人の目

 初めて車椅子に乗ったのは事故から約1ヵ月半が経った時でした。それまで首の骨が折れていましたので、一度も上体を起こす事がありませんでした。その為、車椅子に乗ると言っても、少しでも上体を起こすとすぐに血圧が下がってしまい、車椅子に乗っていられる時間は数十秒、ある時は乗ると同時に降りるという事もありました。何日も何日も掛け、乗っていられる時間を延ばそうと努力しましたが、なかなか思うようにはいきませんでした。病院の先生はそんな様子を見て、病室(個室)の外へ出るように勧めました。気分転換をすれば、少しは車椅子へ乗っていられる時間が延びるだろうと考えたようです。しかし、僕は先生の言う事に素直に従えませんでした。拒む理由を両親や看護婦さん達から問われましたが、答える事が出来ませんでした。簡単に言ってしまえば車椅子に乗っている姿を人に見られる事が嫌だったのです。しかし、僕の心中はそんなに簡単に表現出来るものではありませんでした。事故に遭う前、たくさんの車椅子の人達を街中で見掛けました。その人達を見て可哀想という感情は湧きましたが、決して変な意味での同情をしたり、差別をしたりした事はありません。ですから僕自身も車椅子で人前へ出る事が出来たはずですが、それが出来ませんでした。
 初めて病室から出たのは消灯時間を過ぎた夜中でした。その日は消灯まで知り合いの方(3人)がお見舞いに来て下さっており、話の流れから病室の外へ出る事になってしまいました。最初は消灯を過ぎた時間に病室の外へ出る事など看護婦さんが許可するはずがないとたかをくくり、安心をしていましたが、あっさりと許可が下りてしまい焦りました。そして仕度をする為に現れた看護婦さんの笑顔を見た時はショックでした。本当ならば許可が下りるはずがありませんが、看護婦さん達もまた、僕が病室の外へ出る事を望んでいたのでした。
 病室から出る前に父に1階のロビーまで人がいないかを確認しに行ってもらいました。いないと分かっても安心をする事が出来ず、緊張をしながらロビーへ向かいました。ロビーでは一番薄暗い場所を好み、車椅子を壁側に向けてもらいました。そこで何を話したかを今では覚えていませんが、きっとただの雑談だったと思います。しかし、その雑談も僕の耳には入らず、背中で人の気配ばかりを気にしていました。ロビーにいた時間は20分前後だったようですが、僕には1時間以上にも感じました。病室へ戻って来ると、看護婦さんが驚いたような顔でこんな事を言いました。
「えっ、もう帰ってきたの? もっとゆっくりしてきても良いのに・・・」
 僕がどんな思いをして帰って来たのかも分からず、その無神経な言葉にドッと疲れを感じ、一気に血圧が下がってしまいました。そして薄らいでいく意識の中、急いでベッドへと寝かせてもらいました。
 数ヵ月後、病院での治療を全て終え、所沢のリハビリセンターへ転院しました。病院にいた頃は病室の外へ出る事に抵抗がありましたが、リハビリセンターでは患者さんのほとんどが僕と同じ障害を持ち車椅子を使用していた為、人の目もあまり気にならなくなりました。しかし、それはリハビリセンターの敷地内での話であり、リハビリセンターの外へは相変わらず一歩も出る事が出来ませんでした。
 リハビリは月曜日から金曜日までありました。週末はお休みでしたので、僕は友達と会う為に、毎週のように外泊をしていました。ある金曜日の午後、いつものようにリハビリが終わるとタクシーに乗り、大宮の家へと向かいました。僕の家は小さな住宅地の中にあり、家や畑に囲まれた道を通って家へとたどり着きます。その日は近所のおばさんがたまたま畑で仕事(家庭菜園)をしていました。僕が乗っていたタクシーのデザインは所沢では珍しくありませんが、大宮では見掛けない物でしたので、おばさんもすぐに気付いたようでした。おばさんの横を通り過ぎる時、おばさんの視線を感じました。通り過ぎるとおばさんはタクシーの後方へ位置するので僕の視界からは一度消えましたが、タクシーは僕の家を一度通り越し、その先にある十字路でUターンをしてきます。再びおばさんがタクシーの前方へ見えると、おばさんはこちらをジッと見ていました。タクシーは僕の家の壁にピッタリと付けた為、僕がタクシーから家の中へ抱きかかえられて入って行く姿をおばさんは見る事が出来たかどうかは分かりません。しかし、近所のおばさんですから、僕はそのおばさんの事を子供の頃からよく知っています。そのおばさんは近所の中でも特に人の家の噂話が大好きでしたので、僕の事も興味本位で見ているに違いないと思いました。
 本当にショックを受けたのはその翌週の金曜日でした。この日もいつものようにタクシーで大宮の家へと向かいました。その車中でおばさんの事が頭によぎり、あのおばさんの事ですから、きっと近所中の人達に言いふらし、近所のおばさん達全員で僕を待ち構えているに違いないと思いました。そう思うと急に帰りたくなくなりました。しかし、そんなわがままを言う事も出来ません。せめて日が沈み、辺りが暗くなってから帰り着きたいと思いました。暗くなればおばさん達もあきらめて、それぞれの家へ帰るだろうと思ったからです。その事を父に話してみましたが、父は僕の考え過ぎだと笑いました。そして、
「夕方は主婦にとって1番忙しい時間帯だから誰もいるわけがないよ」
と言いました。そう言われてみればそうかもしれません。確かに僕も神経質になり過ぎていると思いました。
 特に遠回りをしたわけではありませんでしたが、家へ帰り着く頃には日が沈み始めていました。これでおばさん達もいないだろうと思いましたが、タクシーが住宅地へ入ると、僕の悪い予感は的中してしまいました。そこには近所中のおばさん達が勢揃いしていたのです。最初は丸くなって話していましたが、僕が乗ったタクシーを見付けると一斉に視線をこちらへ向けました。僕はどうしようという気持ちと同時に悔しくて、悔しくて、悔しくて・・・。この頃はまだ「一生車椅子の生活です」と告知されたばかりで、人生を悲観していた時期でしたので、その悔しさから、「僕は見せ物じゃないぞ! こんな思いをしてまで生きていなければならないのか。もう死んだ方がマシだ!」と、ただでさえ消えかかっていた「生きる勇気」が消え失せました。そして僕を興味本位で見ているおばさん達に対し、タクシーから飛び降りて文句を言いたい気持ちでいっぱいになりました。
 タクシーは住宅地の中なので、おばさん達の横をゆっくりと通り過ぎて行きました。しかし、いくら僕が怒りをあらわにしても麻痺した体では、ただうつむく事しか出来ませんでした。それがまた歯がゆくて悲しみが増幅しました。うつむいていても、おばさん達がタクシーの中をのぞき込んでいるのが分かりました。タクシーはいつものように家の先の十字路でUターンをしました。再び目の前へ現れたおばさん達は暮れなずむ中、タクシーのヘッドライトを浴び、全員がこちらに体を向けて立っていました。
 家の中へ入り、ベッドの上へ寝かされると涙が溢れ出しました。
「御近所の人達も泰之を心配しているんだよ」
「今日はたまたまみんなで話をしていただけで、泰之を見ようと待ち構えていたんじゃないよ」
 父と母から慰めの言葉を掛けられましたが、どの言葉も慰めにはなりませんでした。
 僕は体が不自由になった事で、こんなにも悔しく悲しい思いをするとは思ってもみませんでした。そしてこの時、僕が異常なまでに人の目を気にしていた理由は、人に見られる事によって傷付く事があるという事を無意識に予測していたのだとはっきり分かりました。
 父や母は街中で会った車椅子の人達の事をよく僕に話してくれました。言いたい事はよく分かりました。「車椅子を使用していても人の目を気にせず、街中を堂々と歩いている人がいる。だから泰之も人の目を気にするな」と言いたかったのだと思います。初めは僕も素直な気持ちで感心をしながら聞いていましたが、近所のおばさん達との事があってからは、父や母が街中で見たという車椅子の人達の気持ちを考えてしまい、父や母に対して怒りが込み上がるようになりました。父と母に悪気が無い事は分かっていましたが、障害者を観察するような真似は二度として欲しくないと思い、執拗に抗議をしました。

 事故の翌年、父が探して来てくれたドクターの治療を受ける為、アメリカ・ロサンゼルスへ向かいました。この時、初めて車椅子で人前へ出ました。飛行場や飛行機の中では、どうしても人目を避けるわけにはいきません。この時ばかりは人目に触れる事、それによって不愉快な思いをするかもしれないという事を覚悟しました。
 飛行機の中では空席がありましたので、僕は4人掛けのシートに横になっていました。いつの間にか離れた場所から男性が僕を見ていたのですが、その服装や雰囲気からパーサーだと思い、特に気には留めませんでした。しかし、しばらくすると父がその男性を追い払ったのです。
「どうして追い払うの? パーサーじゃないの?」
 父は不機嫌そうに首を振りました。覚悟はしていましたが、僕は心のどこかで不愉快な事は起こらないだろうと期待をしていました。裏切られたという気持ちでいっぱいになり、その落胆と込み上がる怒りから、周りにいる人達全てが敵のように思えました。そしてスチュワーデスから受けたやさしさもうれしさからさびしさへ変わりました。
 アメリカへ着いた2日目の夜、ロスでお世話をして下さった伊東さんに連れられ、ダウンタウン・リトルトウキョウにあるお寿司屋さんへ行きました。しかし、僕は人の目が気になり、車から降りる事が出来ず、真っ暗な駐車場で約1時間半、皆の帰りを待ちました。途中で父が様子をうかがいに来てくれましたが、僕は心配を掛けまいとして平静を装いました。しかし、本当は初めて来た異国の地で、しかも真っ暗な場所でおなかを空かせ心細く感じていました。その孤独を紛らわせる為、普段は歌を歌わない僕がその時ばかりは大声で歌いました。歌が終わると、車内がシーンと静まり返り、その静けさがとてもさびしい気持ちにさせるので、数少ない知っている歌を何度も何度も繰り返し歌いました。そして最後にはデタラメな歌を作ってまで歌いました。1人でお茶らけている自分がまたさびしく感じました。
 渡米2週間後に手術を受ける事になりました。しかし、手術台へ乗り麻酔をかけられたものの、メスを入れる場所(首の後ろ)にニキビができていた為、急きょ、中止になってしまいました。その後、ニキビの治療を始めましたが、20歳の僕には時間が掛かる事が予想されました。
 長期でアメリカに滞在する事が決まった為、アパート探しを始め、見付かるまでは伊東さんのお宅にお邪魔する事になりました。伊東さんのお宅は世界一のヨットハーバーで知られるマリナ・デル・レイにありました。伊東さん御夫妻はホテルでお仕事をされており、昼間は家族3人きりになってしまい、いつしか手術の目処が立たないいら立ちや部屋に閉じこもりっきりのストレスから息が詰まるようになりました。父はその状況を嫌い、3人で散歩へ出掛けようと誘いました。僕は人の目が気になりましたが、周りにいる人達は外人ばかりでしたし、知人がいるわけではありませんでしたので、父に誘われるままマリナ・デル・レイのビーチを散歩するようになりました。
 夕方になるとたくさんの船が沖から戻って来ました。波がキラキラと光り、西日を浴びながら戻ってくるその光景はまるで映画のワンシーンを見ているようでした。ビーチでは水着で日焼けをしている人、ローラーブレード、サイクリング、マラソンをしている人がたくさんいました。これぞアメリカと楽しみながら散歩をしていると、遠くから両足義足の男性がマラソンをしながらこちらへ向かってきました。その姿に僕は驚きました。両足が義足でありながらも走っている姿に驚いたのではありません。義足を着けながらも短パン姿という事に驚いたのです。僕は義足を恥ずかしい物だとは思いません。ですから隠す必要はないと思いますが、やはり人の目が気になるだろうと思いました。もし、僕が義足でしたら、やはり短パンを履く勇気はなかったと思います。しかし、その男性は短パンを履き、義足を隠そうとはしていませんでした。その勇気、人間の大きさを感じ、いかに自分がちっぽけな人間かという事を思い知らされました。
 数日後、今度は背後から自転車でやってきた若い女の子が笑顔で話し掛けてきました。突然の出来事に最初は戸惑いましたが、不思議と嫌な気持ちはしませんでした。それどころか、笑顔で話し掛けてもらえた事がとてもうれしく感じました。
 それまで僕のすぐ隣を自転車やローラーブレードでたくさんの人達が通り過ぎて行きましたが、僕は決して目を合わせようとはしませんでした。しかし、その話し掛けたくれた女の子のおかげで、少しずつ目を合わせる事が出来るようになりました。すると、僕と目が合った見ず知らずの人が笑顔で、「ハーイ」と言ってくれたのです。その事がまたとてもうれしく感じました。それは1人だけではありませんでした。真剣な顔をしている人、怒ったような顔をしている人、悲しそうな顔をしている人、みんなが僕と目が合った瞬間に笑顔に変わったのです。そして筋肉がモリモリで見るからに怖そうな体の大きな黒人がニコッと笑い、「ハーイ」と言ってくれた時は特にうれしく感じました。それからというもの、人の目など一切気にならなくなり、外出をする事が楽しみになりました。
 外へ出るようになると、車椅子の人が多い事に気付きました。確かにアメリカの人口は日本の約2倍ですから障害者の数も単純に2倍いると思います。しかし、2倍どころかその数は10倍にも20倍にも感じたのです。
 サンタモニカのビーチで両手両足が無い黒人を見掛けました。詳しくは分かりませんが、乙武洋匡さんと同じ障害だと思います。その黒人は路上で音楽を大きくかけて踊り、目の前に紙コップを置いてお金をもらっていました。また、別の場所では車椅子に乗った白人が短パンを履き、集尿器が丸見えになっていても平気な顔をしていました。それは日本ではとても考えられない光景でした。しかし、アメリカではこれが当たり前の光景であり、誰も障害者を好奇な目で見たりしないのです。踊っている黒人に関心のない人は見向きもしません。関心のある人だけ近くへ行き、一緒に踊り出すのです。決して日本人のように遠くからチラチラ見るような事をする人はいないのです。
 障害者に接する姿勢もとても自然でした。僕が低血圧になり、車椅子をウィリーさせ、頭を低くして血圧を上げていると、そこへたまたま通り掛った人達が何の躊躇(ちゅうしょ)もなく、
「May I help you?」
 「手を貸しましょうか?」と声を掛けてくれました。それも1人や2人ではありません。アメリカでは誰もが障害者に対し、自然と声を掛ける事が出来るのです。
 人の目が気になっていた僕にとって、アメリカでの生活は最高でした。なかなか手術を受ける事が出来なかったり、手術の結果が心配だったり、他にもたくさんの不安がありましたので、気持ちが晴れるという事はありませんでしたが、そんな不安な状態だったからこそ、余計に人とのコミュニケーションがうれしく感じたのだと思います。本当にアメリカへ来て良かったと思いました。
 日本へ帰って来た僕は、再び家の中へ閉じこもりました。アメリカにいた時のように日本でも外へ出ようと思いましたが、やはり人の目がアメリカとは違いました。目を合わせても、何か悪い物でも見たかのように目を背けられてしまったり、また、視線を感じるので振り向くと、それまで明らかに僕を見ていたのに目を背けられてしまったりしたのです。
 月に1度か2度はドライブへ出掛けましたが、車から降りる事が出来ませんでした。アメリカで日焼けした肌はすぐに白くなりました。

 福祉が進んでいるアメリカは、障害者にとってとても住みやすい国です。街の中で車椅子の人を多く見掛けるのも納得できます。しかし、考えてみますと、車椅子を使用している人はたくさんいるのですから、多く見掛ける事が当然であり、逆に日本のように見掛けない方がおかしいのだと思います。
 戦後の日本では障害を持っている事を恥ずかしいと考え、もし、家族の中に障害者がいたならば隠したそうです。ですから街へ出ても障害者を見掛ける事はなかったそうです。それから50年以上が経った今、そんな習慣はもうなくなったと思いますが、それでもまだ障害者が街へ出るとジロジロ見られてしまいます。例えそこに偏見や差別がないとしても、障害者が家の中へ閉じこもってしまう原因は人の目にあるのです。だからと言って、僕は誰も責めようとは思いません。しかし、この世の中には常識の欠けた人が少なくなく、不愉快な思いをする事が多々あるという事だけは皆さんに知っていて欲しいと願います。
 人の目に傷付き、人の目を恐れていた僕でしたが、今では外へ出るのが楽しみになりました。ボランティアをして下さる方がいれば、毎日でも出掛けていきたいと思います。人の目が気にならなくなったと言えばウソになりますが、障害を乗り越える事が出来た今、身体に障害があろうと自分にプライドを持っていますので、見られても平気です。逆に僕の姿を見て、少しでも障害者に対する理解が深まればこんなにうれしい事はないと思えるようになりました。僕の力は小さいですが、これからもどんどん外へ出て、そして講演活動によって、たくさんの人達とふれあい、障害者を理解して頂くきっかけを作っていきたいと思っています。
 この原稿を読み、障害者が人の目によって苦しんでいるという事を初めて知った方もいらっしゃると思います。このような問題はなかなか気付きにくいものだと思いますので、是非この原稿を1人でも多くの方に読んで頂き、「人の目」という問題について考えて頂けたらうれしいです。そして町の中で障害者と目が合った時、背けるのではなく、微笑んで軽く挨拶をして頂けたらうれしいです。もしかすると、目を合わせた時、にらまれてしまう事があるかもしれません。これは障害者の勝手な言い分だと思いますが、この原稿にも書きましたように、人の目によって傷付き、周りの人達を敵だと思っている人も中にはいます。しかし、皆さんの笑顔によっていつか必ず傷付いた心が癒される日が来るはずです。どうか気を悪くせず、やさしく見守って下さい。

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