないか
聞くと、たまに流れてくるという。みなくてよかったと思った。
その日の晩はデリップさんのまた違う叔父さんの家にいった。
その人は教員で芸術家だった。油絵とベンガル音楽をたしなんだ。
叔父さんはタゴールの詩を歌いながらどうだ、というカメラ目線をした。デリップさんがタゴールの話をしだしたらとまらなくなった。デリップさんだけじゃない。みなタゴールの話をするときはとまらなくなる。詩を愛する国民のようだ。
おかえしにソーラン節を歌った。日本の誇る民謡なのだ。恥だったろうか。
そのあと、
宗教は何か
バングラデッシュをどう思うか
質問された。
・・・
なんだかバングラデッシュにきて病気どころか元気になってきたようなきがした。
興奮しているのだろうか。とりあえず、蚊帳をつってねた。
五月一日
地方紙の編集をしている人の家によった。それからお人好しママ(叔父)の弟の家にいくことになった。
当然、ママもトゥリもついてくる。
ママによく似た弟ママと肝っ玉かあさんがでてきた。
親戚ばかりなので誰が誰だかわからなくなってきた。
ここでは歌や踊りが披露された。宗教を越えての音楽サークルのようなものが地域にあるそうだ。いかにもインド的なマイナーで神秘的な曲がみごとな太鼓とアコーディオンのような楽器さばきによってうたわれていた。
インド五千年の歴史が脈脈といきづいていた。
タゴールの曲が多かったが、どれも同じ曲のようなきがした。窓から村人の深刻な眼差しがあった。
この村人のほうがデリップさんの村よりも品があるような気がした。
庭でひと休みしているとまたイスがだされ、人があつまってくる。どうせ何かききたいんだろうと、こっちから質問ある?とさしむけた。
宗教はなにか
バングラデッシュはどう思うか
給料はいくらか
・・・
デリップさんにこういった。
「これは翻訳しないでほしいんだけど。この国に足りないものはない。援助もいらない。才能もある。資源もある。勤勉さもある。ハートもある。ただ、いらないものがあるんじゃない? それは言えないけど。それがなければ発展するだろうね。でも、ここはこのままとっておいてほしいな。こんな面白い国ほかにないもの」
と、勝手なことを言った。
デリップさんは賢い人だから、言う意味はすぐわかってくれた。
身勝手ついでに詩をつくってデリップさんにベンガル語に翻訳してもらった。
トゥリに見てもらったら、素敵だといってくれた。
たったそれだけのことだったが、大きな意味があった。はじめてバングラデッシュ人と心が通じたような気がした。バングラデッシュ人も同じハートなんだとふとおもった。
トゥリは感受性の豊かな娘なのだった。
トゥリありがとう。
夕日がまさに沈もうとしていた。
椰子の木の間に光るまるい太陽は、おそらく気の遠くなるような回数だけこの光景をみせてくれたのだろう。
頭上には月があった。デリップさんは日本で寂しくなると月を見てはお国を思い出したという。なるほど月は同じだ。
同じ月を見ては、ある国民は炭坑節をうたい、又ある国民はムーンリバーをうたい、バングラデッシュ人はタゴールの詩を口ずさむ。編集が違うのだ。
ホテルに戻るとき、静かな稲妻がとてもきれいだった。下に落ちない稲妻なんてはじめてみた。稲妻がループを描くようにもとに戻っていた。
水しかでないシャワーを浴びていると途中でとまったので、そのまま足を掻きながらねた。
五月二日
象がいたので鼻と握手した。サーカスの一団だそうだ。あとで背中にのせてやる、といわれたので期待したが雨でながれた。
この日もデリップさんの違う叔父さんの家。
いったい何人の叔父さんがいるんだろ
このひとは大学の国語の教授で有名な人だそうだ。口数が少なく気品のある人だった。カレーを食べた。日本に来たことがあるという人が遊びに来てカラオケやお酒の話、いろいろともりあがった。
ここではじめて洋式のトイレをみた。
バングラデッシュでは水洗トイレである。手動というか、桶に水をすくって流す。
排泄物はトイレから出ていくがどこへいくのかよくわからない。下水はなさそうだった。ともかく視界の外へでていった。
それにしてもデリップさんの親戚は先生ばっかりじゃないか
そういうと、デリップさんはヒンズー教徒が生き延びる道だという。
この国はイスラム教の国だからだそうだ。
帰りに叔父さんから著書をもらったがベンガル語なのでなにがかいてあるのかわからない。
デリップさんの村にいき、デリップさんの両親と別れを告げた。
デリップさんのお母さんは涙をためていた。
「もっと料理をつくってあげたかった。あなたたちがいるので息子が日本にいるのは心配無いがもっと長くいてほしかった」
村の九十才になる古老もデリップのために涙を流していた。彼は宗教は違うがとても良い人だそうだ。デリップさんが次に帰郷したときに会えるだろうか、と心配していた。
こちらも思わずもらいなきしそうになった。
デリップさんはホテルへいくみちすがら一言も口をきかなかった。
わかるよ 母親のああいうのってこたえるよな
マティ・カティの意味をデリップさんに聞いてみた。
直訳すると大地純粋という意味だそうだ。大地に唾を吐きかけても大地は文句も言わずにそれを純粋なものにしてゆくという意味だろうか。マ・カティともいうそうだ。マ(お母さん)も大地のように大きく受け止めてくれる存在なのだろう。
デリップさんとは五年ぐらいの付き合いだ。
日本でバスに偶然となりに座ったことから知り合った。すぐに胸襟を開き、ときどき逢った。いつもきまってカレーを食べながら話をした。それでとうとうバングラデッシュまできてしまった。
夜道を歩いていると前方に穴が開いていた。集まってきた人達も危ない危ないといって、まわりからひっぱってくれた。あまりあちこちから引っ張られるのでコントロールを失ってどんどん穴に近付き、とうとう穴にはいってしまった。皆、だからいっただろという顔をしてこっちを見ている。
その晩またデリップさんの妹のだんなさんのションコール家でもてなされて、カレーを食べた。
お父さんがでてきて言った。
宗教は何か
バングラデッシュをどうおもうか
シュジや親戚の人からシャツをもらった。シャツを買いそびれていたのでうれしかった。これで明日着るものができた。コーラといい、シャツといい、思ったものがすぐ手にはいる。不思議の国バングラデッシュ。おまけにこの旅ときたらいたれりつくせりだ。
ホテルに帰る車にのっていたら、人力車に追突した。大したことはなかったが、両者大声でなにか言い合っている。そしてそのまま通り過ぎていった。
シャワーを浴びている最中にまた水がとまったので石けんがついたままベッドに入ってねた。
五月三日
首都ダッカにむけて出発
ホテルにはお人好しママやシュジやみんなきてくれた。
この人達仕事どうなってるんだろうか
道には事故で大破したバスがころがっている。
ダッカにちかづくにつれて排気ガスの臭いが強くなっていった。
国会議事堂、博物館を見学。
花を売る少年がしつこくつきまといとうとう根負けしてションコールが買ってしまった。
そして、デリップさんの親戚を訪問した。
偉い技術者というおじさんがあらわれて言った。
宗教はなにか
「日本人には難しい質問です。例えば、一二月二四日にはクリスマスを祝い、一二月三一日にはお寺で除夜の鐘をついて、次の日はもう神社におまいりにいきます。多くの場合、宗教はミックスされています。」
・・・
バングラデッシュをどうおもうか
「はっきりいって貧困です。こんなこと言ってごめんなさい。でも日本が忘れたゆとりがあります。日本と何もかも違います。でも同じハートをもっています。」
・・・
今度母親といっしょに来なさい。一ヶ月ぐらいいなさい。
病気にもならずに旅は終わった。バングラ三大話は何一つ実現しなかったことになる。デリップさんによればそれはまんざらうそでなくありうるから要注意とのことだった。
この旅ではデリップさんにはいろいろと教えられた。バングラデッシュのこと、人生のこと・・・ 年下だけど偉い人だと思った。将来バングラデッシュを背負って立つ一人になるだろう。
空港にはお人好しママやションコール、シュジが見送りに来てくれた。
ションコールはもう目に涙をためている。
こちらもシュジを弟のように思えて、ドンノバ(ありがとう)と言った。シュジはゴッド・ブレス・ユーと言った。
いつかまた会おう
五月四日
帰りの飛行機の中で初めて飛行機に乗ったと言うバングラデッシュ人が何度もスチュワーデスをボタンで呼び出していた。八回目には無視されていた。
乗り継ぎのシンガポール空港は大きくて美しい空港だった。中では生演奏もしていて、パッフェルベルのカノンを演奏していた。
旅のいろんな思い出がでてきて熱いものがこみあげ、思わず吹き抜けの二階からだったが拍手をしてしまった。演奏者も旅先で出会った人もみな外国の人だったが、みんないっしょだと思ったのだ。
不意の拍手で演奏者は二階にもわざわざむきなおっておじぎしてくれた。
いいぞバイオリンのおねえちゃん
五月五日
日本について風呂に入って寝た。