毎年、2月6日(首の骨を折った日)は…

 2月6日は僕が事故に遭い、首の骨を折った日です。
 毎年、2月6日を迎えると、「去年の今日は…」、「2年前の今日は…」と事故の模様を思い出し、胸が締め付けられる思いです。障害者の自分を受け入れられるようになった今でも、事故の記憶だけは受け入れる事が出来ません。出来る事なら記憶から消し去りたいのですが、忘れようと意識しても、その日が近付くだけで思い出してしまいます。
 僕は朝起きると、先ず、今日が何月何日で何曜日かを思い出し、その日の予定を考えます。その際に不思議と、(例)「あっ、今日は1月31日だから石野真子の誕生日だ」と、その日に関連した事を同時に思い出します。同じように1月19日、1月24日には事故に遭う数日前のその日の出来事を思い出します。その両日とも、とても楽しい思い出がありました。それは事故という悲しい出来事の前の楽しい思い出だけに、思い出す度、「数日後に事故に遭うとも知らず、あの日は楽しかった」と思うのです。
 2月に入ると、今度は2月6日へのカウントダウンが始まります。「あと5日…」、「あと3日…」、「いよいよ明日…」。毎年、新しい2月6日を迎え、事故の2月6日とは違う事は分かっていますが、どうしても気持ちが事故の2月6日に戻り、心が落ち着かなくなってしまいます。
 2月6日になると、その日は朝からやたらと時間が気になります。時計を見ては「今頃は事故に遭うとも知らず、仕事をしていた」、「今頃は事故に遭うとも知らず、いたずらをしてアロンアルファを手に付けた」と、必ず「今頃は事故に遭うとも知らず…」という言葉を頭に付け、事故当日の模様を思い出してしまいます。
 僕が事故に遭ったのは仕事を終え、会社からの帰路でしたので、夕方から一層、胸が締め付けられる思いです。
 5時15分… 終業。
 5時30分… 会社のバスで駅へ向かう。
 5時50分… 駅前の喫茶店でココアを飲みながら作業日誌を付ける。
 6時5分… 電車へ乗り込む。
 電車にはいつも同僚8人で乗り、ボックス席2つに分かれて座りました。その日もボックス席に4人で座り、いつもなら各自が本を読んだり、ウォークマンで音楽を楽しんだり、ある時はフランスパンをかじりながらビールを呑んだりするのですが、その日は違っていました。僕は電車に乗ると必ず、アーモンドチョコレートを1個口に入れ、ウォークマンで音楽を聴きながら小説を読んでいました。しかし、その日に限り、朝の電車でウォークマンの電池が切れ、小説も電車に乗ると同時に読み終えてしまいました。仕方なく、隣の同僚が広げていた車の雑誌を覗き込むと、何時の間にか、他の2人の同僚も雑誌を覗き込み、珍しく大宮駅へ着くまで楽しく会話を弾ませたのです。普段なら何気ない行動と気にも止めませんが、事故の日という事もあり、何だか友達との別れを惜しんだ様に思えてなりません。
 6時48分… 電車が大宮駅に到着。
 電車は大宮駅に6時48分に到着です。その時間が近付くと、何度2月6日を迎えても、心が動揺し、時計から目が離せなくなります。
 トレンチコートを着てヘルメットと手袋を棚から下ろし、電車から降りました。大宮駅では僕の他に2人の同僚が降り、いつも無言で改札口へ向かいます。そして、改札口を出ると、1人が東武鉄道に乗り換える為、別れ、もう1人も北口の階段を降りた所で別れます。僕はいつも北口の階段の近くにバイクを停めていました。バイクにキーを挿し込み、エンジンを掛けると、寒さからエンジンの回転数が異常な程上がり、マフラーから白い排気ガスが噴き出しました。僕はその様子を見ながらヘルメットをかぶり、手袋をはめました。
 6時54分… 終に事故の現場へ向け、バイクを走らせ始める。
 バイクを走らせ始めた時間は詳しく分かりませんが、いつも、家に着く時間が決まって7時4分の為、家との距離を考えると6時54分頃だと思います。
 身支度を済ませ、バイクのステップを外し、駅前の三車線を走行し始めると、すぐにスクランブル交差点で信号に引っ掛かりました。ついさっきまでウォークマンの電池を買って帰ろうと考えていましたが、この時はすでに忘れていました。そして、信号が青に変わり、終に事故に遭うとも知らず、走り始めました。電池を買うには次の交差点を左折しなければなりません。しかし、気が付いた時には交差点に差し掛かっており、直進する事しか出来ませんでした。仕方なく、電池を諦める事にし、そのまま、いつもの道で家路に着く事にしたのですが、これが運命の分かれ道でした。
 6時57分… 事故!
 いつもこの時間はNHKの天気予報を観ていますが、2月6日は、とてもそんな余裕はありません。ただ、画面に映る時刻が気になり、「今? それとも今?」と、人生が変わった瞬間を探り、気が付くと身体に力が入り、呼吸も無意識に止めています。そして、その瞬間、事故の恐怖が甦るのです。
 交差点を左折出来ず、そのまま直進し、100メートル程走行した時でした。突然、目の前に車が現れ、僕が走行する車線をふさぐかのように停まってしまったのです。僕は慌ててブレーキを掛けました。同時にギアを落とし、ブレーキでタイヤがロックした際にエンジンブレーキが使えるようにしました。案の定、2月の午後7時近くという気温の低下からタイヤのグリップ力が弱く、タイヤがロックしました。すぐにブレーキを外し、クラッチを繋ぎ、エンジンブレーキに切り替えましたが、ギアを落とし過ぎたせいで、再びタイヤがロックしてしまい、横滑りを始めてしまいました。仕方なく、再びクラッチを切り、ブレーキを掛けましたが、車は見る見る近付いてきます。このままでは衝突してしまうと思った瞬間、バイクの座席に足を掛け、車を飛び越えようかとも考えましたが、結局、ブレーキを一層強く掛けていました。そして、後輪のロックに加え、前輪までもがロックしてしまい、バランスを崩し、バイクが右側へ傾きました。「あっ!」と思い、右足を地面に着いたのが最後の行動でした。気が付いた時は車の横腹に頭から突っ込み、全身が動かなくなっていました。
 7時… 事故後。
 天気予報が終わり、7時の時報が鳴る頃は脱力感に襲われます。事故後の出来事を今でも鮮明に覚えていますが、2月6日に思い出す事はありません。事故の時間を過ぎて思う事は、ただ「もう遅い。全てが終わった」という事です。何が遅く、何が終わったかと言いますと、事故に遭うまでの時間はタイムマシーンでその時間へ戻り、バイクに乗ろうとしている自分をどうにか止められないかと考えているのです。勿論、現実の世界にタイムマシーンが無い事など分かっており、確かに馬鹿げているとは思いますが、「苦しい時の神頼み」のように、何処かで何かに救いを求め、「今なら間に合う。今、知らせれば事故に遭わずに済む」と考えてしまうのです。そして、7時を過ぎた時、「もう遅い。全てが終わった」と、一気に力が抜けてしまうのです。
 その後は気持ちが沈み、言葉を発する気力さえ無くなります。毎年、こうして2月6日が終わります。
 
 2月6日を憂鬱な気持ちで過ごしているのは僕1人ではありません。
 ある年の2月6日。僕は敢えて、「今日が事故に遭った日」だという事を口にしませんでした。両親も口にしない為、「忘れているのかな?」と思っていましたが、翌日、母が「昨日は言わなかったけど、昨日は泰之が事故に遭った日だったのよ」と言いました。父も母も僕が思い出すと嫌な気持ちになるだろうと隠していたようです。結局、事故の事を誰も口にしなかったのは、お互いに気を遣っていたからでした。
 事故の後遺症は全身の麻痺だけではありません。精神的な後遺症もあるのです。そして、それは未だに続いています。こんな思いはいつまで続くのでしょうか? いつかは「あれっ? 気が付いたら事故を起こした日が過ぎていた」なんていう日が来るのでしょうか?

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