ぬくもり
(前編)

 子供の頃、食事の時に嫌いな物を残すと、母から「好き嫌いをせず、何でも残さず食べなさい」と叱られました。母だって嫌いな物ぐらいあるだろうと思いましたが、母は僕の嫌いな物を1つずつ食べて見せ、自分には嫌いな物がない事を示してくれました。その姿を見せられる度に僕は素直に感心し、僕も母のように好き嫌いをせず、格好良く何でも食べられるようになりたいと思いました。
 社会人になると外食をする機会が多くなり、それまで食べた事の無い物を口にする機会も増えました。カキフライやウナギを初めて食べた時はあまりの美味しさに感動をしました。それまでに名前だけは聞いた事がありましたが、僕の家の食卓には並んだ事がなく、高級というイメージもありましたので、僕には縁の無い食べ物だと思っていました。世の中にはこんなに美味しい物があるのですから、是非母にも食べさせてあげたいと思いました。しかし、母からは信じられない言葉が返りました。
「お母さん、カキフライもウナギも苦手なの」
 その後もウニやイカの塩辛など、僕が大人になって知った味は母の嫌いな物ばかりでした。大人になるまで母には好き嫌いが無いと信じていましたので、驚きと同時にショックな事でもありました。
 母はどんなおかずでも残さずに食べていました。それはどのように説明がつくのかと考えてみると、その途端、ある事に気が付き、「やられた〜」と思いました。母は自分の好きなおかずばかりを作り、嫌いな物は調理しなかったのです。自分の好きな物ばかりを作っていたのですから好き嫌いが無いのも当然です。そして僕には嫌いな物を食べさせていたのですから、「ずるい!」と思いました。
 そんなお茶目な一面を持つ母ですが、僕が子供の頃は身体が弱く入退院を繰り返していました。
 僕が5歳の時、母は妊娠中毒症になり入院をしました。妊娠中毒症には腎臓が関係しているそうです。元々腎臓が弱かった母は妊娠をするとタンパク尿が出るようになりました。そして突然お醤油みたいな色の尿が出るようになり、みるみるうちに目が見えなくなってしまいました。その時、父や祖母はお医者さんから「このままでは母体も子供も助かりません」と宣告をされたそうです。そして協議の結果、母体だけは何とか助けようと妊娠7ヶ月の時に薬を使い出産をする事になりました。
 この時に生まれた赤ちゃんは3番目の子供でした。僕が最初の子供です。2番目の子供は僕が3歳の時に生まれてすぐに亡くなりました。母は早産で生まれた赤ちゃんの事が心配でした。母はみんなに赤ちゃんの事を聞きましたが、みんなは今回の赤ちゃんも駄目になる事を知っていましたので、産後の母体を気遣い、本当の事を教えてくれませんでした。そしてこの時に生まれた赤ちゃんは生後2週間で亡くなってしまいました。
 僕はこの当時の事をよく覚えています。僕は埼玉県大宮市に住んでいましたが、父が出張でほとんど家へ帰りませんでしたので、母が入院をすると、栃木県大田原市の親戚の家へ預けられました。親戚の家と母が入院をしていた病院は歩いて5,6分の距離でしたが、5歳の僕にはとても遠くに感じ、1人では会いに行く事が出来ませんでした。母に会いに連れて行ってもらえたのが1日おきでしたので、父にも母にも会えない寂しさを辛く感じていました。
 ある日、僕が預けられていた親戚の家の子供が麻疹(はしか)に掛かりました。その麻疹を僕は移されてしまいましたが、その事が僕にとっては良い結果になりました。麻疹で入院をする人は少ないと思いますが、僕の場合は母が入院中という理由で、母と一緒の病室に入院をさせてもらう事が出来ました。しばらくは体調が悪かったという記憶がありますが、一日中、母と一緒に過ごせた喜びの方が強く残っています。
 入院中、僕は目の見えない母の身の回りの手伝いをしました。大した事は出来ませんでしたが、お見舞いの方が来た時に、その方の名前を教えてあげたり、食事のメニューを(おかずの名前をあまり知りませんでしたので)色や形で教えてあげたり、そのどれもがゲーム感覚でとても楽しく感じていました。
 母は1日も早く退院をしたいと考えていました。しかし、お医者さんからは反対をされていました。それでも母が退院をしたいと強く希望をすると、お医者さんは1週間の無塩食を提案しました。腎臓を悪くした母は塩分を控えなければなりませんでした。少しでも多く摂ると、むくみが出たり、すぐに体調が悪くなったりしてしまうからです。母は退院が出来るならと1週間の無塩食に挑戦をしました。これは僕が大人になってから聞いた話ですが、この1週間の無塩食はとても辛かったそうです。いくら塩分の摂り過ぎが良くないと言っても、全く摂らないというのも身体には良くありません。最後の頃はふらふらになってしまい、座っている事も出来なくなってしまったと話してくれました。
 当時の僕はまだ5歳という事もあり、母の体調が悪い事や目が見えなくなってしまった事を不安に思う事がありませんでした。しかし、この頃の記憶は6歳、7歳と年齢が上がるにつれ、辛いものへと変わっていきました。
 僕は母が1週間の無塩食に挑戦している事を知りませんでした。そんな時に久しぶりに出張から帰って来た父に病院の近くの駄菓子屋さんへ連れて行ってもらいました。駄菓子屋さんにはお好み焼きを焼く鉄板があり、1つ20円程度で焼かせてもらう事が出来ました。僕は父に頼み1つ焼いてもらいました。そして焼き上がったお好み焼きをお店の人にもらった袋に入れ、お店から出ました。父は僕が食べると思っていたようでしたが、僕は自分で食べたかったのではなく、母に食べさせてあげたいと思っていました。僕の気持ちを知った父はそのお好み焼きを何とか僕に食べさせようとしました。僕が母に食べさせてあげたいと言っているのですから、それでも良いじゃないかと思いました。しかし、父の「それじゃママと半分ずつ食べたら?」、「冷めちゃったら美味しくなくなるよ」、「ママにはまた今度買ってあげよう」という言葉に、結局僕は母の元へ戻るまでに1人で全部を食べてしまいました。母に食べさせてあげたいと思いながら、食べさせてあげる事が出来なかった事を幼心に悔やみ、その悔しさはいつまでも心に残ってしまいました。そしてその時の母の状況を理解出来るようになった時、父が僕にお好み焼きを食べさせようとした理由が分かりました。はっきりと本当の事を教えて欲しかったと思いましたが、それは父が僕の気持ちを大切にしてくれた結果です。僕はその気持ちをうれしく思いましたが、その優しさが余計にお好み焼きの思い出を悲しくさせました。
 僕は小学校の高学年から写真に興味を持ち、その趣味がこうじてカメラやメガネで有名な日本光学工業株式会社(現ニコン)へ就職をしました。それにも母の入院が大きく関係しています。母が入院をしている時、5歳だった僕は七五三でした。洋服のデザイナーだった父が七五三で着る服をデザインし、母もその服を見てどんなデザインなのかを知っていました。しかし、七五三当日、目が見えなくなってしまった母は僕の七五三の姿を見る事が出来ませんでした。その後、眼球の白目部分に注射を打つなどの辛い治療を受け、光を取り戻す事が出来た母は僕の七五三の姿を写真で見る事が出来ました。母は時折アルバムを広げては、目が見えなかった頃の辛い思い出を僕に話してくれました。その度に僕は例え写真でも、母が僕の七五三の姿を見る事が出来た事をうれしく思いました。そして幼心に記録を残す事の素晴らしさを感じ、それが後に写真を趣味に持ったきっかけになったのだと思います。
 僕は子供の頃、友達をいじめたり、人の家のガラスを割ったりと、悪い事を繰り返していました。僕がいじめを覚えたのは母が入院をしていた5歳の時でした。預けられていた親戚の家には同じ年齢の子と2歳年上のお兄さんがいましたが、平日の昼間は2人とも幼稚園と小学校へ通っていた為、日中は僕1人になってしまいました。遊び相手がおらず、家の前にある石屋さんの石を削ったり、彫ったりする作業を見に行きましたが、危ないからという理由で相手にしてもらえませんでした。仕方なく僕は石屋さんで出る奇麗に輝く砂を使い、毎日1人でさびしさを堪えながら遊んでいました。そんな時、親戚の隣の家に住む僕より1歳年下の男の子と友達になりました。その子はまだ幼稚園へ通う年齢ではありませんでしたので、それから毎日のように一緒に遊ぶようになりました。しかし、僕はその子に対し、いじめをするようになってしまいました。詳しい原因は僕自身よく分かりませんが、きっと父にも母にも会えないさびしさをその子にあたってしまったのだと思います。次第にその子のお母さんにその子と遊ばせてもらえなくなりました。その後、何度もいじめない事を約束して遊ばせてもらいましたが、結局最後は感情を抑える事が出来ず、いじめてしまいました。
 母が退院をすると、再び大宮での生活が始まりした。母と別々に暮らしていた時のさびしさから、一時たりとも母と離れたくはありませんでした。しかし、大宮へ戻ってきた僕は幼稚園へ通わなければなりませんでした。いくら行きたくないと泣き叫んでも聞き入れてもらえませんでした。毎朝迎えのバスが見えると泣きました。それでも先生に無理矢理バスに乗せられて幼稚園へと向かいました。幼稚園でもよく泣いていた事を覚えています。1番辛い時間はお昼でした。お昼の時間になると必ずと言って良いほど母が恋しくなりました。最初の頃は泣いてばかりいましたが、そのうち泣かなくなり、その代わりに机の下で友達の足を蹴ったり、わざと牛乳ビンを倒したりして友達をいじめるようになりました。この時もさびしさを紛らわせる為にいじめをしていたのだと思います。最終的には先生も手に負えなくなってしまい、お昼の時間になると園長先生が僕を迎えに来るようになりました。僕は理由も分からず、毎日園長室で園長先生と向かい合ってお昼を食べていました。
 母と離れて過ごすさびしさは時が経つに連れて治まりましたが、母を恋しく思う事は小学生になっても続きました。学校の給食で美味しい物を食べたり、穴を掘ってそれまでに見た事もないような大きなミミズを見付けたり、遠足で奇麗な景色を見たり、何か自分の中で感動や驚きがあると、真っ先に母を思い出し、母にも食べさせたい、見せてあげたいと思いました。そんな感情から急に母が恋しくなり、友達は楽しそうにしているのに、僕だけ悲しくなる事が多くありました。
 母は妊娠中毒症で入院をして以来、再び入院をする事はありませんでした。しかし、決して元気になった訳ではありませんでした。僕が小学生になっても身体が弱く、寝込む事が多くありました。2km離れた街へ買い物に出掛けただけでも翌日は必ず寝込んでしまいました。トイレで吐く母の背中を擦った事もありました。食事制限の為、母が食べるインスタントラーメンには粉末スープが3分の1程度しか入っておらず、味が薄過ぎて美味しくありません。そんなあらゆる事から僕は母が心配で堪りませんでした。
 子供の頃は常に母の事を考えていたような気がします。母が心配な僕は母の前ではいつも良い子を演じていました。しかし、母に心配を掛けたくないと思っていても、陰ではいじめや悪い事を繰り返していましたので、いじめた友達の親から苦情が来たり、学校から呼び出しをされたり、結局最後にはばれてしまいました。その度に謝りに行く母に申し訳なく思いましたが、母の身体が弱い事の不安や母の前では良い子を演じるストレスなどから、いつまで経ってもいじめや悪い事を止める事が出来ませんでした。
 母は時折、
「お母さんは何歳ぐらいまで生きられるかなぁ。40歳ぐらいまでは生きられるかなぁ」
と僕に話しました。僕はそんな事を考えたくはありませんでしたが、身体の弱い母を見て同じ事を不安に思っていましたので、余計に母の言葉がショックでした。母にはいつまでも元気でいて欲しいと思いました。そして今は親不孝ばかりをしているけど、大人になったら必ず親孝行をしてあげるんだと心に決めていました。しかし、僕は19歳の時、取り返しのつかない親不孝をしてしまいました。


ぬくもり(後編)へ続く

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