愛犬ジミー

 平成13年12月25日、クリスマスの日に愛犬のジミー(ヨークシャ・テリア)が亡くなりました。12歳2ヶ月でした。ジミーは平成2年1月31日、生後3ヶ月で僕の家へ来ましたので、約12年間一緒に生活をする事が出来ました。
 ジミーが亡くなった日、僕は原稿を書いていました。9日に体調を崩したジミーは18日に入院をし、21日に「1日おきに通院をする事が出来れば…」という条件で退院をしていました。その日は2度目の通院の日でした。病院の午後の診療が2時に始まるという事で、1時半に伯母さん(母の姉)が迎えに来てくれました。伯母さんが来ると同時に、母がコタツの横で眠るジミーを抱き、元気良く「行って来ま〜す」と出掛けて行きました。しかし、出掛けて5分と経たないうちに、たった今、母とジミーの病院へ向かったはずの伯母さんから電話が掛かりました。「あれっ、どうしたのかな?」と思っていると、伯母さんから、
「ジミーの様子が変なんだよ」
と言われました。変だと言われても、たった今、元気良く出て行ったばかりでしたので、言っている意味が良く分かりませんでした。すると電話の向こうから、泣きながらジミーの名を何度も呼ぶ母の声が聞こえ、その声で初めてジミーの身に起きている事が理解出来ました。気が動転し、泣きじゃくる母が電話に代わり、慌てた口調で、
「車に乗った途端、ジミーがグタッとしちゃった。目は開いているけど、呼吸をしていないみたいなの」
と言いました。僕も動転してしまい、「とにかく落ち着かなければ」と思いましたが、落ち着けるはずもありませんでした。
「とにかく心臓マッサージをしながら、病院へ直行して!」
と、それしか言えませんでした。
 電話を切ると、「今の出来事は何だったんだ?」と、まるで夢のように感じました。ここのところ、ジミーの体調が少しずつ良くなり、前日のクリスマスイヴには元気な姿を見せていましたので、母と、「元気になったね。あとは食事さえ注意してあげればだいじょうぶだね」と話していたばかりでした。ですからその時、余計にジミーが生死をさまよっているとは信じられませんでした。
 僕は時計を見ながら、ジミーが早く病院へ着き、無事である事を祈りました。しかし、祈りは通じませんでした。2時を少し過ぎた時、母からジミーの死を知らせる電話が掛かりました。母はジミーの心臓マッサージをしながら病院まで向かったそうです。そして診療が始まる2時前に病院へ着き、すぐに診てもらったそうですが、その時はすでに息を引き取った後だったそうです。
 ジミーの死を知らせる電話から15分ぐらいが経ち、母が帰ってきました。まっすぐに僕の部屋へ入ってきた母の「ただいま」という声は涙声でしたが、意外と穏やかでした。
 ジミーはタオルケットに包まり、顔だけを出した状態で、母の腕の中にいました。
「眠っているみたいでしょ?」
 ジミーは冬場の寒い時、いつもタオルケットに包んでもらい眠っていました。ジミーの遺体を抱く母も、いつもと変わらぬ抱き方をしていましたので、母の言う通り、その姿は眠っているようにしか見えませんでした。

 本当はジミーを飼う予定がありませんでした。ジミーを飼う前にチーコ(ヨークシャ・テリア)という名の犬を飼っていた事があり、そのチーコにさびしい思いをさせてしまった事が理由です。チーコは僕がまだ元気な頃から飼っていました。とても頭が良く、神経質な犬でした。僕が事故で入院をしてしまうと、父も母も毎日夜遅くまで家へ帰る事が出来なくなりました。チーコがさびしくないようにとラジオを点けたり、夜になっても大丈夫なようにと電気を点けたりしていましたが、それは「これでさびしくないだろう」という人間の勝手な思い込みであり、実際はとてもさびしい思いをしていたようです。近所の方の話では、時々さびしそうに鳴いていたそうです。ただでさえ神経質で胃腸が弱いチーコは、さびしさから下痢をしてしまい、父と母が夜遅く家へ帰ると、部屋中がウンチで汚れていた事が多くあったそうです。それらの話を聞き、僕はとても胸が痛みました。しかし、当時は自分の事だけで精一杯でしたので、真剣にチーコの事を考えてあげる事が出来ず、チーコにはただ我慢をしてもらうしかありませんでした。何よりも可哀想だったのがチーコの最期でした。僕はアメリカへ治療に行く事が決まり、連れて行く事が出来ないチーコは、チーコが生まれた家へ預ける事になりました。そして僕がアメリカへ渡り、ちょうど半年後、僕が手術を受けた3日後にチーコは突然、病死をしてしまいました。チーコに対して、本当に申し訳ない事をしたと、家族で反省をしました。「チーコは最後の半年間をチーコのお母さんと暮らす事が出来てしあわせだったかもしれないね」と話した事もありましたが、やはりそれも僕達の勝手な解釈です。チーコの本心は、さびしくても僕達と一緒に居たかったと思っていたかもしれません。そう思うと余計に胸が締め付けられる思いでした。
 チーコが亡くなった後、もう二度とペットを飼うのは止めようと、家族で話しました。例えペットでも家族の一員ですから別れは悲しいです。こんな悲しい思いは二度としたくはありません。そして何よりもチーコにさびしい思いをさせてしまった僕の家では、ペットを飼う資格などないというのが最大の理由でした。しかし、そんな事を話し合っておきながら、ジミーを飼う事になりました。それには家族の事情がありました。
 チーコが亡くなって2年半後、たった3人しかいない家族の心がバラバラになってしまいました。チーコが亡くなった当時、アメリカの医学に望みを託していましたが、この頃はすでに望みを絶たれ、将来の不安や苛立ちを感じずにはいられませんでした。そしてその不安や苛立ちの矛先を家族同士で向け合ってしまったのです。
 父はよく、「家族の中の誰かが障害者になると、その家族はバラバラになる」と言っていました。僕はそんな馬鹿な話はないと思いました。大切な家族が障害者になったのですから、その障害と闘う為に、一層団結力が強まるはずだと思いました。しかし、僕が考えていた事は理想論でしかありませんでした。思い起こせばリハビリセンターに入院をしている時、バラバラになってしまった家族を見た事がありました。
 間も無く消灯時間という時にティールームで電話を掛ける患者さんのお父さんがいました。
「寝小便をすんなよ。父ちゃん、すぐに帰っからね。婆ちゃんの言う事をちゃんと聞くんだよ」
 その電話は家で待つ患者さんの妹へ掛けていたようです。電話の後、そのお父さんとお話をさせて頂きました。お話によると、家では幼い子供がお婆さんと2人で留守番をしていたそうです。お母さんはと言うと、自分の子供が首の骨を折り、全身麻痺の障害者になってしまった事にショックを受け、行方をくらませてしまったそうです。とても信じられませんでしたが、僕の理想論とは裏腹に、このような悲しい出来事が現実に起きていました。
 僕の家族も崩壊寸前でした。必要最低限の会話しかなされず、笑いもありませんでした。そんな時、これではいけないと、家族でもう1度力を合わせて頑張ろうという話し合いをしました。その話し合いの中で、「ペットを飼えば、そのペットの事で会話が生まれる。ペットのしぐさで笑いも生まれるだろう」という話が出ました。その提案に3人の意見がまとまり、ペットを飼う事が決まりました。
 チーコがヨークシャ・テリアという犬種でしたので、次はシー・ズーという犬種を飼う事に決めました。しかし、父と母が買って来た犬種はシー・ズーではありませんでした。父と母の話によりますと、ペットショップでシー・ズーを買い、奇麗にブラッシングまでしてもらったそうです。そしてお金を払い、そのシー・ズーを抱いてお店から出ようとした時、ジミーがゲージ(檻)の中で、父と母に向かいピョンピョンと跳ねていたそうです。その姿はまるで「僕を飼って!」とお願いをしているように見えたそうです。父はジミーのその姿を見て、「やっぱりこっちだ!」と、急きょシー・ズーを返し、お金を足してジミーを家族の一員に選んだという事でした。
 ジミーと初めて対面をした時、すぐに僕の所へも来てくれました。当時、僕が使っていたベッドの高さは低かったのですが、ジミーは背伸びをしても顔が見えませんでした。ベッドサイドでピョンピョンと跳ね、その度に見え隠れをする姿がとても可愛く感じました。ベッドの上へ乗せてあげると全身で喜びを表現し、僕の顔をぺろぺろと舐めてくれました。その時の光景を今でもはっきりと覚えています。
 ジミーの名前はお笑い芸人のジミー大西さんから取りました。当時、ジミー大西さんはテレビに出始めたばかりで、家族みんなで愛着を感じる面白い人が出てきたと感じていました。それでジミーにも、ジミー大西さんのように愛着があり、家族に笑いをもたらせてくれる存在になって欲しいと願いを込めて、「ジミー」と名付けました。
 ジミーは買ってきた翌日の朝から体調を崩してしまいました。3ヶ月の小さな体で、ちょこんとお座りをして頭をうなだれた姿はとても可哀想で見ていられませんでした。その晩、11時になって、ジミーを近所の動物病院へ連れて行きました。本当はもっと早く連れて行けば良かったのですが、きっと新しい環境に来て疲れが出たのだろうと考えていた為、少し安静にしていれば元気が出るだろうと安易に考えていました。病院へ連れて行ったジミーは即入院でした。原因はお腹の中にいた寄生虫でした。病院の先生は、
「買ってまだ2日目でしょ? ペットショップに返した方が良いですよ」
と言ったそうです。しかし、父は、
「いいえ、縁があって家へ来たのですから、何があっても責任を持って飼います」
と言ったそうです。僕はその場にいませんでしたが、僕も母も父と同じ気持ちでした。ジミーを飼う時に、「チーコの分まで可愛がってあげよう」と心に決めていました。それに過ごした時間はたった一晩でも新しい家族には違いありません。例えどんなにお金が掛かろうとも、最後まで面倒を看るつもりでした。その後、ジミーは入退院を繰り返しました。そして別の動物病院へ連れて行ったところ、その病院の先生に、
「寄生虫を殺す為に強い薬を使います。明日の朝、ジミー君の遺体を引き取りに来て頂く事になるかもしれませんが、それでも良いですか?」
と訊ねられてしまいました。先生の言葉に家族で悩みました。しかし、その薬を使う以外、ジミーは助からないというので、お願いをするしかありませんでした。そしてジミーは元気になる事が出来ました。入院費や治療費などが、ジミーの買った時の値段よりも高く掛かってしまいましたが、お金なんか問題ではありませんでした。ジミーが元気になった! それだけで、うれしかったです。
 元気になったジミーは、それから病気1つしませんでした。そして名前の通り、大活躍をしてくれました。ジミーのしぐさは笑いをもたらし、寝顔は心を癒してくれました。それまでなくなっていた家族の会話もジミーの話題で絶える事がなくなりました。険悪な雰囲気の時でもジミーの話題が仲直りのきっかけとなり、例え喧嘩になったとしても、愛嬌のあるとぼけた顔で見られてしまうと、怒りも半減し、喧嘩もすぐに治まりました。
 父が亡くなった時、母と僕の心にポッカリと開いた穴を埋めてくれたのもジミーでした。もし、その時にジミーがいなかったとしたら、僕も母ももっともっとさびしい思いをしていたに違いありません。
 存在感という事では他にもこんな事がありました。ある日の夜中、1階で大きな物音がしました。いつもならジミーが吠えるのですが、その日は何故か吠えませんでした。僕はジミーが吠えないので大丈夫かなとも思いましたが、最近、近所で空き巣などの被害が多く、物騒でしたので、隣の部屋に眠る母を起こしました。母は最初、「気味が悪いからイヤ」と言っていましたが、やはり1階が気になり、様子を見に行く事にしました。その時、母は眠っていたジミーを抱き、1階へ向かったのです。母の話ではジミーを抱いていたので心強く感じたそうです。ジミーは眠気まなこで迷惑そうでしたが、そんなジミーでも頼りになるのだと思いました。

 僕はジミーの具合が変という電話を受けてから、とても原稿を書く気にはなれませんでした。結局その日は何も手に付かず、ただジミーの遺体を眺めて過ごしました。
 ジミーの遺体を眺めていると、12年間の思い出が次から次へと浮かびました。勇ましく吠える姿や獲物を狙うように姿勢を低くして母へ近付く姿。夢を見ているのか眠りながら吠える姿や口からちょこっと舌を出し、とぼけた顔。他にもたくさんの思い出が浮かびました。思い出の中のジミーは、どれもやんちゃでした。もう1度その姿を見たくて、何度も呼び掛けてみましたが、ジミーが目を開ける事はありませんでした。
 ジミーの遺体を眺めていて思った事は、やはり存在の大きさでした。存在が大きかっただけに、心にポッカリと開いた穴は大き過ぎて、どのように埋めたら良いのか分かりませんでした。
 ジミーが僕達家族に残してくれた最大のものは家族の輪です。途中で父が亡くなり、母と2人きりになってしまいましたが、家族が崩壊せず、今まで頑張る事が出来たのはジミーのお陰です。僕はジミーに何をしてあげられたのかを考えました。僕も母も最後まで悔いが残らないようにと可愛がってきたつもりでした。しかし、どんなに可愛がったつもりでも12年間を振り返ると、「あの時、あのようにしてあげれば良かった」、「この時、こうしてあげれば良かった」と悔いが残ってしまいます。そんな中、良かったと思う事は、亡くなる時に苦しまなかった事です。そして大好きな母の腕の中で最期を迎える事が出来た事がジミーにとって一番のしあわせだったのではないかと思いました。
 その晩、母は僕のベッドの隣に布団を敷きました。そして母と僕、ジミーで頭を並べ、最後の夜を過ごしました。

 ジミー、12年間ありがとう!

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