僕は花が好きです!
 男でありながら、このような発言するのは照れがあり、とても恥ずかしいのですが、花が好きという気持ちに男も女も関係ありませんし、今はこの気持ちを隠すよりも素直に表現したいと思っています。
 花が好きと言っても、花の名前に詳しかったり、花言葉を知っていたりするわけではありません。花が好きな理由は、気品ある花も道端に咲く雑草の花でも、様々な色や形、香りで僕の心を和ませてくれるからです。しかし、これは今だからこそ言える言葉で、以前の僕には花を見て心が和むという事はありませんでした。
 交通事故に遭い、入院をすると、たくさんの友達が花を持ってお見舞いに来てくれました。その花を見て、
「ありがとう。きれいな花だね」
と言っていましたが、本当はどんなにきれいな花を見ても、当時の僕に花の美しさなど理解する事は出来ませんでした。
 「一生車椅子です」と告知をされると、僕は悲しみのどん底に突き落とされ、同時に花を見る目も変わりました。花はすぐに枯れていきます。僕は花の美しさを感じないばかりか、その枯れていく姿を醜くいと感じ、まるで自分の姿を見ているかのような錯覚を起こしました。
 障害者になってしまった悲しみと、たくさんのつらい治療を受け、次第に「僕は世界一の不幸者」だと思うようになりました。今から思えば、常に両親がそばにいてくれた事や友達がいてくれた事がしあわせでしたが、その当時は全てが不幸に思え、何一つしあわせだと思えるものがありませんでした。
 ところが、それから数年が経ち、少しずつ障害を受け入れる事が出来るようになると、道端に咲く小さな花に目が留まりました。それまでは道端を見渡してみても生えているのは雑草ばかりですし、落ちているのはマナーの悪い人が放置した空き缶や犬のウンチばかりでしたので、とても道端に目を向けようとはしませんでした。しかし、ある時、空き缶のそばに、犬のウンチのそばに水色のちっちゃな花が咲いている事に気付いたのです。
「お前、何でこんな所に咲いているの?」
 汚染された場所に咲いていたからこそ、余計に可愛く、けな気に見えたのかもしれません。
「お前はこんな環境の中でも、負けずに自分を美しく咲かせる事が出来るんだな」
 このちっちゃな花から、とても大切な事を教わったような気がしました。すると、とても元気が湧いてきたのです。そして何よりうれしかった事は、このちっちゃな花を見て、可愛いと思えた事でした。
 僕は入院中の事を思い出しました。それはまだ「一生車椅子です」と告知をされる前の、浦和の病院に入院している時の事でした。
 病院の敷地内には桜の木がたくさんあり、花が咲き始めると、看護婦さんや友達、両親が桜を見に行こうと誘ってくれました。その時、首の固定手術から1ヶ月が経ち、車椅子には乗れるようになっていましたが、首を固定するハローベストという大袈裟な器具を着けており、また、車椅子に乗っている姿を人に見られたくないという時期でしたので、みんなからの誘いを断りました。それでもみんなは桜を見れば心が和むと言って、執拗に誘ったのです。僕が誘いを断っていると、今日で見頃が終わりだろうという日に、母が鏡を持って来て、窓の外に咲く桜を見せようとしてくれました。しかし、僕はベッドに横になっていましたので、よく見る事が出来ませんでした。しかも、ハローベストという器具を着け、首を動かす事が出来ませんでしたので、角度的に1枚の鏡では足りませんでした。すぐに僕は見る事をあきらめましたが、母はあきらめようとはしませんでした。そして2枚の鏡を持って来て、合わせ鏡にして見せてくれたのです。
 鏡の中に映った光景は、春の風に舞う桜吹雪でした。暗い病室の中で、鏡の中だけはまるで別世界を思わせるような美しさで、閉ざしていた僕の心でさえ感動させました。時間を忘れて見ていると、次第に鏡を持つ母の手が震え始めました。しかし、それでも母は何度も何度も手を休めては僕に桜を見せてくれました。
 母のお陰で、僕は心を和ませる事が出来ました。そして僕の為にそこまでしてくれた母のやさしさを嬉しく感じ、美しい桜を見せたいと、僕を誘ってくれた友達、看護婦さんのやさしさを嬉しく感じました。この時、みんなのやさしい気持ちを動かしたのは、桜が持つ美しさだったのです。
 人の心でさえ動かしてしまう桜はすごい力を持っていると思います。しかし、その力は桜だけに限らず、どんな花でも持っているのです。コンクリートジャングルと呼ばれる都会で、コンクリートとコンクリートのわずかな隙間に根を張り、花を咲かせている名も知らぬ花もそうです。きっと誰かに見てもらいたくて咲いているに違いありませんが、行き交う人達は忙しさのあまり誰もその花に気付きません。いつ踏まれるかも分からず、都会の冷たい風に揺られ、それでもきれいな花を咲かせているその力強さ、けな気な姿は見た人達の心を感動させるはずです。
 僕は今、花を見て美しいと感じたり、元気が出たりします。それは人として当たり前の感情かもしれませんが、今の世の中では日常の忙しさやストレスなどが原因で、この当たり前の感情を失いがちだと思うのです。僕も入院をしていた時、病気のストレスが原因で花を見て美しいと感じず、「枯れて行く花は醜いから嫌いだ」とセンチメンタルな事を言っていました。しかし、花が醜かったのではなく、本当は僕の心が醜かったのです。
 このように当たり前の感情を失いがちな世の中で、花を見て美しいと感じる事が出来る事をとてもうれしく思います。これはどれほど大切で、どれほどしあわせな事でしょう。僕は今の気持ちを忘れずに、これからも花を見て美しいと思える心、感動する心、元気になれる心を大切にしていきたいと思っています。

 花の存在って何なのでしょうか?
 何の為に咲いているのでしょうか?
 その答えは、僕には分かりませんが、花が人の心を和ませ、やさしくし、元気を与えている事だけは、僕にもはっきりと分かります。

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