同士
(1999年10月〜)

 精神的に落ち着いていた孝久君でしたが、問題が起こってしまいました。抗ガン剤による弊害で、菌が発生してしまったのです。その菌は馬鹿に出来ず、放っておくと死に至る危険性があるという事でした。その菌が発生した原因は抗ガン剤治療により抵抗力が下がった為であり、菌を死滅させるには抗ガン剤治療を止めなければなりませんでした。しかし、菌が死滅しても、抗ガン剤を始めるとすぐに繁殖してしまい、一向に抗ガン剤治療が進まなくなりました。菌が繁殖するもう1つの原因として、骨盤を手術した際に埋めた金具があり、菌はその金具に繁殖していると考えられたそうです。その金具は手術時に必要な物でしたが、この時はもう必要の無い物でしたので、孝久君は骨盤を手術した金沢へ行き、緊急に金具を取り外す手術が行われました。
 孝久君は約2ヶ月間、金沢の病院に入院をし、東京の病院へ帰ってきました。これで菌が繁殖する心配がなくなり、順調に抗ガン剤治療が行えると思いました。しかし、金具が無くなっても、菌はまたすぐに繁殖してしまい、手術前と結果は同じでした。更に悪い事が続き、新たに肺にガンが見付かってしまいました。しかも、孝久君は、抗ガン剤治療が出来ない段階では手術も行えないと言うのです。しかし、摘出をしなければ最悪な結果になる事は分かっており、僕が心配をしていると、孝久君は、
「抗生物質で菌が死滅すれば、抗ガン剤治療をして、その後、(ガンを)取れば良い」
と、まるで他人事のように冷静でした。
 孝久君は2000年になる年末年始も病院で過ごしていました。一度は菌の繁殖による炎症反応が良くなってきたものの、右の腰に痛みが出ると再び炎症反応の数値が上がり、発熱や倦怠感などで辛い思いをしたそうです。しかし、孝久君は、
「幸いな事に抗生物質がまだ効くから・・・」
と、辛い思いをしながらも薬が効く事を感謝していました。その言葉を聞き、僕は一瞬良かったなぁと思いましたが、すぐに、「えっ、効かなくなるとどうなるの?」と怖くなりました。
 年末年始に検査をした結果で、新たに骨髄炎が分かったそうです。孝久君からメールが届き、そこには、「抗生物質を半年間、投与しなければなりません、それから菌がまだ臀部(でんぶ)に残っていて、それが膿胞を形成してしまい、膿を抜いたり、抗生物質を投与したりと本来の抗ガン剤投与がまだ出来ません」と書いてあり、最後には「今年も僕は闘病の年になりそうです」と、精神的にも参っている様子でした。
 ある日、夜中に腹痛に襲われたそうです。それは3日も続き、夜も眠れないほどだったそうで、孝久君は真剣に胃ガンや大腸ガンを心配したそうです。結局、原因は便秘だったそうで、「大騒ぎをして恥ずかしい」と話していましたが、抗ガン剤治療が受けられないという事や肺にガンがあるという事が、余計に孝久君を神経質にさせていたのだと思いました。その後、一度は抗ガン剤治療が再開できるかもしれないと喜んでいましたが、今度は膵炎(すいえん)になってしまい、予定していた抗ガン剤治療は延期になってしまいました。そして、膵炎を治す為に、絶食までしなければなりませんでした。
 次第に孝久君は、精神的に不安定になっていきました。孝久君は僕に、
「僕が死ぬ時は、死因は肺ガンだろうね。今までガン患者を何人も看取ってきたけど、苦しんで死ぬ人と苦しまないで死ぬ人がいる。僕はどっちかなぁと考えるんだぁ。僕は苦しまずに死にたい」
と言いました。それまでも弱音を吐く事はよくありましたが、それとは様子が違いました。それまでは弱音を吐いても前向きさを感じましたが、この頃は悪い方向に物事を考え、人生を諦めているようにも感じました。そして、孝久君のお母さんから話を聞いたのですが、孝久君が荒れ、家族にあたるので、孝久君の家族は困っていたそうです。孝久君は僕と話している時に荒れる事はありませんでしたので気が付きませんでしたが、相当、精神的に追い込まれていたようです。きっと孝久君は自分の辛さを周りのみんなに知って欲しいと思っているのだと思いました。しかし、それが上手く伝わらず、自分でも精神的にコントロールが出来なくなり、無意識に荒れたり、元気を無くしたりして、精一杯の表現をしているのだと思いました。僕はもっともっと孝久君の苦しみを理解してあげたいと思いました。
 孝久君は何かあるとすぐに、「泰之君は強い」と言いました。それはずうっと前から続いており、特にこの頃はよく言うようになりました。最初の頃も感じましたが、僕が強いのではなく、孝久君は自分自身を弱く感じていたように思いました。孝久君が悩み苦しんでいる時に、僕が明るくしようと努めていましたので、その事で余計に僕を強く感じ、自分を弱く感じたのかもしれません。
 ある日、孝久君は僕に、「泰之君の障害に比べたら、身の回りの事を自分で出来る僕がくよくよしている事が情けない」というような事を言いました。しかし、それは違うと思いました。確かに僕は全身が麻痺している為に身の回りの事が出来ませんが、障害は安定しており、これ以上は良くなる事も悪くなる事もありません。健常者の人に比べて肺活量が少ない為、肺炎で命を落とす危険性は高いのですが、特に命の危険にさらされているわけでもありません。孝久君の病気はまさに命が懸かっています。誰しも死ぬ事は怖く、生きたいと思えば思うほど、死の恐怖は増します。それを思えばくよくよして情けないという事は、決してないと思いました。その事を孝久君に話しましたが、孝久君はしばらく考え、それでもくよくよする自分が許せないようでした。
 僕は孝久君が精神的に不安定な時は、常に心の支えになろうと思い、一所懸命に励まし続けました。しかし、いつも最後に孝久君が「お互いに頑張ろうね」と言い、その一言で立場が逆転してしまいました。僕は孝久君が辛い思いをしている事を知っているだけに、その言葉に重みを感じ、とても勇気が湧きました。僕は孝久君を勇気付ける事が出来たかなと自問自答をしますが、全く手応えがなく、「あれっ? 今日も僕が励まされている。僕は一体、何をしているのだろう」と思いました。
 3月に入ると、突然、電話もメールも来なくなりました。孝久君の状態を知っていただけに心配になり、何度もメールを書いて返事を待ちました。本当は携帯電話に電話を掛ければ良いのですが、具合が悪い時に電話を掛けるのも気が引け、具合が悪いと聞くのも怖く感じていました。しかし、いくら待っても返事が来ず、どうしても心配でしたので、家族の方なら孝久君の様子を御存知だと思い、実家の方へ連絡をしてみる事にしました。すると、孝久君のお母さんが電話に出られて、孝久君が元気だという事が分かりました。連絡が途切れたのは孝久君のパソコンが壊れ、メールの送受信が出来なかった事が原因でした。とても心配をしていましたので、孝久君に「それならそうと連絡の1つぐらいしろよ!」と思いましたが、元気そうな声で、「ごめんごめん」と言われると、ホッとして何も言えませんでした。実はこんな事が過去にも何度もありました。今までにも連絡が途切れる度に悪いニュースが飛び込み、また、肺の手術が行われたりしていましたので、僕は連絡が途切れる事に神経質になっていました。しかし、心配をして連絡をとると孝久君はいつも元気で、その度にホッとしていたのでした。
 連絡がとれない間に膵炎は良くなったそうですが、今度は腎臓の上に膿胞が出来、それが破裂してしまい、痛みで七転八倒したそうです。すぐにモルヒネで痛みを抑えたそうですが、他にも気胸やヘルペスが孝久君を苦しめました。
 4月5日、孝久君の心境の変化を感じました。いつものように電話で話をしていると、孝久君が弱音を吐き始めました。そして、話は段々と重たくなっていき、孝久君は自分の自殺未遂体験を話し始めました。孝久君は2度目の再発の前、仕事復帰をした際、仕事中に辛くて死にたくなったそうです。自分の腕に針を刺し、血液を抜き、自殺を試みたそうですが、1リットル半ぐらい抜いた時点で怖くなって止めたそうです。そんな事が2度あったと話してくれました。僕はこの話を聞きながらホッとしました。ドキドキするのが普通だとは思いますが、ドキドキしなかった理由は、話の内容から孝久君が本気で自殺するつもりはなかったと感じたからだと思います。本当に死ぬ気があれば、手首を切れば良い事です。しかし、孝久君は自殺に失敗した時に痛みが残るという事まで考えており、本当に死ぬ気があったのなら、そんな心配はしないからです。そして、何故、僕がホッとしたかと言いますと、孝久君が自分の自殺未遂体験を話した事で、自分の辛さを僕に伝える事が出来たからだと思います。これで孝久君は弱音を吐く事もなくなるだろうと直感的に分かりました。その後は僕以外の人にはどうか分かりませんが、僕には弱音を吐く事も落ち込む事もなくなり、精神的にも強くなったように感じました。
 4月中旬、念願の抗ガン剤治療が再開されました。抗ガン剤治療は苦しく嫌なはずですが、抗ガン剤治療を行った翌日、まだ副作用が出ていない孝久君から喜びの電話が掛かりました。そして、
「これからが本番!」
とガンに立ち向かう孝久君の勇ましさを感じました。

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