同士
(1988年3月〜)

 僕にとって同士というと、同じ障害を持つ仲間という事になりますが、今回、僕が書く同士はガンと闘う荻野孝久君という友達の話です。孝久君は僕とは障害が異なりますが、共に病気、障害を闘う同士です。

 僕が初めて孝久君と出会ったのは1988年3月、アメリカ・ロサンゼルスのアパートでした。孝久君は左足の膝にできた骨肉腫(骨のガン)を治療する為に渡米をしていました。アメリカにはガンの分野でとても優秀なドクターがいらっしゃるそうで、生存率の高さや日本で切断と言われた足が切断をせずに済む可能性が高い事から、アメリカで治療を受けていたようです。そこへ僕がリハビリを受ける為に、半年振りで2度目の渡米をしました。
 孝久君との出会いはとてもショッキングでした。同じアパートの同じ5階に日本の方が部屋を借りていると聞き、とても心強く感じましたが、孝久君は抗ガン剤治療の為に髪の毛がほとんど無く、顔色も悪く、松葉杖を使い、ゆっくりとしか歩けない状態でした。僕は孝久君を見掛ける度に、その痛々しい姿に困惑しました。孝久君もまた、僕が車椅子を利用していたので、気になっていたようでした。しかし、お互いに1度言葉を交わすと、年齢も同じ21歳という事で共通する話題が多く、すぐに仲良くなる事が出来ました。また、偶然にも孝久君は僕が入院をしていた所沢の病院の隣にある大学に通っており、お互いが近くに居た事で親近感が湧きました。何よりお互いに病気、障害があるという事が2人の絆を深めました。
 孝久君のお父さんはお医者様です。孝久君もまた、医者を目指す大学生でした。孝久君は自分の病気の事も僕の障害の事についても詳しく知っていて、よく話をしてくれました。そして、最後には必ず、
「今は医学的に中枢神経の再生は不可能でも、将来は必ず可能になる時が来るから、絶対に諦めちゃ駄目だよ」
と将来を不安に思う僕を励ましてくれました。僕はいつも孝久君の言葉を心強く感じ、僕も孝久君を励ましたいと、
「早く完治すると良いね。そして、再発をしない事を祈っているからね」
と言いました。しかし、僕は医学に関して全く知識がありませんでしたので、それ以上の言葉を掛ける事が出来ず、励ます事がなかなか出来ませんでした。それでも孝久君は、
「5年間が勝負だね」
と僕の気持ちに応えるように笑顔で話してくれました。5年間が勝負という事は、ガンの場合、完治をしても5年以内に再発する可能性が高いという意味です。
 こうして病気、障害を共に闘い、励まし合う「同士」という関係が生まれました。それから2ヶ月間強、まるで家族のようにお互いの部屋を行ったり来たりしました。また、リハビリの合間を見計らい、買い物やラスベガス旅行なども楽しみました。その間に孝久君の何度目かの抗ガン剤治療があり、孝久君はその副作用に苦しみ、1週間から10日間ぐらい会えない事もありました。しかし、今から思えば、その2ヶ月間強は孝久君との思い出の中で一番楽しかった時でした。
 その後、僕が一足早く日本へ帰り、その約半年後に孝久君も帰ってきました。日本で切断と言われた足も膝の骨を人工の物と取り替えただけで済み、孝久君は見事にガンを克服し、完治していました。しかし、ガンは再発する可能性がありますので、喜んでばかりはいられず、半年に1度は渡米をして検査を受けなければなりませんでした。
 孝久君は日本へ帰ってくると大学へ戻り、再び医者になる為の勉強を始めました。治療の為に1年間留年をしてしまいましたが、その後、一所懸命に勉強をし、1994年に大学を卒業して、医師の国家試験にも合格し、お医者様になる事が出来ました。そして、心配をしていたガンの再発もなく、孝久君がお医者様になった頃、ガン克服から5年が経ち、1度に2つの喜びがありました。僕の身体は一向に良くなりませんでしたが、孝久君が夢に向かい、その夢を達成できた事、5年が経ち、本当にガンに勝ったんだという事が自分の事のようにうれしく思いました。僕も「自分の障害に負けず、頑張るぞ!」と勇気付けられました。

 孝久君は大学生時代から忙しくしていましたが、お医者様として働き始めると一層忙しくなりました。実家に帰る事も少なくなったそうで、孝久君のお母さんから電話が掛かる度、「泰之君の方からも孝久にたまには家へ帰るように言って」とお願いをされるほどでした。
 孝久君がお医者様になって、2年目(1995年)のクリスマスの日でした。いつものように孝久君のお母さんから電話が掛かりました。しかし、その電話は、一番恐れていた孝久君のガンの再発という知らせでした。
 孝久君はガン克服から5年が過ぎても、定期的に検査を受けていました。再発する場所として一番可能性が高いのが肺という事で、肺を主に検査していたようでした。しかし、再発した場所は骨盤でした。その年の8月頃からお尻の辺りに痛みがあったそうですが、自分が受け持つ患者の事が精一杯で、自分の事にまで手が回らない状態だったそうです。12月に入ると激しい痛みに我慢が出来なくなり、検査をしたところ、骨盤に大きくなったガンが見付かったそうです。
 孝久君は「5年間が勝負だね」と話していましたが、この時すでに完治してから7年が過ぎていました。5年が過ぎた時点で、僕も安心をしていましたので、「何で・・・」と悲しくなりました。僕はまだ孝久君と出会ったばかりの頃、孝久君のお父さんが孝久君の居ない所で話して下さった
「5年を過ぎても、7年目、9年目と再発する可能性があり、5年が過ぎたからと言って100%安心できるわけではない」
という話が、すぐに頭に蘇りました。
 一番聞きたくない「再発」という言葉に、僕は気が動転してしまいました。医学に無知な僕はガンと聞けば、すぐに死と結びつけてしまいます。早期ガンなら切除する事で助かるという事は知っていましたが、孝久君の場合、骨盤にあるという事と大きいという事で絶望感に襲われました。
 僕は一刻も早く孝久君に会いに行きたいと思いました。しかし、孝久君のお母さんの話では、孝久君がショックのあまり荒れていて、今は会う事が難しいという事でした。何事も無く5年が過ぎ、仕事も順調でこれからという時の事です。そして、何より死の恐怖が襲ったのですから、荒れるのも無理はないと思いました。
 孝久君のお母さんの話では、年明け早々にアメリカへ発つとありました。僕は年が明けて、少しでも孝久君の気持ちが落ち着いてから会いに行こうと思いました。しかし、年が明け、その旨を伝えようと電話を掛けると、妹さんから、孝久君が予定を変更し、元日にアメリカへ発った事を知らされました。
 孝久君の妹さんも後にお医者様になられる方で、大学で医学を学んでいましたので、孝久君の状態について色々と話を聞く事が出来ました。すると、妹さんは絶望感に襲われている僕とは対照的に、
「本人は治療でまた辛い思いをすると思いますが・・・」
と、意外にも冷静な口調で話してくれました。僕は「どうしてそんなに冷静なの? 生きるか死ぬかという問題ではないの?」と思いましたが、妹さんが冷静に応対して下さった事で、僕も気持ちを落ち着かせる事が出来ました。
 妹さんに教えて頂いた孝久君の病室の電話番号に電話を掛けると、孝久君の声は意外にも明るく、荒れている様子もありませんでしたので安心をしました。孝久君はすぐに、
「泰之君にお願いがある。お金は全てこちらで用意をするから、すぐにアメリカへ来て!」
と言いました。僕も孝久君に言われる前からそのつもりでした。僕は孝久君と出会ってからずっと孝久君に励まされ続けていました。僕は励ますというより再発をしない事を祈るばかりで、何もしてあげる事が出来ませんでした。ですから、今こそ僕が孝久君の力になる時だと思い、すぐに、
「そのつもりだよ。すぐに行くからね」
と言いました。しかし、実際にその通りに行動をしようと思うと、様々な困難があり、どうしてもアメリカへ行く事が出来ませんでした。孝久君と電話で話す度に「アメリカへ来て」とお願いをされ、何とかしようと努力をしましたが、結局、孝久君の希望に応える事が出来ませんでした。一番肝心な時に、何も出来ない自分が情けなくて仕方ありませんでした。
 孝久君は約9ヶ月間、アメリカで治療を受けました。アメリカでどんな治療を受けていたのか分かりませんが、治療は順調に進んでいたようです。初めはそのままアメリカで手術を受けると聞いていましたが、日本でも手術できる病院が石川県の金沢にあるという事で、急きょ、日本へ帰って来る事になりました。孝久君に手術の内容を聞くと、「ガンを取り除く為に骨盤を人工の物と取り替える」と教えてくれました。「えっ、骨盤を?」と、本当にそんな事が出来るのかと、僕は耳を疑いましたが、孝久君が助かるなら、もう何でもありだと思いました。しかし、そこには大きな問題がありました。
 僕は孝久君が手術さえ受ければ、再びガンを克服できると単純に喜んでいましたが、孝久君から話を聞いて愕然としました。ガンにおかされた骨盤を取り除く事でガンはなくなりますが、失う物もあると言うのです。僕は頚椎(首の骨)の中を通る中枢神経を傷め、全身が麻痺してしまいましたが、中枢神経は骨盤にも通っており、骨盤を取り除くという事は同時に障害を覚悟しなければならないという事でした。孝久君は医者から手術を受ける事で下半身麻痺、つまり足が動かなくなり、車椅子生活になる可能性が半々だと言われたそうです。そして、尿意、便意に関しては確実に失うと宣告されてしまったそうです。
 手術が終わりました。僕は孝久君に電話を掛ける事が出来ませんでした。手術の結果、ガンを取り除く事が出来たかどうか、それが一番の心配でしたが、下半身が助かったか? 尿意、便意は助かったか? その結果を聞く事が怖かったのです。僕自身、尿意も便意も感じる事がありません。尿や便が出る前には身体がゾクゾクしたり、冷や汗をかいたり、他にも色々な症状が表れ、僕は長い経験から、それが尿なのか便なのか分かるようになりました。しかし、一番肝心な我慢をする事が出来ませんので、身体がゾクゾクした時にはもう遅く、失禁してしまいます。尿に関しては集尿器という物を着けていますので心配はありませんが、便に関しては、何度恥ずかしく悲しい思いをしてきたか分かりません。孝久君も同じ思いをするのかと思うと耐えられませんでした。下半身が助かる可能性が半々だと聞いていましたので、「尿意、便意も助かって!」と祈りましたが、願いは通じませんでした。半々と言われていた下半身は助かり、本当はもっと喜ぶべきだったのかもしれませんが、僕の中では助かって当たり前、尿意、便意も助かって当たり前でしたので、喜びよりもショックの方が大きかったです。ただ、無事にガンを取り除く事が出来たという事だけが素直に喜べました。
 孝久君は数ヶ月間を金沢の病院で入院し、1997年の桜の花が咲く頃に自分が勤める所沢の病院へ転院してきました。その時を待ちわびていた僕はすぐに会いに行きました。クリスマスの知らせから約1年半の間、ガンと闘い痩せてしまったのではないかと心配をしていました。しかし、病室には孝久君の友達や看護婦さんがいらっしゃり、病室の外にまで楽しそうな話し声や笑い声が聞こえていました。病室へ入るとベッドの上で上半身を起こし、とても元気そうな孝久君の姿を見る事が出来ました。
 僕が病室へ現れると、孝久君のお友達は僕に気を遣い、病室から出て行ってしまいました。僕は「タイミングが悪かったなぁ」と思いましたが、孝久君が「みんな仕事に戻らなければならない時間だから気にしなくて良いよ」と言ってくれましたので、安心して話をする事が出来ました。
 孝久君に会うまでは色々と心配をしていましたが、孝久君を目の前にして心配が吹っ飛びました。一番気になっていました尿意・便意の管理に関しても、話をしてくれて、その様子から精神的な部分も心配ないと感じました。しかし、安心をし、話が進んでいった時でした。僕が孝久君の尿管理が集尿器を使わず、導尿(定期的に尿道へ管を入れ、尿を抜く)をしている事を心配し、
「失敗をしたりしない?」
と訊くと、孝久君は
「時々、尿漏れをするからオムツを着けている」
と言ったのです。
 僕はオムツという言葉がショックでした。僕自身、怪我をしてから2度ほど着けた事がありますが、その時にとても大きなショックを受けました。オムツは多くの人が年をとればお世話になるものです。決して着けている人達を軽べつする事はありませんが、やはりオムツは誰しも避けたいものだと思います。現在、僕は尿や便の管理が出来ますので、オムツを着ける必要がありません。出来る事なら孝久君にも着けて欲しくありませんでした。孝久君はお医者様ですので、きっとオムツに関して僕とは違う感覚だったと思いますが、僕は自分の事のように悲しくなりました。
 オムツの話が出てから、僕はちょっとした事でも涙が溢れそうになり、潤んだ目を孝久君に気付かれないように窓の外を見ながら話を続けました。

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