僕の夢は作家になる事!
 長年の作家になる夢は、2002年5月に「やさしい風になれたら」(樹心社)を出版した事によって叶いました。しかし、僕の夢はこれで終わったわけではありません。書きたい事はまだまだありますし、もっともっとたくさんの方に読んで頂きたいと願っています。そして欲張りな僕の新たな夢は・・・。

 作家になりたいと思った動機は自分の生きた証を残したいという気持ちから始まりました。この話は、「やさしい風になれたら」の中で書いた「プライド」という原稿に関係しています。内容は、「働けなくなり、人の役に立てなくなってしまったばかりか、生きているだけで迷惑ばかりを掛けてしまう僕の存在価値って何だろう?」と悩むところから始まります。そして数年後、友達から言われた一言で、自分自身の存在価値を見付けるまでのお話です。
 自分自身の存在価値について悩み始めたのは、事故から2年が経った昭和63年の頃でした。毎日ベッドの上にいて、何もせずにただボケーッと過ごしていると、僕はこんな事をしていても良いのだろうかと不安になりました。社会はみんなが参加をして成り立っています。1人1人の力は限りなく小さく、僕1人が欠けようと何の影響も及びません。しかし、だからと言って、「僕の身体は不自由だから社会に参加出来なくても仕方ない」とは考えられず、どんな形でも良いですから社会と関わりたいと考えていました。しかし、いくら考えてもその方法が見付からず、次第に心が追い詰められていきました。この気持ちを両親や友達に話しましたが、返って来る言葉はどれも同じでした。
「身体が不自由なのだから仕方ないよ」
 僕が社会に参加できない事を誰も責めず、逆にやさしく慰めてくれました。きっと両親や友達以外の人達も同じように答えてくれたと思います。しかし、心に余裕が無い僕はみんなのやさしさを素直に受け入れる事が出来ず、「お前はもう必要のない人間だ」と言われているように感じていました。勝手な言い分だと思いますが、「ベッドの上にいたって、出来る仕事は何かあるだろ。いつまでも甘えてんじゃねぇよ!」ときびしく言われた方が、どんなに気が楽だっただろうと思います。きっとそう言われたら言われたで傷付いていたと思いますが。
 僕がどんなに悩もうと泣こうと、社会は何事も無いように動いていました。社会が変わらない事は当たり前の事ですが、この当たり前の事さえ僕には不思議に感じ、理解出来ませんでした。「僕がこんなに苦しんでいるのに何故、社会は何事も無いように動いているの? 僕はここにいるんだよ。僕の事を忘れないで!」と心の中で叫びました。僕はいつか死にます。その時こそ本当に忘れ去られてしまうでしょう。死んで忘れ去られていく事は僕だけに限らず、障害を持たない皆さんも同じかもしれません。しかし、僕と皆さんの違いは仕事をした満足感・充実感の違いです。確かに仕事を遣り残して亡くなっていく方もいらっしゃるでしょう。例えそうだとしても皆さんは社会に参加していたわけです。その点で僕と皆さんは根本的に違うのです。僕はこのまま忘れ去られてしまうのは悲し過ぎると思いました。社会に参加できず、仕事をした満足感・充実感を得られないのでしたら、その代わりに僕がこの世に生きた証を残したいと思うようになりました。
 生きた証を残そうと思い立ったものの、身体に障害がある僕に何が出来るだろうと思いました。この生きた証を残そうと思い立った事が、後に「やさしい風になれたら」の出版へ繋がったわけですが、今から考えてみますと、社会に参加する事よりも遥かに難しい事でした。しかし、この当時は無我夢中でそんな事にも気付きませんでした。
 僕が考えた事はどれも否定的な事ばかりでした。この当時は僕の人生は終わってしまったものだと考えていた為、命が惜しいとは微塵も思わず、最後に一花咲かす事が出来れば、例え命と引き換えになったとしても本望だと考えていました。例えば車椅子で電車に飛び込めば、次の日の新聞にその記事が載ります。そうすれば新聞を読んで下さった人達に僕の存在をアピールする事が出来ます。また、その記事は新聞社や図書館などで永久的に保存されます。そう思うと心が躍り、想像が次から次へと膨らみました。遺体は写し出されていなくても、停止している電車のそばには変形した僕の車椅子が写り、その悲惨さを物語ります。また、動かない手に刃物を握り、銀行強盗かハイジャックを行い、その場面の写真が載り、見出しには、「凶悪犯人はハイジャック事件史上初の頚髄損傷者」や「身体障害者の中で最も極悪な人物が現る」と、歴史に残るような事件を想像しました。しかし、現実には僕が刃物を持って、「金を出せ!」と凄んでも、恐れられるどころか、いとも簡単に刃物を奪われ、「どうしてこんな馬鹿な事をするのですか?」と、逆に人を哀れむような顔で同情されてしまうのが落ちです。そのどれもがあまりにも愚かな発想で生きた証を残せるようなものではありませんでした。
 そのようなくだらない事ばかりを考えていたある日の事でした。友達に手紙を書いていると、ふと本の出版を思い付きました。やり取りをしていた手紙の内容から、「障害者になってから経験した事を本にでもまとめてみるか」と冗談で書いた事がきっかけでした。
 この時、僕はワープロを使い、手紙を書いていました。それまで全身が麻痺をしている事で、僕には働く手段が無いと思い込んでいましたが、ワープロを使えば手紙だけではなく原稿も書く事が出来ると気付きました。原稿を書き貯めれば1冊の本が完成し、生きた証を残す事が出来ます。それに気付いた時、目の前に大きな目標が現れ、それが輝いているように見えました。こうして本の出版が僕にとっての大きな夢となったのです。
 早速、原稿を書き始めました。しかし、3日もすると頭痛が起こり始め、熱が出てしまいました。1週間ほど休み、体調が良くなったところで再び書き始めましたが、すぐにまた頭痛と発熱を引き起こしダウンしてしまいました。このような事が何度も繰り返し起こり、なかなか原稿を書き進める事が出来ませんでしたが、ある程度書いたところで、文章を読み返してみると、これがまた自分でも情けなくなるほど下手な文章でした。今でも文書は下手ですが、この頃の文章は特に表現力に欠け、とても20歳を過ぎた大人が書いたものとは思えないほど幼稚なものでした。
 中学生の頃から本を読む事が好きになり、寝る前や学校の休み時間、会社へ通う電車の中でも読んでいましたが、僕は元々文系ではなく理系でしたので、文章を書く事は苦手で、確率の計算をしている方が好きでした。子供の頃の僕は作文の時間が大嫌いで、クラスの新聞係などになってしまった日には最悪な気分でした。決して職業差別をするつもりはありませんが、新聞記者や小説家は何が楽しくて、その職業に就くのだろうといつも不思議に思っていました。もし、タイムマシーンで実際にあり、子供時代の僕に会いに行って、「将来、君は本を出版するんだよ」などと話したら、きっとショックを受け、将来を絶望視してしまうに違いありません。このような僕が文章を書くのですから、上手く書けないのも当然でした。
 原稿は書き始めたものの、出来る事ならば別の形で生きた証を残したいというのが本音でした。しかし、僕には作家の道しかないと思い、作家を志す決意をしたのです。
 いきなり文章を上手く書くのは無理だと判断した僕は勉強する事にしました。勉強と言いましても塾に通えるわけでもなく、通信教育がどのような事かも分かりませんでしたので、ただ単にたくさんの本や雑誌を読み、書き手の書き方を学ぶという自己流のやり方でした。
 勉強の為に本を読んでいますと、それがいつの間にか癖になり、気分転換や趣味で読む時でも書き方を研究しながら読むようになりました。以前は内容だけを楽しんで読んでいましたが、書き方を研究しながら読んでいますと、書き方と内容の両方で楽しめるようになりました。自分の事は棚に上げ、生意気な事を書きますが、例えばせっかく内容が面白いのに書き方が下手だとか、書き方は上手いけれど内容が面白くないとか、両方とも上手だとか、下手だとか感じました。また、次第に書き手の心理も読めるようになり、話の展開が読めるようになりました。すると、そこでまた新たな楽しみが見付かりました。それは話の展開のきっかけとなるふりを読み、展開(落ち)を少し挑発的に予想します。そして読み進め、書き手が書いた話の展開と比べ、予想通りだったり、予想以下の展開だったりした場合は僕の勝ちとなり、逆に予想以上の展開だった場合は書き手の勝ちとなります。ほとんどの場合は僕が負けてしまうのですが、これは本を読む時の楽しみの1つとなり、何より書き手に勝ったと思えた時の快感が堪りませんでした。このような事をしていましたら、自然と僕の中にも話のネタが増え、物語を創造出来るようになりました。その創造した物語は誰のものでもありません。僕が生み出したものですから、それを作品として書き上げてみたいという感情が湧き始めました。本や雑誌で書き手の書き方を学ぶ事も勉強になりますが、書くという事も大切な勉強です。とりあえず書いてみようと思いました。
 創造した物語を改めて書くとなると大変な作業となりましたが、そこには楽しさがありました。そして書き上がると、とても下手くそな文章でも人に読んでもらいたい。評価してもらいたいと思いました。最初は友達に読んでもらったりしていましたが、次第に短編小説コンクールや作文コンクールなどがありますと、積極的に参加するようになりました。しかし、僕が書く文章は下手くそなものばかりでしたので、入賞をしたのは平成5年に小作文コンクールで銅賞を獲った時の1度だけでした。それ以外は何度参加をしても落選するばかりでした。創造する楽しさはありましたが、やはり落選ばかりが続き、年月が経ちますと文章力が無い事を身にしみて感じるようになりました。そして少しずつですが、僕の文章力では作家になる夢など叶うわけがないとあきらめるようになってしまいました。
 次第に本も読まなくなり、原稿も書かなくなっていきました。しかし、ここで再び作家を志すきっかけとなる出来事が起こりました。それは自分自身の存在価値に悩んでいた僕に友達が発した一言でした。
「千代さんの笑顔が元気をくれる」
 僕が重い障害を持ちながらも笑顔で頑張っていると、友達は自分の悩みなど小さく思え、「千代さんが笑顔で頑張っているのだから、僕も負けずに頑張ろう」と元気が出ると言うのです。
 僕はそれまで人の役に立つ事が出来ないと、自分自身の存在価値について悩んでいましたので、僕にも人を元気にさせる力があるんだと教えてもらい、生きていて本当に良かったと思いました。そして冷えていた心が温まるのを感じました。僕は体が不自由になってしまいましたが、その代わりに人を元気にさせる力を授かったのです。これからは1人でも多くの人達を元気にさせたいと思うようになりました。そしてその時、本の出版が再び頭に浮かびました。僕が本を出版する事が出来たら全国の書店に並びます。そうすれば全国で僕の本を読んで下さったたくさんの人達を元気にさせる事が出来ます。今までは生きた証を残したいという気持ちで作家になる事を夢見て来ましたが、この時からは全国のたくさんの人達を元気付けたいという事が僕の新たな夢となり、再び作家になりたいと思いました。
 改めて作家になる為の勉強を始めました。以前のように本を読み、原稿を書いてはコンクールに参加をしたのです。相変わらず落選ばかりが続きましたが、以前のようにあきらめる事はありませんでした。また、それまでは小説や笑い話ばかりを書いていましたので、作家になる時は小説家でデビューしたいと考えていましたが、全国の人達を元気付けたいという想いが芽生えてからは、小説ではなく、僕がそれまで障害者として経験してきた事を文章にまとめたエッセイにしようと考えが変わりました。それは決して小説がダメというわけではありませんが、友達が僕の笑顔で元気になれたように、全国の人達にも僕の長くつらかった障害者としての経験を読んでもらい元気になって欲しいと思ったからです。また、もし、この時点で小説を書く考えを押し通してしまったら、僕の障害者としての人生を否定してしまうような気がして嫌だったのです。上手く表現が出来ませんが、この時が障害者としての自分を受け入れるチャンスだと気付いたのだと思います。
 その後、毎年のように1月1日には、「今年こそ本を出版する」と目標を立てました。しかし、その気持ちとは裏腹に実現する事がありませんでした。そんなある日、たまたま読んだ本で衝撃的な事実を知らされる事になりました。
「今の時代は不景気で本が売れず、それに反比例して作家志望者だけは年々増えている。このような現状で作家になれる人はほんの一握りであり、その中でも作家として食べていける人は極めて少ない」
 本来でしたら、自分から出版社へ出向き交渉するぐらいの行動力がなければいけないと思いますが、文章力に自信がない僕は今の現状を知り更に自信を失いました。とても出版社へ行き、直談判をするような真似は出来ませんでした。
 そんな僕にチャンスが訪れました。それは1999年の春の事でした。
「私のホームページで原稿を書いてみない? もしかしたら、ここから千代さんの夢に繋がるかもしれないよ」
 お友達のkakko(山元加津子)さんが、僕の作家になりたいという夢を知り、そうおっしゃって下さったのです。kakkoさんは石川県で養護学校の教員をしています。同時に作家として執筆活動や講演活動などでも活躍されています。kakkoさんのファンは全国にたくさんおり、kakkoさんのホームページにはたくさんの方が訪れます。そのホームページ上で原稿を書かせて頂く事が出来れば、たくさんの方に読んで頂く事が出来、僕にとってはまたとないチャンスでした。
 このチャンスを活かしたいと、原稿を書き始めました。しかし、いくら頑張っても原稿を書く事が出来ませんでした。それまでは小説や笑い話などを書いてきましたが、自分の経験を当時の気持ちを含めて表現しようとすると、それが出来ませんでした。その原因は小説とエッセイの書き方の違いにありました。今まで何人かの人に僕が書いた小説と障害者としての体験を綴ったエッセイ読んで頂きましたが、皆さん、小説とエッセイを書いた人は別人みたいだとおっしゃいます。小説とエッセイは文章という意味では同じですが、書き方は全然違うのです。
 それまで小説や笑い話ばかり書いていた僕は完全に勉強不足でした。その後もどんなに頑張っても原稿が書けませんでした。
「kakkoさん、ごめんなさい。もう少し文章の勉強をしたいので時間をください」
 kakkoさんの好意を無にするようで、とても申し訳なく思いましたが、思い切ってお願いをしてみると、kakkoさんは快く了承して下さいました。
 それからまた勉強を始めました。僕が勉強をしたのは気持ちの表現です。小説でしたら情景や行動から人物の気持ちを読者に創造させるのですが、エッセイとなりますと、自分の言葉で表現しなければなりません。「うれしい」や「かなしい」という気持ちにも、いろいろなうれしさやいろいろな悲しさがあり、それを1つずつ忠実に表現をしていくのですが、それはとても繊細で、言葉の使い方や話の組み立て方を1つ間違えただけでも意味が変わってきてしまうのです。
 1年後の2000年の春、本当はまだ原稿を書く自信がありませんでしたが、ある事がきっかけで書き始める事になりました。そのある事というのは僕に障害があるという事で受けた差別発言でした。その時に受けた悔しさと障害がある僕だってプライドを持って生きているんだという事をkakkoさんに聞いて頂きたくてメールに書きました。すると、自分でも驚くほどその時の気持ちを素直に表現する事が出来たのです。その事が原稿を書く大きな自信へ繋がりました。また、kakkoさんから届いた返事も原稿を書きたい思うきっかけになりました。
 kakkoさんから届いた返事には、最後の方で次のように書かれていました。
「千代さんは他の人に愛とか慈しみとか、それからやさしさだとかそういう感情を心によびおこす魔法をもっておられるのだと思います」
 kakkoさんらしいやさしさ溢れる内容でした。このようなうれしくなるお返事をいただいて、数年前に友達から、「千代さんの笑顔が元気をくれる」と言って頂いた時と同じ喜びを感じました。
 自分の気持ちを素直に表現出来た事と、僕には人を元気にする力以外にもやさしい気持ちを呼び起こす力もあるんだと教えてもらった事が新たな自信へと繋がり、執筆意欲が強く湧いたのです。
 改めてkakkoさんにホームページ上で原稿を書かせて下さいとお願いをしました。こうして2000年4月から原稿を書き始める事が出来たのです。
 最初に書いた原稿は「プライド」でした。原稿を書いたものの、僕の原稿など誰が読んで下さるのだろうと不安がありました。しかし、そんな不安を吹き飛ばすかのように、すぐに福岡県の方から感想のメールが届きました。その後も続々と感想が届き、そこには「感動しました!」、「千代さんの原稿を読むと元気が出ます」、「原稿を読んでやさしい気持ちになりました」とうれしくなる言葉が並んでいました。この時点で本の出版という話はまだありませんでしたが、全国の皆さんから届いたうれしい感想を読み、人を元気付けたり、やさしい気持ちを呼び起こしたりしたいという夢が叶った事を実感しました。
 僕は単純なのかもしれませんが、うれしい感想が届きますと執筆意欲が湧きます。たくさんの皆さんからうれしい感想が届くお陰で原稿を書き続けていますと、2001年の夏にやはり僕の原稿を読んで下さった方からメールが届きました。
「千代さんの原稿はインターネットでしか読めないのですか?」
 確かに僕はホームページ上でしか原稿を発表していませんでした。
「いつかは本を出版したいと考えていますが、今はインターネットでしか発表していません」
「それではパソコンを使えない人は読む事が出来ませんね。それはあまりにも勿体無いので、小冊子を作ってみませんか?」
 その突然の申し出に驚きました。僕の原稿の為に、そこまでおっしゃって下さる方がいるとは夢にも思いませんでした。僕の夢はあくまでも出版社から本を出版し、全国の書店に並べる事です。しかし、例え小冊子だとしても形になるという意味では変わりありません。また、パソコンをお使いにならない方にも読んで頂ける事が何よりもうれしく、小冊子の製作をお願いする事にしました。
 驚きは更に続きました。小冊子は原稿の量が多かった事から2種類製作する事になりました。最初はその2種類の小冊子を30部ずつ製作する予定でしたが、注文を募集した段階で予定数をあっと言う間に超えてしまい、30部ずつが60部ずつに、60部ずつが100部ずつに、最終的には100部ずつが200部ずつにまで変更となりました。その後も注文が殺到し、新たに300部ずつを追加しようという話になりました。しかし、そこで出版社の樹心社から本の出版の話をいただいたのです。
 そのきっかけとなったのはやはりkakkoさんでした。小冊子が完成し、それをkakkoさんへお送りすると、手元へ届いたその日にkakkoさんは偶然にも樹心社の方とお会いする事になっていました。
 kakkoさんからメールが届きました。
「小冊子が届きました。ありがとうございます。でも、この小冊子を出版社の方に読んで頂きたいのでお渡ししようと思います。よろしいですか?」
 ダメなわけがありません。小冊子は改めてkakkoさんへお送りすれば良いですし、何よりkakkoさんの気持ちをうれしく思いました。出版社の方が僕が書いた原稿を相手にして下さるかという不安もありましたが、すぐに、「お願いします」と返事を書きました。
 それから数日が経った真夜中の事です。突然kakkoさんから電話が掛かりました。僕が電話に出ると、kakkoさんはいつも以上に明るい声で、「もしもし」も言わずにいきなり、
「千代さんの原稿を本にして下さるって。バンザ〜イ♪」
と、まるで自分の事のように喜んで下さいました。あまりにも突然の事で実感が湧きませんでしたが、しばらく話していると、右目から涙が一筋こぼれている事に気付きました。
 思い返せば本を出版したいと思ってから長い年月が経っていました。その間、いろいろな事があり、挫折しそうになった事も数えきれないほどありました。しかし、こうして夢を叶える事が出来たのはたくさんの方が僕を支えて下さったお陰です。もし、あの時に友達が、「千代さんの笑顔が元気をくれる」と言ってくれなかったら、もし、kakkoさんが、「私のホームページで原稿を書いてみない?」とおっしゃって下さらなかったら、もし、皆さんがうれしい感想や温かい声援を送って下さらなかったら、僕は夢を叶える事が出来なかったと思います。
 その後、1冊の本を完成させるには小冊子の原稿だけでは足りないという事で、書き足す事になり、その分出版が送れてしまいましたが、2002年5月29日、母の誕生日にようやく本の出版という14年も掛かった長年の夢を実現させる事が出来ました。
 最初にも書きましたが、僕の夢はこれで終わったわけではありません。自分の障害者としての体験を書き続け、1人でも多くの方に僕の本を読んで頂き、その方達を元気付けたり、やさしい気持ちを呼び起こしたりする事がこれからもまだまだ続く夢です。そして新たな夢もあります。それは小説や絵本も書ける作家になる事です。小説は家族愛や友情をテーマにしたものを書きたいと思っています。絵本は大好きな絵本作家のいわむらかずおさんが描く絵本のように温かくユーモア溢れたものを描きたいです。その為にはこれからも勉強を続けていかなければなりません。本を出版する事の難しさを身にしみて感じていますので、勉強をしたところで小説家として、絵本作家としてデビューする事は難しいと分かっていますが、これは僕の夢です。夢を追い続ける事が僕の生き甲斐です。絶対にあきらめたくはないのです。
 僕は夢を実現させる為のコツを知っています。本を出版する事の難しさを経験から学んだように夢を実現させる為のコツも経験から学びました。そのコツとは、「焦らない」、「あきらめない」の2つです。僕はこれからも常に夢を持ち続け、焦らず、あきらめず、いつの日か必ずその夢を実現させたいと思います。

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