強がり

 障害者になってまだ間も無い頃、僕は障害の重さや、それに付随して起こる様々な問題を悲観し、泣いてばかりいました。いつも現実の苦しみから逃れる事ばかりを考え、障害を克服する勇気など何処にもありませんでした。
 何度も何度も自分を見失いそうになり、心の底では「生きたい」と思っていながらも、気が付くと舌を徐々に強く噛んでいました。痛みを感じ、ふと我に返る度に、自分が怖くなりました。このままでは本当に駄目になる! そして障害を克服する自信はありませんでしたが、とにかく、いつまでも逃げてばかりいてはいけない。自分自身が強くならなければ生きていく事が出来ないと思いました。

 何度も深い悲しみが僕を襲いました。気を抜くと負けてしまいそうな僕は必死にその悲しみと闘いました。その姿を見れば、悲しみと闘っている事が一目瞭然だったのでしょう。両親や看護婦さん達がとても心配をして、やさしい言葉を掛けてくれました。しかし、その事がまたつらく感じました。僕は自分の責任で車椅子の生活になってしまいました。どんなに謝っても謝りきれないほどの親不孝をしておきながら、この時もまだ両親や周りの人達に心配を掛けてしまっていたのです。
 悲しみが襲っている時は周りの人達の事など目に入りません。しかし、これ以上周りの人達に心配を掛けたくないという気持ちも強く、次第に強がって見せるようになりました。そして本当に辛い時こそ精一杯の「強がり」で明るく振舞いました。ぎこちない笑顔、異常なまでのハイテンションは周りから見たら滑稽に映った事でしょう。しかし、明るく振舞えば振舞うほど、僕は悲しみや辛さを乗り越える事が出来たのです。
 何故、強がる事で悲しみやつらさを乗り越える事が出来るのか、その答えは分かりませんでした。しかし、強がりは確実に僕の大きな味方になりました。だからと言って、決して気を抜く事は出来ませんでしたが、その後、一つ一つ悲しみを乗り越えていくと、次第に性格は明るくなり、落ち込む事も少なくなりました。
 ある日。両親が、
「最近、精神的に強くなったね!」
と言って喜んでくれました。両親は僕の「強がり」を察し、励ましてくれたのかもしれません。しかし、僕はそれが何よりも嬉しく、また、「強くなったね!」という言葉は僕に勇気を与え、本当に少し強くなれたような気がしました。そして、せっかく両親がそう言って励ましてくれたのですから、「もう心配を掛ける訳にいかない」と、良い意味でプレッシャーになりました。
 ただ、「強がり」には一つだけ弱点がありました。それはやさしさです。やさしさは相手に安らぎと勇気を与えるものですが、時として、皮肉にも人を駄目にしてしまう事もあるのです。いくら強がりで頑張っていたとしても、やさしさを感じた途端、緊張の糸がプツリと切れてしまい、素の弱い自分に戻ってしまいます。本当はやさしさに飢え、悲しみやつらさが強ければ強いほど求めたくなりましたが、素に戻れば自分が駄目になってしまう事が分かっていましたので、それを求める事が怖くて出来ませんでした。求めずとも与えられるやさしさもあります。それに対しても拒みました。自分の事だけで精一杯だった僕は自分が傷付く事だけを恐れ、相手の気持ちを考える余裕などありませんでした。時には強がる事で必死のあまり、「強がり」と意地を張る事の区別がつかなくなり、やさしさを与えようとして下さる相手を傷付けてしまった事もありました。

 僕は人からよく「強い」と言われます。重い障害を背負いながらも笑顔で頑張っている姿が強く見えるのかもしれません。しかし、本当は強くなんかありません。今では障害を受け入れる事が出来ましたので、毎日を楽しく過ごす事が出来ます。障害を受け入れる事が出来た事を強いと言うのであれば、そうなのかもしれませんが、僕は未だに将来の事を考えると、怖くて夜も眠れなくなります。人前ではそんな顔を見せませんので、皆さんに気付かれる事はありませんが、未だに強がる事で必死に悩みや不安と闘っているのです。
 原稿を書くようになってからメールやお手紙をいただく機会が多くなり、時々、「私は弱い人間です」と書かれていらっしゃる方がいます。また、「障害者はみんな強い」とお考えの方も多いです。しかし、人間は障害者も健常者も関係なく、本当はみんな弱いのです。もし、強い人間がいるとするならば、それは自分の弱さを素直に認める事が出来る人だと思います。

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