障害者と健常者の関係

 数年前から「バリアフリー」という言葉をよく耳にするようになりました。今ではその意味を知らない人はいないと思います。それは健常者の方々が福祉に関心を持たれ始めた証拠ではないかと思います。受け入れられ始めた理由として、政府が福祉に力を入れ始めた事も1つにあると思いますが、何と言っても、「五体不満足」(講談社)の著者である乙武洋匡さんや、お笑い芸人のホーキング青山さんの活躍が大きいと思います。
 それまで障害者がテレビに出る事は少なく、たまにドキュメンタリー番組で障害者を紹介すると、「障害者はこんなに頑張っているんだ」と視聴者を感動させる為に、必ず障害の重さを強調していました。それではどうしても障害者は「可哀想」、「大変」というマイナスのイメージが付いてしまいます。しかし、乙武さんもホーキング青山さんも障害の重さを強調しません。障害者としての苦労も陽気なキャラクターで笑いのネタにしてしまいます。
 マイナスのイメージを感じさせないという事で、障害者の存在が身近に感じるようになってきたのではないかと思います。そして、福祉に対する意識も少しずつ変わってきたと思います。きっとこの原稿を読んで下さっているほとんどの方が、「障害者の方と友達になって色んな話をしてみたい」、「困った人を見掛けたら手を貸してあげたい」と思っていらっしゃると思います。しかし、障害者とどのように接したら良いのか分からないのが本音ではないでしょうか。
 僕は障害者の代表ではありませんが、今まで経験してきた事を元に、障害者が健常者と接した中で感じている事と、これから先、こんな風に接して頂けたらうれしいという事を書きたいと思います。

 今までに街で困っている障害者を見掛け、本当は手を貸してあげたいと思っていても、何と声を掛けたら良いのか分からなかったり、周りの人達が見て見ぬ振りをしている時に、自分だけが手を貸す事に勇気が要ったりして、声を掛ける事が出来なかった経験があると思います。そんな時は自分を責めてしまいがちですが、責める必要はありません。その時に困っていた障害者は助けを求めてきましたか? 求めてきているのに、何も出来なかったというのでしたら、それは残念な事だと思いますが、求めていなかったのでしたら気にする必要はないと思います。
 障害者は困っている時に気軽に声を掛け、手を貸して頂ける事がとてもうれしいです。しかし、見て見ぬ振りも間違いではないと思います。障害者は子供ではありませんから、困った事があれば自分から声を掛ける事が出来ます。その時に手を貸して頂ければ、それだけでとてもありがたく、見て見ぬ振りをする事など問題ではありません。「障害者の中には、内気で声を掛けられない人もいるでしょ?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、その考え方は障害者を甘やかし過ぎだと思います。障害者は一生、障害を背負っていかなければなりません。人に声を掛けるぐらいの強さを持っていなければいけないと僕は考えています。
 困っている人がいたら手を貸してあげたいという気持ちは、障害者にとってとてもありがたい事です。しかし、その善意は時として裏目に出てしまう事があります。例えば車椅子の人が車に乗り込む場合です。車椅子の人が車を運転する場合、1人で車に乗り込み、車椅子を畳んで車に乗せる事が出来なければなりません。「ビューティフルライフ」という常盤貴子と木村拓哉主演のドラマを御覧になった方は分かると思いますが、車に乗ってからシートを倒し、折り畳んだ車椅子を持ち上げ、自分の体の上を通過させて後部座席に乗せます。その様子は見ていて思わず手を貸したくなりますが、もしそこで手を貸してしまうと、車椅子を下ろす時に手が届かなくなってしまったり、車椅子の一部が何処かに引っ掛かってしまったりして、下ろせなくなる可能性があります。下ろす時も誰か人がいて下されば良いのですが、必ずしもそうとは限りません。ですから、障害者に手を貸して下さる時には、行動を起こされる前に、一言声を掛けて頂けると、障害者はとても助かります。
 「可哀想」という言葉を投げ掛けられる事があります。乙武さんやホーキング青山さんがマイナスのイメージを感じさせないと言っても、「障害者は可哀想」という固定観念は、そう簡単には拭い去れません。それでは本当に障害者は可哀想なのでしょうか?
 僕は頚髄(首の骨の中を通る中枢神経)を損傷した事により首から下が麻痺してしまいました。もう少し詳しく書けば、乳首から下は全く感覚がなく、自分の意思で動かす事が出来ません。肩と腕は動かす事が出来ますが、手の指も動かす事が出来ません。しかし、車椅子があれば何処へでも行けます。手に装具を付ければ1人で食事をする事も出来ますし、こうしてパソコンのキーを叩き、原稿を書く事も出来ます。このように自分で出来ない事でも物に頼る事によって何でもする事が出来ます。物に頼らなければならない事が可哀想というのでしたら、障害者も健常者も関係なく、みんな可哀想という事になります。御飯を炊く事が出来ない人はたくさんいます。しかし、炊飯器を使えば炊く事が出来ます。それと同じ理屈だと思います。
 「可哀想」という言葉と同様に、「頑張って」という言葉もよく投げ掛けられます。僕は一体、何を頑張れば良いのでしょうか? 例えば原稿を書いている事に対し、「頑張って」と言われるのでしたら、とてもうれしく、頑張ろうと力が湧いてきます。しかし、街であった人に肩を叩かれ、「頑張ってね」と言われても困るだけです。言いたい事は何となく分かります。きっと、「身体が不自由で辛い事も多いと思うけど頑張ってね」と言いたいのだと思います。しかし、それでは僕の人生を否定しているみたいではありませんか? 確かに僕は障害者になったばかりの頃、障害を受け入れる事が出来ずに悲しんでばかりいました。しかし、障害を受け入れる事が出来た今は、障害のある自分に恥じる事は無く、プライドを持って生きています。「可哀想」や「頑張って」という言葉は投げ掛けて欲しくありません。
 「可哀想」、「頑張って」という気持ちは優しさから生まれます。その事を僕は分かっていますので、決して怒らず、笑顔で「ありがとう」と答えます。しかし、優しい気持ちをお持ちの方は、口に出さずともその優しさを感じ取る事が出来ます。口に出してしまうと、その瞬間、優しさは同情に変わってしまい、相手を傷付けてしまう事にも繋がってしまいます。同情をされる事がどれほど辛いかという事を理解して頂きたいです。
 たくさんの事を書いてしまいましたので、障害者と接する事は難しいと思われたかもしれませんが、決してそんな事はありません。障害者が望む事はとても簡単な事です。それは障害者としてではなく、1人の人間として接して頂きたいのです。気軽に声を掛けて頂く事も、優しい心で接して頂く事もうれしい事です。しかし、障害者・健常者の隔たりを無くし、1人の人間として接して頂ける事の方が何倍もうれしいのです。
 これから先、障害者がすべき事は障害をアピールする事だと思います。健常者の方々が福祉に興味を持たれ始めた今が、様々な障害を知って頂く絶好のチャンスだと思います。障害をさらけ出す事の中には、恥ずかしい問題もたくさんあります。しかし、僕はメッセンジャーとして1人でも多くの方にたくさんの事を伝えていきたいと思っています。そしていつの日か障害者と健常者がお互いに1人の人間として、相手を敬う気持ちと感謝の気持ちを忘れずに向き合う事が出来れば、障害者と健常者の関係は益々良くなっていくと思います。

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